君と僕の知らない物語

棗颯介

第1話、あるいは第3話

 少しだけ悪い子になろう。そう思った。

 今は深夜の一時を少し過ぎた頃。両親は寝室でとっくに休んでいる。壁越しにも聞こえてくる父の豪快ないびきがその証拠だ。今この家で起きているのは私だけ。両親が目を覚まさなければ今なら何をしても私を咎める人はいない。思春期真っ盛りなクラスの男の子たちなら親が寝ているのをいいことに肌色が多いウェブサイトを覗いたりするのかもしれないが、私は違った。

「………」

 声を押し殺し、寝室で眠る両親の耳に足音が届かないよう細心の注意を払って歩を進める。うっかり床を蹴らないよう慎重に靴を履いてゆっくりと玄関のドアを開き、外の音が家の中に響かないうちに扉をくぐって外から鍵をかけた。

 カチャッ、と短い音が鳴った瞬間、解放感と同時に僅かな罪悪感が込み上げてきた。これから私がやろうとしていることは深夜徘徊。大人ならともかく、まだ十五になったばかりの中学三年生がやって褒められるようなことではないのだから。

 でも、今更部屋に戻るのもなんだかもったいない気がして、私は見慣れた玄関のドアに背を向けて夜の町に繰り出した。


 私が住んでいるこの町は、何もない。限界集落だとか見渡す限り水田が広がっているド田舎だとか廃墟で溢れているとかそういうことはない。買い物や外食には困らないだけのお店はあるし、大通りに出れば昼間はそれなりに車は走っている。要はどこにでもある普通の町だ。

 普通の町だから、夜は本当に人の出が少ない。夜中まで営業している店がそもそも無いからだろう。今こうして夜の町を歩いていて実感する。車なんて滅多に出くわさないし、歩道にも人影なんて見えやしない。昼間に休みなく働いていた信号機は今は黄色く点滅してぐっすりお休み中のようだ。いつも見慣れていたはずの風景が、まったく違って見えた。まるで夜の間だけこの町が私のものになったような感覚を覚える。私を止める人は誰もいない。

「自由だ………」

 思わずそんな言葉が漏れるほど、それは私にとってセンセーショナルな体験だった。

 私は夜の町をただ歩いた。

 いつも通学に使っている道を辿ってみたり、普段見かけてはいるが入ったことのない道に曲がってみたり。

 最初から特に行く宛てがあるわけでもなかったのだ。少し、気分を変えたかっただけ。いろいろと、考える時間が欲しかっただけなのだから。

 姿を変えた町の景色に、あるいは長年住んでいて見たことのなかった新たな町の一面に目移りしていたせいか、私は視界の端に映ったそれに気づくのが一瞬遅れた。

 そこは空き地だった。ところどころ雑草が背を伸ばしているのと、元々ここにあった建物の資材なのか木材がいくつか積み重なって置いてある以外は何もない、地面だけが広がる家一軒分程度のスペース。周りは民家に囲まれ、面しているのが用水路沿いの歩道ということもあり本当にひっそりとしている。もし低学年の小学生なんかがここを見つけたら秘密基地でも作っていそうだ。

 その空き地に、私は見覚えのある顔を見つけた。

「———雨澤あまさわくん?」

「………?」

 雨澤わたる。私のクラスメイト。でもちゃんと話したことは一度もない。そもそも彼は滅多に学校に顔を出さない。不良と呼ばれるほど素行不良でもないらしいし、何か心の病を患っていて不登校ということもないそうだが、私の周りでよく言われているのは彼の体質が関係しているのではないかということだ。彼は生まれつきアルビノと呼ばれる体質で、皮膚や髪の色素が一般的な日本人と比べて圧倒的に薄い。絹糸みたいな白い髪に、学校のどの女の子より白くて綺麗な肌をしていた。一度見たら忘れることなんてできない美貌。しかしそれゆえに常人以上に日の光に肌が敏感だと聞いている。

「ここで何してるの?」

「………誰だ、お前?」

 声をかける私に雨澤くんは怪訝な声をあげる。それはそうだ、私は彼のことを知っているけど、彼が私のことを知っているわけじゃない。でも。

「私、君と同じクラスで委員長してる園崎楓そのざきかえで。よろしくね」

 一応委員長なのにとは思うけど、きっと彼にとってはそんなのどうでもいいことだったんだろう。

「そうか」

 短くそう言うと彼は私に興味を無くしたようで手元に視線を戻してしまう。月明かり以外に照らすものがないこの場所からでは彼が何を見ているのかはよく見えない。

「ねぇ、ここで何してるの雨澤くん」

「見ての通りだけど」

「ここからじゃ暗くてよく見えないの」

「………」

 彼が眉間に皺を寄せた、ような気がした。彼は腰を下ろしていた木材からゆっくり立ち上がるとこちらに近づいてくる。彼の特徴的な、けれど端正な顔がこちらに迫ってきて自分の鼓動が僅かに高鳴るのを感じた。不登校気味だが容姿が整っている雨澤くんは密かに女子たちの間で人気がある。浮いた話は聞いたことがないけど。

