短編集(書き出し多め)
Ab
#1
人生というのは、結局のところ金が全てなのである。
富も名声も力も全て金のあるところに集まり、金のないところにはゴミと虫と僅かばかりのドラマチックな出会いとが集まっていく。
しかし、そんなものが何の役に立とうか。
人間という承認欲求の塊が、僅かな出会い、一握りの愛で満足できるはずがない。
「私、高木先生に……その、相談したいことがっ、ありまして」
「そうか、それは……今朝も、聞いた」
「しゃ、喋り方真似しないでください! これは緊張からくるもので、素の私ではありましぇん!」
「そうでしゅか」
「噛んでません!」
「指摘してない」
教師である|高木(たかぎ)|鹿目(かなめ)は、目の前の女子高生が涙目で睨みつけてくるのを無視して椅子に座った。
「それで相談って?」
「それよりもまず人の話を──」
「椅子にも座ったし聞く姿勢はできてるんだけどなぁ。椎名もまず座れよ」
「私はこのままで結構です!」
「この席の子が好きなのか? なら別の椅子と取り替えて良いぞ」
「ち、違います! 意味不明なこと言わないでください。だいたいこの学校の生徒はみんな女子です」
「女の子同士は趣味じゃないのか?」
「私は、お、男の人が好きです!」
「照れるなぁ」
「せ、せせ先生とは言ってません!!」
「というか早く座れよ。そんな短いスカートで生脚晒して着席もしないなんて、あーなるほど見せてくれてるのか」
「座りましたけど!」
|椎名(しいな)|美帆(みほ)が勢いよく座り、向かい合わせた机を押してくるので負けじと押し返す。
鹿目は教師ではあるが、教師という仕事に何の誇りもプライドもない男である。
ただ何となく子供時代を過ごし、何となく教育学部に進学し、何となく受けた講義で金の大切さを知った頃には大学生活も終わりかけていた。教師になった経緯はそんなものだ。
しかし、鹿目は教師という仕事を悪く思っているわけではない。むしろ他の仕事でなくて良かったとさえ思っている。
なぜなら教師は、将来大金持ちになるかもしれない生徒に恩を売りつけることができる。
そして、鹿目の務めるお嬢様学校は、将来なんて待たずとも、現在進行形で大金持ちのお嬢様がわんさかいるのである。
(絶対に一番の大金持ちを俺の女にしてみせる)
そう誓ったのは、鹿目が学校のホームページで教員募集を見ていた一年と少し前のこと。
「先生力強いです!」
「手加減して欲しいか?」
「そんなわけないでしょう!? ふぬぬ……!」
「頑張れ頑張れ」
「あとで護衛の人に手伝ってもらうとします」
「ごめんなさい」
一年以上かけて、鹿目は家族まで含めた生徒全員の地位や経済力を調べ上げた。教員なので資料はいくらでもあったのだ。
そして、結論。
椎名美帆こそ、この学校一の経済力の持ち主である。
だからこそ、相談があるから放課後に話したいと声をかけられた時に、鹿目は勝負の日を今日に決めたのだ。
「それで、相談というのは何でしょうか……」
「何で敬語になるんですか……呼びませんよ、護衛なんて」
「よっしゃセクハラし放題だ」
「父は名の馳せた弁護士です。あなたの弁護をしてくれる弁護士は、警察に有利な証言をすることでしょう」
「ただでさえ金持ちの家柄なのに司法まで! くっ……俺は無罪だ! 同意があった!」
「だ、だりぇが同意なんて! はぁ、本当に先生は……別の方に相談しようかしら」
「よし、俺は有罪だ」
「認めましたね。さようなら」
「認めたら相談してくれる流れじゃないの!?」
はぁ、と再びため息をついてから、美帆は立ち上がった。
出ていくつもりなら多少強引にでも止めるつもりだったが、美帆の目的は自分の机に置いてある水筒だったようで、水筒を手に取るとすぐに戻ってきて着席した。
コップの形をした蓋を外し、そこにたぷたぷとお茶を注いでいく。
性格は置いておいて、美帆の容姿は清楚という言葉を欲しいままにしていた。
お茶を注ぐという所作ですら美しく、机の下まで伸びる滑らかな黒髪は流れ落ちるお茶よりよっぽど綺麗で、小さな手の白磁色が黒髪の魅力を更に引き立てている。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取ったお茶を口にすると、体の内から涼んでいくのが分かった。
「美味い」
「それは良かったです。結構高級な茶葉を使っているんですよ」
「値段は聞かないでおく」
「先生の給料二ヶ月分でも足りないくらいです」
「聞かないでおくって言ったのに! ひ、日々徳を積んでいて良かった」
「お茶代分はしっかり働いてもらいます」
「嫌だ! せめて現金を寄越せ!」
「現金……まあ、それでもいいですけど」
「この世界一頼りになる先生が何でも相談に乗ってやろう。銀行強盗でも何でも来い!」
「ど、どれだけお金が欲しいんですか……」
「愚問だな。たくさん欲しい」
「そ、そうですか」
鹿目の純粋な欲望に苦笑すら浮かべられず、美帆は「こほん」とわざとらしく咳払いをした。
