第2話、および第2話

 他人に理解されなくても構わないと思うようになったのはいつからだったろう。


「あの、もし人違いだったらごめんなさい。もしかして宍戸ししど君?」

 ある休日の午後。近所のカフェで少し値の張る珈琲に舌鼓を打ちながら最近買った文庫本を読んでいた自分に声をかけてきたのは、カウンター席で隣に座っていた女性だった。一瞬ナンパや勧誘の類かとも思ったが、相手に告げられた名前が合っていたことからおそらくそれはないだろうと、声をかけてきたその女性の顔を改めて注視した。まっすぐで黒い長髪に、椅子に座っていても分かる控えめな背丈。黒目が大きく見える瞳。

 そして、記憶の引き出しの奥に仕舞っていた懐かしくも苦い思い出が蘇る。

「———梅原うめはら、さん?」

「やっぱり!久しぶりだね宍戸君」

 彼女の名は梅原ひとみといい、高校時代の同級生だった。

 自分と特別仲が良かったわけではない。だが、高校入学当初の時期に多少の接点はあった。それだけの間柄で、世間基準でいうところの“友人”には程遠い。

 高校を卒業して地元を離れ、十年以上の月日が流れた今になって彼女と再会するのはどういう運命の悪戯なのだろうと自分は恨めしく思う。

 梅原瞳が宍戸あきらの“友人”だったという歴史的事実は存在しないが、彼女は自分に一つの未練を残した存在だった。

 一体どうして、自分は今日この時間にこの喫茶店に足を運んでしまったのだろうと後悔するほどに。


 高校時代、端的に言えば自分は周囲から浮いていた。

 周囲と馴染めない致命的なハンディキャップがあったわけではない。誰かが自分に何かしたわけでもない。ただ、当時の自分の価値観が周囲の理解を得られなかった。要約するとこの一言に尽きる。

 校則で禁止されていること―――たとえば髪を染めたり、こっそりアルバイトをしてみたり―――を当時の自分は平然と破っていた。有り体に言えば『高校デビュー』を試みていた。何か深い理由があったわけではなく、自分がそうしたいと思ったことに従っていただけだが、歳を重ねた今になって思い返すと随分破天荒な真似をしていたと思う。もう少し自由な校風の高校ならまだ許容されていたのかもしれないが、実際に通っていたのは規律と伝統で硬直化した進学校で、よく言えば真面目、悪く言えば学校も生徒も事なかれ主義が目立つ変化のない場所だった。進路選択を間違えたと思ったときには、自分が学校という狭いコミュニティの中で孤立していると気づいて振る舞いを改めたときには既に手遅れだった。

 そんなわけで、自分には高校時代の楽しい思い出などほとんどない。昼食はいつも一人で食べていたし、文化祭やら何やらの行事なんてぼっちには苦痛以外の何物でもなかった。あの頃の自分はスタートに失敗した高校生活にとっとと見切りをつけて大学に進学し、新天地で人生をリセットすることしか考えていなかった。そういう後ろ向きな情熱も後の受験勉強の火種の一つにはなったわけだが。

 そういう、青春と呼ばれるものからは程遠いところにいた自分だが、入学したての時期に少しだけその後ろ髪を見ていた時期があった。

「あ、宍戸君。お疲れ様」

「あぁ、梅原さん」

 あの頃は電車通学だったが、地方の電車は都会のそれとは違ってダイヤが少ない。なので一本乗り過ごすと数十分待たされることはざらで、同じクラスで同じ電車を使っていた彼女とは時々こうしてホームで待ちながらとりとめのない立ち話をすることがあった。普段学校に居る時はしないというのに。

 当時はまだ同じクラスになったよく知らない女子という印象しかなかったが、彼女がかなりの才女だということを知ったのは彼女との細い縁が切れた後のことだ。二年後には生徒会長にまでなっていたのだから。

 あの頃、彼女と具体的にどんな話をしていたのかはもう覚えていない。一体いつから彼女との縁が切れたのかも。

 ただ一つ自分の中に残っていたのは、“もし自分が選択を間違えず普通の高校生活を送っていたなら、彼女との関係ももっと違うものになっていたのではないか”という後味の良くない、客観的に観れば見苦しいことこの上ない未練。

 だが過ぎたことをいつまでも気にしては仕方ないと、今と先を見つめて今日まで振り返らずに生きてきたのだ。なのに。


 ———どうして、今になって現れるんだ。

 今目の前にいる梅原瞳は、あの頃とあまり変わっていない。自分と同じだけ歳を重ねたのだから今は三十路間近のはずだが、あまりそういった時の流れを感じさせない風貌。きっと彼女の愛想が良く、よく笑う人柄も手伝っているのだろう。

