第12話 裏壁を返す 4
翌日、朝日はどんよりとした雲に遮られその姿を見せなかった。雨曇りの空が広がり、夕方には大雨になるとの予報であった。
花瑠杏は暗い部屋のベットの上で目を覚ました。カーテンの隙間からわずかに見える空は明け方なのか夕方なのかわからなかった。
起き上がろうとした時、手足の自由が利かないことに気が付いた。結束バンドで縛られているようで、動かすと鈍い痛みが走る。声を出そうとしたが口が粘着テープで塞がれていた。
寝転がったまま彼女は周囲を見渡した。この部屋には見覚えがある。あの男の部屋で間違いない。彼女は昨夜の記憶を呼び起こした。
クローゼットにいた男と目が合った瞬間、彼女は叫び声をあげ、思わず腰を抜かした。「ルアちゃん」と名前を呼びながらゆっくりと男は近づいてきた。必死に立ち上がり男の横をすり抜けようとした時、腕を強く掴まれた。その手を振り
改めて部屋を見渡すが男の姿はなく、人がいる気配もない。彼女は這いずるようにベットの
ドアの前には平田が立っていた。コンビニの袋を手にし、髪の毛と肩は僅かに濡れていた。水が滴る前髪をかきあげニヤリと笑った。
「やっと起きたね。ルアちゃん」
その言葉を待っていたかのように雨がザーッと強くなった。呆然と立ち尽くす彼女の目の前でバタンとドアが閉じられた。
「雨降ると学食混むよなぁ」
ジョニーと甚は混雑時を避け少し遅い昼食を食べていた。そこへ派手なピンクの傘を振りながら鈴雫がやってきた。
「ジョニーく~ん。今からランチ?」
「うん、おれら三限ないからゆっくり食べようと思ってね。リンダちゃんも今から?」
「うちはもう食べたよ~。そいえば今日ってカルア見た?」
「いや見てないけど、学校来てないの?」
「うん。今日は一限から必修だったんだけどまだ来てなくて。L1NEしても既読にならないんだよね~」
ジョニーは昨日のことが頭をかすめた。まさかあの後なにかあったのだろうか。ほんの一瞬、怯えていた彼女の顔を思い出した。
昨日の花瑠杏の身に起きたことは、まだ誰にも言っていない。バイトのことは鈴雫たちには黙って欲しいと言われた手前、そのことを話そうかどうか迷った。彼がその場で言い淀んでいると霞美が遅れてやってきた。
「あ~カスミン。カルア見つかった?」
「いえ、思いつく限りの人に聞いてはみたんだけど、誰も今日は会ってないみたいで。とりあえずもう少し待ってみましょうか。最近体調が良くないみたいだったし、もしかしたら疲れて寝ているのかも」
「そだね~。あっ、カルアって妹いたよね? 確かうちの教育学部の一年生って言ってなかった? よし! 探してみよ~」
「ちょっと待ってリンダ!」
ジョニーは苦笑いを浮かべながら彼女たちに手を振った。再び昼食を食べていると甚が彼の顔を覗き込むようにして言った。
「どうしたジョニー。なんか浮かない顔してるぞ。カルアちゃんのこと気になってんの?」
「ん~そうだな……やっぱ甚には言っとくわ」
彼は昨日のことを掻い
「どう思う?」
「う~ん。なんとも言えんけど、最悪その男になんかされた可能性もあるな」
「だよなぁ。やっぱり後でリンダちゃんたちにも伝えるか……」
四限の終了を告げるチャイムが鳴ると同時にジョニーは鈴雫に電話を掛けた。
「あっリンダちゃん? カルアちゃんは見つかった?」
「それがまだ連絡もつかなくて。今からカルアの妹ちゃんと彼女の家に行くとこなの。また後で電話するね~」
彼女はそう言ってから電話を切った。花瑠杏の妹が前を行き、その後を鈴雫と霞美が傘を差して歩いていた。
「ごめんね~