美帆が背筋を伸ばすと同時に鹿目も姿勢を正し、お茶を飲んだ。
「先生は、好きな人とか……いますか?」
「……え?」
「だから、す、好きな人……いるのかなって」
突然の質問。
敬語までやめて伏せ目がちに、美帆は唇を結んで頰を紅潮させた。さっきまでの反発的な雰囲気は消え去り、一気に小動物のような、可愛らしい表情に変化する。
お嬢様の恥じらう顔は否応なしに鹿目の居心地を悪くさせる。が、心の奥で笑みが溢れる。
(……ラッキー)
「どうだろうな。この学校は可愛い教員多いからなぁ」
「教員……」
「あるいは生徒かも」
「生徒!」
美帆の暗と明が激しく切り替わり、鹿目は確信した。
これは、俺だ、と。
「何で急にそんなこと聞くんだよ」
「相談があるって、前振りはしました」
「あー、確かに?」
「そ、それで」
「ああ、いるよ」
「へ、へぇぇ、いるんですね。それより少し暑いのでコップ返してください」
言われた通りにコップを渡すと、美帆はそこにお茶を注ぎ足し慌てた様子で飲み干した。
ふぅ、と息を吐いた美帆の潤んだ唇に、鹿目の視線が無意識に引き寄せられる。
瑞々しく柔らかそうな唇。
たっぷりと凝視してしまえば、美帆に気づかれてしまう。
そう頭では分かっていながらも、鹿目は目を逸らすことができなかった。何度試みても失敗してしまう。
案の定視線に気づいた美帆から無垢な瞳を向けられ、鹿目は目が合ってからようやく視線を逸らしたが、あまりにも遅すぎた。
美帆は立ち上がり、ゆっくり鹿目に近づいてくる。
「その好きな人、って……わ、私……」
「……ぁ、っと」
30センチにも満たない距離。
催眠術のように揺れる髪。
流れてくる甘い香り。
荒れひとつない肌が織り成す完璧な表情。
なにより、その小さなピンク色の唇がどうしようもなく鹿目をダメにする。
だが、どうにか脳を回転させてみれば、鹿目にとって悪いことなど一つもない。
「……そうだ、って言ったら?」
「……それはずるいです。先生から──」
意味深に言葉を切り、さらに顔を近づけてくる。
吐息がかかるほどの距離。
美帆が目を閉じ、相手を求めるかのように口を小さく開け。
鹿目の理性は限界に達した。
目的は悪魔でも美帆の財力。
そう言い聞かせていられた時間は刹那にも満たなかった。
稲妻のような、ぬるま湯のような。
ずっと味わっていたい快楽に全身を侵される。
最中舌を軽く噛まれ、意識が僅かに浮上する。
「……ダメですよ。教師が生徒に手を出すなんて」
意地悪く笑う美帆の背中に手を回し、鹿目は返事もせず美帆を貪った。「んんっ」と漏れてくる声が、鹿目の欲を繰り返し刺激する。
しばらくして。
窓から差し込む夕日に黒が混じり始めた頃。
「それじゃあ先生。私は用事も終わったので、帰りますね」
「……ああ」
「ふふっ、続きはまた明日。駅前のコンビニに10時集合ということで。土曜日ですが、仕事は……休んでくれますか?」
「……そりゃ、もちろん」
「では、また明日」
「またな」
そう言って別れ、鹿目は仮病を使うことに決めた。
***
翌日。
どんよりとした曇り空の下。
通勤時間を避けた午前10時の駅前のコンビニには、ほとんど人がいなかった。ましてコンビニ裏の狭い通路ともなれば、少しはいるはずの人の気配もまるで感じられない。
「おはようございます、先生」
「あ、ああ、おはよう」
約束通り鹿目は美帆と会っていた。
しかし、いやらしいことをする気にはまるでなれない。
「初めまして。美帆の父の、椎名拓也です」
左襟につけた弁護士バッジを輝かせながら、拓也は鹿目に会釈した。その左腕に美帆が絡みつく。
「さっそくですが、高木先生には私が裁判で勝つためのお手伝いをしていただきます」
「……はい?」
「ん……説明していないのかい美帆」
「ごめんパパ。思ってたより先生の性欲が強くて、昨日はそれどころじゃなかった。でも連れて来たよ」
「なるほど……」
銀縁の眼鏡を右手の中指で押し上げ、無表情のまま溜息をこぼす。
「私は無敗の弁護士。一度の黒星も許されない」
「はあ」
「しかし、今回の依頼は明らかに黒。弁護はこじつけにしかなりません。なので先生には、裁判官の娘の家庭教師として裁判官に近づき、買収していただきたい。金額は問いません。報酬も弾みましょう」
「……いやいやいや」
そんなもの断るに決まってる。
金は欲しいが、鹿目にそんな犯罪を犯す気はない。
「ちなみに、逃げることは許されません」
そう言って拓也は胸ポケットからボイスレコーダーを取り出し、再生させた。
『ダメですよ。教師が生徒に手を出すなんて』
続く美帆の吐息混じりの声。
鹿目は一歩退き、拓也ではなく美帆を見た。
昨日とは違う、悪戯っぽい悪魔の笑み。
「言うこと聞いてくださいね、先生」
人差し指を口に当て、妖艶に呟いた。
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