「宍戸君は今何してるの?」

「コンサル系の会社で働いてるよ。そっちは?」

「私は建築会社で事務仕事。今日はオフの日でたまたま見かけたこの店に入ったんだ。感じのいい店構えだったし」

「俺もここはお気に入りでね。店内の装飾も凝ってるけど押しつけがましくないというか、居心地が良いんだ」

「あ、分かるなぁ~。私喫茶店巡るのが趣味なんだよね。いいとこ見つけちゃったな」

 淀みなく会話は進む。あの頃と何も変わらない、無意味とは言わないが有意義からは遠いやり取り。だが自分が彼女とこうして会話することができていたのは高校入学当初の一、二ヵ月くらいで、残りの三年近くは他人同然だった。そして卒業してからは十年以上会っていなかったというのに、どうして彼女は普通に話せるのだろう。

「そういえば宍戸君、何年か前の同窓会には来なかったよね」

「………」

 痛いところをつかれた気分だった。別に『卒業生は高校の同窓会は絶対に出席しなければならない』という校則まであの学校にあったわけではないし、自分と同じように参加しなかった同窓生だって絶対にいたはずだ。しかし彼女のその言葉に後ろめたさを覚えるのは、欠席したのはやむにやまれぬ事情があったわけではなく単純に“行きたくなかっただけ”という理由だから。それはそうだろう。当時の自分には友人と呼べる相手が誰もいなかったのだ。月日が流れればいつの間にか友人が増えるはずもない。

 数秒ほど返答に詰まっているうちに彼女は続けた。

「私ちょっと寂しかったかも」

「お世辞でも嬉しいよ」

「バレたか」

「ひどい話だ」

 そう冗談を言って彼女が笑うので、自分も作り笑いを浮かべておく。彼女が自分の不在に何も思っていなかったことに対しても自分は何も思わなかった。彼女とは友人でも何でもなかったのだから。

「でも、うん。宍戸君が元気そうにしててよかった。他の人も宍戸君がどうしてるか知ってる人いなかったし」

 それはそうだろうと曖昧な笑みを返した。

「宍戸君、ちょっと変わったよね」

「え?」

「憑き物が落ちたというか、角が取れて丸くなった感じって言えばいいのかな。大人になったんだなって」

「そりゃ、それだけ歳とって社会人やってるわけだしね」

 そう返しつつも、彼女が言わんとしていることは理解していた。あの頃の破天荒な、ともすれば奇行とも捉えられるだろう行動に走っていた時期を知っている彼女からはそう見えるだろう。

「でも同時に、なんだかよく分からない感じ」

「え?」

 彼女は注文していたカフェラテを飲み干してからもう一度こちらを見て言う。

「高校の頃も変わった人だなと思ってたけど、今は今で不思議な印象。雰囲気は丁寧で穏やかだし話しやすいけど、宍戸君の肝心な部分がすっぽり隠されてて見えないというか」

 他人に理解されなくても構わないと思うようになったのはいつからだったろう。

 他人に理解されることを諦めたのはいつからだったろう。

 他人に期待しなくなったのはいつからだったろう。

 ———あぁ、多分。

 ———俺が梅原さんと口きかなくなったのって、自分からそうしたんだな。

「………謎めいてる男はモテるって聞いてね」

「それ、『女は秘密を着飾って美しくなる』ってやつのパクリ?」

「今はジェンダーも多様化が叫ばれてる時代だからね」

「もう。指輪嵌めてるのもそういうこと?」

 そう言って彼女は自分の左手小指に光るものを指さした。

「あぁ、これか」

 飾り気のない、そこらの小洒落た店にも売っていそうな大した価値もないであろう品だ。以前外を歩いていた時に落ちているのを偶然拾って、以来なんとなく身につけている。明らかに値の張る結婚指輪みたいなものであればさすがに然るべき場所に届けただろうが。

「ピンキーリングなんてセンスいいね、宍戸君。左手小指の指輪の意味は、“幸運を呼び寄せる”だっけ」

「そうなの?」

 単に他の指だとサイズが合わなかったから小指に嵌めていただけなのだが。

「薬指に嵌めてたらさすがに声かけるの躊躇ってたかも」

「あいにく、俺の魅力に気付いてくれる女性はまだ現れてないよ」

「気付いてもらうんじゃなくて、気付かせる努力はしてるの?」

「………」

 そんなことはしていない。気付いてもらいたいとも思っていない。気付いてほしくないとすら思っているのだから。

「まぁ、今日のはその指輪が助けてくれた感じかな」

「え?」

「宍戸君さ、よかったら連絡先、交換しない?」

「どうして?」

「私、最近こっちに引っ越してきて知り合いがほとんどいないからさ。宍戸君カフェとか好きみたいだし良かったら時々お茶できたらなって」

「でも大丈夫なの?梅原さん、あー、彼氏とか」

 面と向かって聞くのも失礼な気がして曖昧に訊ねてしまう。彼女はにっこりと笑って答えた。

「あいにく私も、魅力に気付いてくれる男性がまだ現れてないから」

「そうなの?」

 意外だった。学生時代の彼女は優等生で、自分のようなはみ出し者にとっては高嶺の花だったから。もう三十路間近なのだからとっくに結婚して幸せな家庭でも築いていそうなものだと思っていたのに。

