第1話 邂逅

 その家には、座敷童子が住んでいた。


 彼は、優しい主人のもとで平和に暮らしていた。


 ある春の日、突然ネコが生まれた。


 邪悪なネコは、幸せな家を壊してしまった。


 座敷童子は散り散りになり、その家には大きな厄災だけが残った。


 季節は、崩壊していく――。






 ――どしゃっ、ぐしゃり。


 大きな音を立て、百合花は地面と衝突した。彼女は空を仰ぎ、ぴくりとも動かない。


 滲みだす血、垂れ流される脳漿――。じわじわと、取り返しのつかない現実が、全に襲い掛かった。


「あ"ああああああああああああああああああああああああああ!!」


 片方の手で握られた柵が、ぐしゃりと歪む。もう片方の手は、はるか下にいる百合花へと伸ばされたまま。全は、慟哭した。


 彼女と過ごした日々が、走馬灯のように脳を駆け巡る。記憶の中の彼女は、めまぐるしく表情を変えるのに、眼下で横たわる現実のそれは、もう、動かない。話さない。笑わない。――命が、ない。


「何故、悲嘆」


 絶叫する全の頭上に、ノイズのような声が降る。慟哭にかき消されず、やけに通るその声。全は涙を流し、歯を食いしばりながら、声の主を見上げた。


「それ程、あの女を愛すか」

「ウ"ウウウウウウ……っ貴様ああああああああああ!!」


 全の爪が鋭くなる。軽々と屋上へと降り立つと、鋭利な爪で青髪の怪異を切り裂いた。眼前の憎いへ、果てしない殺意を込めて。


 ――すると、怪異の身体は、ばしゃりと音を立てて、液体へと変化した。


「っ!」


 とっさに顔をガードする。液体は何の現象も引き起こさず、ただの水だと推測された。


 液体は、次第に量を増し、全の腰ほどの位置まで満たした。水面には、月がゆらゆらと写っている。


「何だ、コイツ……」


 あまりに異様な形態に、顔を顰める全。


〈……撤回。オマエがあの女を愛す、違う〉


「……!?」


 どこからか、声がした。


〈オマエは理解不可能。何故なら愛情を受けた経験がないから〉


「どこだ! どこにいる! 出てこい、卑怯者!」


 辺りを見渡すが、誰もいない。ただ、水がわずかに波打つばかりだった。まるで、この液体こそ〈オレ〉だと言うように。


〈愛を知らない。故に好感の種類が認識不可。……故に、オマエは猫の言葉に流され、好きな女を犯した〉


「好き勝手ほざくな、このクソ野郎!!お前が何を知ってるっていうんだ!!」


 全が怒声をあげた、その時。


「っ何だ!?」


 突如、液体が激しく流動し始めた。その勢いはすさまじく、屋上の柵が悉く剥がされていった。水流には為す術もなく、全は屋上の外へと流されてしまう。


は、溶ければ全部理解を得る〉


「――――――っ!」


 全の身体が投げ出された瞬間、液体が消える。その直後、再び彼の眼前に、青髪の怪異が現れた。


〈それでも“オレ”は――〉


 全の唇に、怪異の唇がそっと重ねられた。


〈オマエを愛す〉


「――――――――!?」


 怪異の身体は溶け、再び液体となって全の身体を濡らす。全は、真っ逆さまに地面へと落ちていった。




 ――同時刻、ショウと亜希。


「っきゃあ!?」

「うおぉ!? 何だ、今の音!」


 青髪の怪異によって落とされた柵の音に、外へ向かっていたショウと亜希が驚く。


「一体、何が起こってんだ……」

「分かりません、が……」


 少し躊躇った後、亜希が覚悟を決めてショウを見た。


「行かなければならない。そんな予感がします」


 いつもは気弱な彼女の強い眼差しに、ショウは戸惑いを覚えた。しかしすぐに、それは己の思い込みだったと解した。


「そうだな。行こうぜ、亜希」


 長い前髪の裏側には、いつだって、美しい金色の目があったのだ。



 ――昇降口を出て、前庭へ出る。そこにあったのは、2つの肉塊。


 仰向けの状態で、脳漿を垂れ流している百合花と、うつ伏せに倒れ、手足をあらぬ方向に曲げている、全――。


「う……」

「見るな、亜希」


 凄惨な光景に怯える亜希の目を、ショウが塞ぐ。冷静な行動だが、彼もまた、内心では酷く動揺していた。


 たった昨日、普通に話していた者が、凄惨な死体と化している。その事実は、膨大な数の人間を壊してきた彼でも、受け入れるのは困難だった。


「園城さん……何で……?」


 一体何故。昨日の時点では、「赤い図書室」により彼女の安全は確保されていたはず。


 たった1日の間に、何が起きたというのか――。思考が錯綜する。ショウはただ、死体を見下ろすことしかできなかった。



 ――――バキッ!



 突然、骨が折れたかのような音が鳴った。


「……え?」


 ――――――ボキッ、ミシミシ、ベキィッ!!!


 全の体が、奇妙な音を立てながら、魚のように跳ねていた。1つ動くたびに、関節があり得ない方向に曲がる。


「な、何の音……? 何が起きてるんですか!?」


 目を塞がれている亜希は、今起きているグロテスクな光景が見えていない。だが、ショウはその一部始終を目の当たりにした。


 四肢が捩り曲がった人間が、ひとりでに再生するのを――――。



 ――――ゴキンッッ……。


 ひときわ大きい音が鳴ると、全は何事もなかったかのように身を起こした。


「……見世物じゃないんだ。見ないでくれ」


 全は、2人に背を向けたまま、ぽつりと言った。


「それとも何だ。そんなに、化け物に興味があるのか」


 ゆっくりと、全が振り返った。その顔を見て、ショウは息を呑んだ。


 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃。ショウは狼狽しながら、わななく唇を開いた。


「……っあ――――、あ、き……?」









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