「いえいえ。私もちょっと心配なんで。たぶん深酒して寝てるんだと思いますけど」
傘に打ち付ける雨は次第に強くなっていった。三人は駆け込むように花瑠杏のマンションの入口へと入った。部屋番号を入力しインターホンを鳴らすが反応がない。仕方なく妹が持っていた合鍵を使って彼女の部屋を目指した。
部屋の前のインターホンも鳴らすがやはり応答する気配はない。合鍵を差し込みドアをそろりと開けた。
「お姉ちゃ~ん。おると~?」
妹の華詩澄が部屋の中へと声を掛ける。真っ先に目に入ったのは玄関でぐちゃぐちゃになったいくつかの靴だった。なにかを感じ取ったのか、霞美が急いでリビングへと向かった。
「カルアちゃん! いますか!?」
リビングの床にはバックとその中身が散乱していた。一緒に転がっていたスマホは画面にヒビが入っていた。遅れてやってきた二人はその光景を見て両手で口を押え固まった。霞美は寝室や風呂場などを見て回ったが花瑠杏の姿はどこにもなかった。
「警察に連絡しましょう。あまり物に触らないようにしてください」」
霞美はスマホ取り出すと一、一、〇と番号をタッチした。怯えた様子で寄り添うように肩を抱き合う鈴雫と華詩澄。外はすでに土砂降りの雨となっていた。
激しく降り続く雨を見ながらジョニーと甚は食堂のある建物で雨宿りしていた。雨脚が弱まるのを待っていたが逆に強くなったため、二人で途方に暮れていた。その時ジョニーのスマホが鳴った。画面には霞美の名前が表示されていた。
「もしもしカスミさん? カルアちゃんは家にいた?」
「それが家にもいなくて……部屋の中が少し荒らされていたんです。彼女もしかしたら何か事件に巻き込まれたかもしれません。警察に連絡して今家の中をいろいろ調べてもらってます」
「ごめんカスミさん。ちょっと警察の人に代わってもらっていい?」
これはもうあの男に連れ去られた可能性が高いだろう。ジョニーは昨日のことを含め、知っていることを全て警察に話した。バイトしていた店の名前など、後は警察が調べるだろう。彼は昨夜、強引にでも花瑠杏を家まで送るべきだったと今更ながら後悔した。
電話を切り、甚にも今の状況を話した。
「そうか……もう後は警察に任せるしかないな」
「だよな……一応犯人かもしれない奴の顔は見てるから、後で警察に呼ばれるかもしれん」
ジョニーが項垂れ肩を落としていると、その肩をぽんぽんと叩かれた。
「お久し振りです! ジョニー先輩」
振り返ると高校の後輩だった
「おおっクローバーじゃん! 久し振り!」
「だからクローバーだと三つ葉ですから。私は四葉だからラッキーを付けてください」
「ラッキークローバーとか長いじゃん。そういやうちの大学入るって言ってたな。何学部入ったん?」
「教育学部ですよ~。一応教師目指してますからね。そういやジョニー先輩、なんか彼女と壮絶な別れをしたんでしょ? 風の噂で聞きましたよ」
「壮絶ってどんな噂だよ……」
「なんか彼女の浮気現場を目撃して~次の日、土下座させて別れたって」
「いや土下座とか強要してねーよ。あと見たんじゃなくて聞いたんだよ、彼女の喘ぎ声を壁越しに――」
ふとその時、ジョニーは何かが頭に引っかかった。
そういえばこの前、甚の部屋で二度目の喘ぎ声を壁越しに聞いたな……
「いやそれはそれでどんだけですか!? 私の幸運少し分けてあげましょうか?」
にやつく四葉の頭にチョップをかまし、
「そんなこと言ってると、おまえもいつか彼氏の浮気現場見てしまう呪いかけっぞ」
「私はそんな男と付き合いませんから~」
きゃっきゃっと笑いながら彼女は去って行った。甚が憐れむような顔をしながらジョニーに手を合わせた。
