桜の森の満開の中

洞貝 渉

1

 まるで異界だった。

 行けども行けども変わらない風景……いや、どこもかしこも変化し続け停止することなく動き続ける景色。

 狂おしいほどに儚く、淡く、壮麗な。

 ハラヒラと舞い踊るあまりにも小さく柔らかな色彩。

 見渡す限りの桜吹雪に、私は呆然と見入ることしかできない。

 本当に、今すぐにでも狂ってしまえたならどんなによかったことか。

 夢の中にでも入り込んでしまったような、奇妙に浮遊した感覚だった。

 でも、逆なのかもしれない。

 こちらが現実で、今まで現実だと思い込んでいた日常の方が、実は夢だったのかもしれない。


「ちょっとあんた、何してんの?」

 急に腕を持ち上げられ、無理矢理立たされる。

 私はどうやら、地面にへたり込んでしまっていたようだ。

「トイレからいつまで経っても戻ってこないんだから、心配したよ」

 声の主は、まったくもう世話が焼けるんだからと私の体を支え、歩き始める。

 くらくらする頭に、断片的な記憶が浮かんでは消えていく。

 お花見に来た。友人たちと。酒と簡単なつまみがおいしくて。春風が地味に肌寒くて。トイレ? そうだったっけ? 私はトイレに行こうとして一人桜の中にいたんだっけ?

「ほら、酔っ払い。自分の足で歩け」

 声の主がはっぱをかけてくる。

 私はどのくらいお酒を飲んだのだろうか。

 体がふわふわして、足に力が入らない。

 幾重にも花弁が層になり、薄く色づいた地面を眺めながら、何かを思い出しそうになる。


 ——コーヒーを飲んだ。

 ペットボトル入りの、甘いコーヒーだった。

 散る桜が視界に入り込み、なんだか急かされているような、断罪されているような、ひどい気分だったのを覚えている。

 これがコーヒーだって?

 しかめっ面をしたのは誰だったか。

 こんな甘ったるいジュース、コーヒーなんかじゃないよ。コーヒーっていうのはもっと。

 茶色い液体がボトルの中でごちゃごちゃと揺れる。

 嫌なら飲まなければよかったのに。

 思わず出た独り言。

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