日隈沙織の休息

 日隈沙織の家庭環境は特筆することの無い、悪く言ってしまえば空虚なものだ。

 好きでもなく嫌いでもなく、単純に関心がない。

 そんな空気が常に家の中に漂っている。


 にしても娘が不審者に襲われて入院したというのに、電話で無事の確認だけしておしまいは酷すぎないだろうか。

 いや、電話をとって開口一番、大丈夫と言ってしまった私も私なのだが。


 階下から私と妹を呼ぶ声がしたので、扉の傍にもたれかかって待機した。

 仮に廊下でばったり会おうものなら、きっと私はなんと話しかけようか悩んだ末に視線を逸らすという暴挙にでるからだ。

 だから母が私たちを呼んでから五分ほど、どうでもいいことを考えながら待つというのが、夕食前の日課になっていた。


 ……異界見聞録の発見から、もう三日が経った。

 美波律子以前のページの記述を元に、八重原・竜崎の2人は学校から数十キロは離れた石油コンビナートの一角で見つかった。

 死因は三人とも失血死。手首を深く切ったのが原因らしい。

 葬儀は親族のみで厳粛に行われ、現在、警察は異界見聞録内の自殺者を全て洗っている最中のようだと、植野楼はメールで話した。


『ところで修二のやつは何やってんだ? ファミレスからなんの音沙汰もないんだが』


『私もわからないです 必要なら明日、家に寄ってみますけど』


『そうしてくれると助かる』


 そんなやり取りをしているうちに、扉の開閉音と足音、続いて階段を下る音が壁越しに聞こえた。

 妹のすぐ後ろをついて行くのも不自然なので、棚の小物を納得するまで微調整して二分ほど時間を潰してから一階まで降りた。


「そういえばさ」


 質素倹約な夕食を眼前に手を合わせてから五分後、妹がだれとなく口を開いた。


 私たち家族の会話の始まりは「そういえば」や「ねぇ」「なぁ」で始まることが大半だ。

 特に私と妹はパパママ呼びからお母さん、お父さん呼びに移行するタイミングを完全に失い、やがて二人称を捨て去る妙技へ至った。


 なので母親は普段通りに「なに?」と返す。


「あの事件なんだけどさ」

「どの事件?」

「……お姉ちゃんが入院したやつ、あれ犯人捕まったらしいよ」


 あまりに突然なもので、米を喉に詰まらせてしまった。

 コップの麦茶を飲み干して、なんとか捻り出した言葉が「ほんとに?」である。


「そういうのってまず私に連絡行くもんじゃないの?」

「だって被害届とか出してないし」

「え?」


 流石は体育会系の母とその血を濃く受け継いだ我が妹である。

 たぶん、この人たちは大往生でもない限り、心から私のことを気にかけることはないのだろう。

 これ以上話しても余計にこんがらがるだけなので、食事もそこそこに席を立った。


「…………あの、植野さん?」

「はいはい植野でーす。 ……ん? 日隈沙織か……」


 電話帳に登録していなかったから分からなかった、彼がそうぼやいたのを聞き流して私は奥野刑事の電話番号を聞き出した。


「おお、丁度良かった。 今日の朝方にな、学校近くの交番に自首しに来たんだよ。 犯人が」

「自首? それで、一体誰が私を襲ったんですか?」

「市街地の南にあるマンションに住んでた、運送業の三十代男性……って言っても分からんか。 必要なら面会でも……」

「結構です」

「だよな。 ……あー、そうだそうだ。 取り調べでわかったことだが、日隈沙織の傷害事件と連続誘拐事件とに関連性はなかった。 男は異界見聞録の存在はおろか美波律子の失踪についても知らないようで、自首したのは弥陀羅のやつに顔を見られたと思ったかららしい」