「ジョニーの噂、一年にまで広まってんだな。ご愁傷さま」
「いやそんなんどーでもいい。さっきちょっと気になったんだけど、前に甚の部屋で二回目の喘ぎ声聞こえた時あっただろ? あれってカルアちゃんの声に似てなかった?」
「へ? どういうこと?」
「あの時はまさかなぁって思って言わなかったんだけど、あの声カルアちゃんに似てたんだよ。隣からあんな声聞こえることなんて初めてだって甚言ってたろ? てことは――」
「隣のおっさんが風俗呼んで、それがカルアちゃんだった?」
ほんの一瞬二人は顔を見合すと、弾かれたようにリュックを手に取り豪雨の中へと飛び出した。取り残された二本のビニール傘がバサッと床に転がった。
ずぶ濡れになりながら二人は甚のアパートへと辿り着いた。ひとまず甚の部屋に荷物を置き、隣の部屋の前へと向かう。表札を見ると「平田」と書いてあった。濡れたままの手で甚がチャイムを押した。ピンポーンと部屋の中から音が聞こえる。
「あのーすいません! 隣の花咲ですけどー! 平田さんいらっしゃいますかー!」
激しい雨音に負けないよう、甚が大声でドアに向かって叫んだ。続けて何度かチャイムを押すが反応はない。念のためドアノブを回してみるが鍵は掛かっていた。首を横に振る彼に、ジョニーは二度ほど頷き返し二人は甚の部屋へと戻った。
「留守かな?」
借りたタオルで頭を拭きながらジョニーが言った。
「どうだろうな……一度も話したことないから居留守使われたかも。こんなずぶ濡れだしな」
タオルを首に掛けながらジョニーは壁に耳を当てた。まさかこの部屋でまたこんなことをするとはなと自嘲した。耳を澄ましてみるが聞こえるのは外の雨音ばかり。目を閉じて鼓膜に全神経を集中する。すると僅かに人の声が聞こえた。
「やめろっ……暴れるなっ……」
ドスンドスンと争うような音がした。その瞬間、ジョニーはベランダへと急いだ。
「やっぱり隣にいるぞっ! 甚、警察呼んでくれっ!」
ガラス戸を開けると横殴りの雨が顔を
中に飛び込むと驚愕の表情でこちらを見る男。その足元には下着姿の花瑠杏が横たわっていた。
「カルアちゃんっ!! おいっ! おまえ何してんだ!」
ジョニーが二人に近づくと男はくるりと振り向き玄関へと走って逃げた。花瑠杏に駆け寄り体を抱き起した。彼女は虚ろな目をしていたが意識はあった。口に貼られていたテープをゆっくりと剥がす。
「カルアちゃん大丈夫か? おれが誰かわかる?」
「……ジョニーくん。喉……乾いた……」
彼女は弱々しく呟く。両手が結束バンドで後ろ手に縛られていた。ハサミか何かないかと部屋を見渡していた時、花瑠杏が叫んだ。
「ジョニーくん! 後ろ!」
後ろを振り返ると目の前に男が迫っていた。その手には鈍く光る包丁が。まるですべてがスローモーションのようになった。鋭い刃の先端。なにかを叫ぶ男の大きく開いた口。土砂降りの雨音がすうっと消えた。
ジョニーは花瑠杏に覆い被さるようにその体を抱き締めた。背中に走る衝撃。直後にドサッと人が将棋倒しになるような音が聞こえた。
べっとりと濡れた服が体に纏わりつく。ジョニーはそれがすごく不快に思えた。
ジョニーは病院のベットの上にいた。口には管が挿し込まれ――
「はい! ジョニーくんもっとチューって吸って吸って」
「いやリンダちゃん。おれ普通に飲めるから。ストロー要らんし」
「え~せっかく入院してるんだから看病させてよ~」
「たった二日入院するだけだよ。明日退院だし。おれより甚を看病してやってよ。おれよりひどいから」