「そうなの。で、どう?」

 こちらに差し出される彼女のスマートフォンをぼんやりと見つめながらふと思う。誰かと連絡先の交換を最後にしたのはいつだっただろうか。少なくとも社会人になってからは、ないはずだ。つまりそれだけの時間、新しい出会いが自分にはなかったということ。そのことに今まで思い至らなかったくらいには、それをなんとも思っていなかった。

 今ここで彼女と連絡先を交換したとして、その後彼女との関係が進むことはあるのだろうか。それを自分は望んでいるのだろうか。当時の自分なら、一人で電車を待つホームに彼女が現れて声をかけてきたとしたら嬉々として振り向いたかもしれない。

 ———今更、何を期待するというんだ。

「やめた方がいい」

「どうして?」

 拒絶されたというのに微塵も表情を変えないまま彼女が訊ねた。彼女もまた、何も期待していなかったのだろうか。

「俺なんかと一緒に居て楽しいことはないだろうし」

「そう?私は今楽しいよ。なんでも吸い込んでくれる防音壁と話してるみたいで」

「だったら壁とでも話していればいいのに」

「………さっき宍戸君が変わったって言ったけど、根っこは変わってないみたいだね」

「?」

「宍戸君、高校時代のいつからか私のこと避けるようになったでしょ?」

「いや、別に—――」

「あの頃の宍戸君の周りにはいつも“話しかけるな”って雰囲気が満ちてて、他の人たちも絡みづらいってよく言ってたんだよ、知ってた?」

「え?」

 まるで当時の同級生たちが自分に興味を持っていたとでも言うかのような口ぶりに、少しだけ戸惑った。

「今日再会して話してみたら雰囲気が変わってたから、今なら仲良くできるのかなって期待してたんだけどな。残念」

 そう言って薄笑いを浮かべた彼女は静かに席を立ち、伝票を持って店のレジに歩いて行った。

 彼女を止めようともせず、ただじっと座って手元のコーヒーカップを見つめる自分の顔が、容器に残った黒い水面に映っている。

 カップの珈琲を一口含んだ。時間が経って熱が冷めてしまったせいか先程までより幾分味が落ちたように感じる。そのままカップを机に置いて力なく腕を下ろした時、小さな金属音が聞こえた。音につられて床を見ると、左手に嵌めていた指輪が落ちていた。拾い物のピンキーリング。

 ———左手小指の指輪の意味は、“幸運を呼び寄せる”だっけ。

 先程彼女が語っていた言葉を思い出す。

 ゲン担ぎがしたくて身につけているわけではないし、占いの類は特別信じていない。

 ———今更、何を期待するっていうんだ。

 ———もう終わったことだ。未練がましい。

 落ちた指輪を拾おうと手を伸ばして、ふと思う。今の自分が抱いている諦念は、当時の自分が抱いていたものとなんら違いがないのではないだろうか。自分はあの頃と同じ過ちを繰り返そうとしているのではないか。

「………」

 席を立ち、レジで精算を済ませて店の外に出た。焦らず、呼吸を乱さず、自然に。

 自分は何も期待していない。梅原瞳に対する未練なんてものはもう自分には存在しない。

 だがもしこの世に本当に幸運だとか運命だとか神の意思なんてものが存在するのなら、店の外に出てもまだ梅原瞳の後ろ姿が見えたのなら、もう一度彼女に声をかけてみようと思ったのだ。

「………」

 街の雑踏の中に、彼女の姿はどこにもなかった。

 期待していなかったとはいえ、どこか後味の良くないものが自分の奥底から込み上げてくる。自分の愚かさを嗤うように口角を持ち上げたとき、トントンと何かが背中を叩く感触があった。

「———梅原さんって実はスパイか探偵だったりする?」

「声をかけてほしそうな背中が見えたからつい。あと別にスパイとかじゃないし。レジで会計した後にお手洗い借りてただけだよ。先に店を出たと勘違いしたのは宍戸君だし」

 振り返ると、意地の悪い笑みを顔に貼りつけた梅原瞳が居た。

「どうかしたの、そんなに急いで」

「別に急いでたつもりないんだけど、一つだけ梅原さんに言い忘れたことがあったのを思い出した」

「なに?」

「ここの近所に不定期に営業してる美味い喫茶店がある。おすすめ」

「ありがと。でも不定期かぁ。営業日が分からないと困るかも」

 あくまでわざとらしくそう言う彼女にとうとう自分は観念した。

 あるいは諦念か。


 店に落とした指輪を拾い忘れたのに気付いたのは彼女と連絡先を交換して別れた後のことだ。

 彼女の言った通り、あの時の自分は急いでいたらしい。

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