日隈沙織の病状

 窓の外から聞こえる小鳥のさえずりで日隈沙織ひぐまさおりは目を覚ました。

 だが、彼女は目を開けて体を起こす一連の動作を行うことはなく、聴覚と嗅覚が感じ取った違和感へと意識を向けた。


 ベッドの横、仰向けになる私の傍に誰かがいる。

 その人物は動かず、こちらをじっと見つめているようだと、気配で感じ取ることが出来た。


 日隈の普段の家族構成は妹が一人と母親だけだ。

 母子家庭という訳では無いが、父は仕事柄家を空けることが多く、たまの休日には必ず、帰ってくると連絡を欠かさない几帳面な男だ。


 そして母は父とは対照的に大雑把で気の強い人物で、私を起こすときにはいつも鼓膜周りの耳垢が振るい飛ばされる程の大声で叫ぶのだ。


 よって、私は傍の人物を妹だと予想し、瞼をゆっくりと開いた。

 だが、霞がかった視界が晴れゆくと共に先程の推理が無駄だったことに気づく。


「知らない……天井だ……」


 視界いっぱいに白の寒色が広がった。

 我が家の天井も白だが、見知らぬ長方形の蛍光灯で違いを認識し、次にはここが病室であることを理解する。


 私は先程までここが自室であるとして推理を進めていた。

 しかしそもそもの前提条件が違う、それこそ病室となれば選択肢はよりどりみどりである。


「まるでどこかのパイロットのような目覚めだな」


 案の定、父親ではない男性の声が耳をついた。

 男は丸型のパイプ椅子に座って缶ジュースを飲んでいる。

 機能美だけを意識したような全身黒のコーディネートが白に映えて、木の枝のように細い体躯を強調していた。


「……疑問は尽きないほどあるんですけど、聞かなくても説明してくれます?」

「もとよりそのつもりだ。 聞き分けが良くて助かる、……こんな身なりだから、死神に間違えられる位の気はしてたんだがな」


 日隈沙織はおおよそ人間が持ち得る危機管理意識が欠如していた。

 いつからそうなったのかは分からないが、物心ついた頃から刃物で手を切ったり、段差に躓くことが多々あった。


 なので私は目覚めると知らない場所でも、目の前に名前も知らない男が立っていたとしても驚くことはしなかった。

 人より驚くことが多い分、いつの間にか驚くという行為自体に重要性を見いだせなくなってしまったのだ。


「死神ってよりは、まるで帽子掛けみたいですよ」

「……変な例え方をするんだな、お前は」


 まあいい、と飲み干した缶ジュースを卓上に置いて彼は語り出した。


「今日は八月五日の水曜日。 この病院にお前が運ばれてから既に十時間は経過している。 それで、肝心な搬送理由だが……」


 四日の午後十一時過ぎ、彼は暗い夜の街を歩いていた。

 散歩ではなく、彼には明確な目的があって外に赴いたことを説明される。


 その日は近くに台風が通過した直後で冷たい風が肌を撫でて吹く、いわゆるところの「嫌な予感」に当たる夜だったらしい。


「家を出て十分くらいだったか、市街地も抜けようかという辺りで、道を歩く人物を二名発見した」


 一名は私、日隈沙織。

 そして大柄な男が私の後をつけるように歩いていたという。


 そこからまもなく大男は後ろから大した音も立てずに凶行に及び、彼が駆けつけたのを見て逃げ出した。


「正直なところ、犯人の腕を見くびっていた。 背後から気づかれず接近し、手早く日隈沙織を気絶させるとはな。 唐突すぎて声を出すのに精一杯だった」


 済まない。

 そう頭を下げて謝罪する彼にいたたまれなくなった私は、窓の外に視線を外しながら質問した。


「その……つまり、私は不審者に襲われたってことなんですか? 家を出た記憶すらないんですけど……」


 日隈が覚えている最後の場面は、家で母親とドラマを見ていた際の「主演俳優は○○の方が良かった」という議論についての記憶だ。


 夜食の貯蔵や日用品のストックが無くなった時にコンビニへ行く為外に出向くことは珍しくなかったが、こうもすっかり忘れてしまっていては信じられるものも信じられないというのが私の率直な感想だった。


「俺は脳外科医でもなければ医者ですらない。 記憶がないだのと言われても、お前が満足するに値する回答は帰ってこないぞ」


 脳外科医というワードを聞いて頭部に手を当てると、そこにあったのは黒と茶色とが中途半端に入り交じった私の頭髪────ではなく、ザラザラとした布状の物体が眉の上辺りの高さまで巻きついていた。


 そう。包帯である。


「えっ」


 これには流石の私も声が出た。

 彼はポケットから黒い革のカバーがついたスマートフォン端末を取り出して説明を続ける。


「ひとつ勘違いをしているようだから言っておくが、その頭の傷は犯人がつけたものじゃない。 ……犯行に使われた凶器はスタンガン、気絶したお前は地面に強く頭を打ってしまった訳だ」


 彼の乱入により犯人は逃走を図ったが、私を置いて行く訳にも行かず追跡は断念したのだという。

 救急車を呼んだり応急処置までこなしたのも彼らしい。


 私が礼を告げると彼は「別にいい」とそっぽを向いて、既に中身が空の缶ジュースに口をつけた。


「じき警察がきて事情聴取になるだろう。 それまで家族に電話するなりして、無事なことを知らせてやれ。 …………それとだな」


 今度は胸元からメモ帳とペンが出てきた。

 彼は電話番号と住所のらしきものを書き込んで、私に手渡した。


「明日以降、もし気が向いたら連絡してくれ。 犯人が知りたいなら、特にな」


 紙に走り書きで並べられた数列を眺めているうちに、彼は病室を後にしていた。


 引き留めようとは思わなかった。

 何故なら私が紙を受け取った時点で、この事件から逃れることは不可能な気がしたからだ。

 きっと私は、事情聴取がどんなに退屈で疲弊するものだとしても、必ず電話番号をかけるだろう。


 それくらい「体験」に飢えていた自覚がある。


「090…………ん。」


 メモ用紙の隅にアラビア語のような文字でサインが書かれていた。

 それぞれが特徴的な漢字のため、割と苦労せずに彼のフルネームを知ることができた。


弥陀羅みだら……修二」


 それが、弥陀羅修二と日隈沙織の初対面。

 そして、半日に及ぶ事情聴取地獄への序章であった。

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