「そうだぞ~おれはガラスで足切って十針縫ってんだぞ~」
そうあの時、平田に刺されそうになった瞬間、ベランダから走り込んできた甚が体当たりをした。それで包丁の軌道がずれてジョニーは肩を少し切られた程度で済んだ。そして平田を二人で取り押さえ、警察が到着するのを待った。
「カルアちゃんの様子はどうだった?」
「脱水症状がひどかったみたいだけど、もう大丈夫みたい。今妹ちゃんとカスミンが病室に行ってるよ~。後でジョニーも行ってあげて」
「そうだね。おれらはいいからリンダちゃんもカルアちゃんのお見舞い行っておいでよ」
わかった~と少し不満そうな顔で彼女は病室を出て行った。甚が読んでいた本を閉じジョニーにぽつりと言った。
「これから大変だろうな。カルアちゃん」
「まあな。でも周りがきっと助けてくれるよ」
その後、警察の捜査が進み事件の真相が明らかとなった。平田に花瑠杏の大学や住所を教えたのは店のマネージャーだった。店の周りをうろうろしていた平田に声を掛け彼女の情報を五十万で売った。彼女の部屋の鍵もマネージャーが渡しており、店のロッカーを無断で開け彼女が仕事をしている間に合鍵を作っていた。
平田の方は、傷害、誘拐、監禁、殺人未遂の容疑で逮捕された。逮捕後も反省する様子は一切なく、「おれとルアちゃんは運命で繋がっている」などと意味不明な言動を繰り返していた。
退院当日。ジョニーは花瑠杏の病室を訪れた。随分体力も回復したようで、ニコニコと手を振りながらジョニーを招き入れた。
「助けてくれてほんとありがとう。ジョニーくん」
彼女はベットに座ったまま深くお辞儀をした。手首には縛られた時の痣がまだ痛々しく残っていた。
「いや~たまたまだよ。まさか甚の隣の住人が犯人とは普通思わないよね」
「そうだよね。私のあの声……聞いたんだよね?」
彼女は少し照れ臭そうに下を向いた。ジョニーは目線を逸らし頭をぽりぽりと掻いた。
「う~ん。あいつの部屋は聞きたくなくても聞こえてしまうというか……でも……そのお陰でカルアちゃんの居場所がわかったし!」
「大丈夫。ジョニーくんになら聞かれても。なんなら今度、壁越しじゃなくて直接聞く?」
ふふふと彼女は小悪魔のような笑みを浮かべた。はははとジョニーは誤魔化すので精一杯だった。
窓の外には三日振りに晴れ渡った空が抜けるような青色で染まっていた。
数日後――
甚の退院祝いをするためジョニーは彼の部屋を訪れていた。
「それにしても、この部屋なんか取り憑かれてるんじゃねえの? もう引っ越せよ」
「え~わりと気に入ってんだけどなぁ。家賃も安いし」
「だっておかしいだろ? 両隣であんなこと起きてんだぞ」
「まぁジョニーが引き寄せてるって説もあるけどな。でもしばらくは大丈夫だろ。どっちもいなくなったから」
それから暫く二人でぐだぐだと飲んでいると、天井からドンドンドンという音が聞こえてきた。
「おい、もういいからな……」
おれは天井を見上げぼそりと言った。
「上の階の音もわりと聞こえんだよ」
ほら、耳を澄ませばあの声が――
end
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最後まで読んで頂きありがとうございます。
これで一旦完結とさせて頂きます。
また面白そうなネタが思いつきましたらお付き合いください。
今回登場した桐谷四葉は別作品「散る花びら」の登場人物です。
ジョニーの呪いはちゃんとかかっていたようですね……
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