 その後被害届を出すか出さないかで一悶着あったが、概ねは相槌を打つだけで記憶に残っていない。

 自分でもどうしたものかなぁなんて思っているうちに、気づくと玄関先で靴紐を結んでいた。


「どこ行くの?」


 欠伸をしながら妹が聞いた。

 こういう時、彼女は家族の誰よりも鼻が利くのだ。


「コンビニ」


 そう言ってドアを閉じた。


 門の前までの数メートルの道のりに敷かれた砂利の一つ一つに夕日が反射して、まるで宝石箱のように爛然と床を照らしている。


 変に体重をかけて凹みを作らないよう注意しながら、私はコンビニとは逆方向の住宅街へ足を向けた。

 弥陀羅修二の家がある方角である。


 *


「連絡が無いから心配して来ただ? お前は俺の母親か何かか」

「来て欲しくないならちゃんと返信してください。 植野さんの為にも」


 三日ぶりに会った弥陀羅修二の表情はいっそう険しく、目元には立派な隈が出来ていた。

 ろくに睡眠も摂らないでどうしたのかと問う前に、彼は私を例の暗黒室へ案内し一冊の本を見せた。


「なんですか? その白い本……初めて見ました」


 異界見聞録は真っ黒な外観だったが、弥陀羅が持っている本は何から何まで純白の装丁で、表紙には何も書かれていない。


「中身を見せる前に、状況を整理しよう。 異界見聞録による自殺者は動物を含めて現在、優に百は超えている。 三十年間、あの本は様々な理由で世に不満を持つ人間たちの憎悪と執念を肩代わりし続けてきた。 そして現在、八重原、竜崎を経て美波律子の代で俺たちが発見に至り、警察署にて奥野が所有中。 以上が連続失踪事件の進捗である。 ……違いないな?」

「はい。 奥野さんから聞いてたんですね。 私の件」

「顔を確認できるのが俺しか居なかったからな。 さっきまで署に居たんだ」


 何を話すにも両名の視線は白い本に集中した。

 時々彼が背をなぞったり、角を持って弄ぶのを見て、今か今かと好奇心が昂るのだ。


「この三日間、ずっとこいつを書いていた」


 異界見聞録。

 一ページ目に間違いなく、手書きで、確かに異界見聞録と書かれている。


「異界見聞録…………? なんで……」


 あの本は確か今、行方不明になっている自殺者の捜索に使われているはずじゃ……。


「書いた。 三十分しか時間がなかったら半分しか覚えられなかったがな」

「かっ…………だって、あんな分厚い本覚えられるわけないですよ!」


 それも書き写すなら尚更、教科書の太字部分を覚えるのとは訳が違う。

 二ページ目も、三ページ目も、写真のみを残してほぼ元と同じなんて……。


「まさか……最初っから全暗記するつもりで一時間って言ったんですか!?」

「あんな本、一度警察側に渡したら戻ってこないのは目に見えてたからな。 覚える以外の方法がなかった」


 そう言って自慢げに缶ジュースをあおる彼に私は初めて尊敬に似た感情を向けた。


「……人間業じゃないですね」

「だろ? 完全記憶能力って程じゃないが、覚えるのには自信がある」

「それで、異界見聞録の複製?を作って一体どうするつもりなんですか?」

「言えない」

「はい?」

「言ったらついてくるだろ」


 オレンジ色の裸電球に照らされて、弥陀羅修二の笑みが半分だけ映った。

 性格を除けば顔もスタイルもモデル並みなのだが…………多分、この男は百回生まれ変わっても自称探偵なのだろう。


「だから言えない」


 言うつもりだ。

 彼の口から頼みたくないだけで、誘っているのだと言うことは分かっていた。


 あえて、その誘いに乗るのも悪くない。

 気まぐれにそう思った。


「…………そのガラナなんとかって飲み物、私にも一本下さいよ」


「アンタルチカだ。 別に構わんが――――高くつくぞ?」


「いくらですか?」


「お前の日常生活全てだ」

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