 そして手を伸ばせば届くくらいの距離までこちらに歩み寄ってきたかと思うと、私に何かを寄越してきた。

「………知恵の輪?」

「もういらないから」

 渡されたそれは二つに分たれた知恵の輪の残骸。どうやらこれを手元で弄っていたらしい。

 そう、彼は浮世離れした容姿を持つだけでなく、賢い。授業にもほとんど顔を出さないが期末テストの順位はいつも学年トップらしいと噂で聞いている。

 ———にしたって、深夜にわざわざ外に出て知恵の輪なんかする普通?

 渡されたものに困惑していると、彼が道の奥に歩き去っていくのが見えた。

「あ、待って!」

 私は急いで呼び止めて彼を追いかけた。

「………なんだ?」

 駆け付けた私に雨澤くんはまたしても怪訝な表情を見せる。

「えっと………」

 なんとなく。

 そう、本当になんとなくだ。彼を追いかけたのは。

 神様とか運命とか時の運とか、何か見えないものに背中を押されたような感覚。

 彼を追いかけた方がいい気がしたんだ。

「えっと、せっかく会えたんだしさ、話、しない?」

「話?」

 さらに歪んだ彼の顔には「一体お前と何を話すんだ」とはっきり書いてあった。


「雨澤くんはよくこの空き地に来るの?」

「いつもってほどじゃない」

「来るのはやっぱり夜、なのかな」

「見ての通り、俺が気兼ねなく外の空気が吸えるのは陽が落ちた後だけだ」

 たまに学校で見かける雨澤くんは周囲から孤立していて不愛想な印象が強かったけれど、実際こうして話してみると存外普通に会話ができている。そのことが少し意外だった。自分で言っておいてなんだが、一度も話したことのないよく知らない相手に「話をしよう」と言われて素直に応じてくれるとは。あるいはただの暇つぶしなのかもしれないが。

「家の人には何か言われないの?こんな時間に外出して」

「さあな」

 私が聞いてばかりで、彼は私に何も聞いてこない。私に興味を持っていないことは明白だった。そのこと自体は気にしないけど、これじゃ私が質問攻めにしているようで少しやるせない気持ちにもなる。

「雨澤くんは私がここに居る理由聞かないんだね」

「興味がない」

 面と向かって言われるとやっぱり少し傷つく。

「実は最近ちょっと悩んでることあってさ。聞いてくれない?」

「………」

 「面倒くさい」と言葉にすることすら面倒なのだろうと察する溜息が聞こえたが、私は無視して語り始める。誰でもいいから聞いてほしかった。

「もう七月じゃない?私達も中三なわけだし、進路どうするか悩んでるんだよね。学校の先生は『園崎さんの成績なら県内の高校はどこでも狙えるよ』なんて言ってるけど、どこの高校調べてもピンと来なくて。とりあえず受験勉強は続けてるけど、目標が定まってないから正直モチベーション上がらなくてさ」

 両親も両親で自由主義なところがあるから、『楓が行きたいところに行けばいい、自分で決めろ』の一点張り。それも親心なのかもしれないが本音を言えばもう少し寄り添って欲しい。

 自分の人生を自分で決めたことなんて今まで一度だってないのに。

 左手小指に嵌めた指輪を触りながら話していると、それまで黙って話を聞いていた雨澤くんが口を開いた。

「くだらない」

 目の前にいる天才のクラスメイトもまた、私の心には寄り添ってくれないようだ。

「お前が言っていることはただの甘えだろ。勉強ができるだけの馬鹿だな」

「ひどい言い草だね。そういう雨澤くんは進路どうするの?」

 実際、学年トップの彼が卒業後どういう進路を選ぶのかは他のクラスメイト達の間でもたびたび話題に上がっていた。

「皆葉高校」

「えっ?」

 彼の言う高校は全日制ではなく定時制の学校。言っては何だが偏差値も県内で下から数えた方が早いくらいで、他と違う特殊な教育課程ゆえに他のクラスメイト達も進路選択の候補にすらそもそも入れていないようなところだった。

 偏差値の高い進学校というのが周囲の最有力予想だったが、それは的外れだったらしい。だが、彼の事情を考えれば筋が通らない話でもない。

「そっか、皆葉だと夜間にも通えるもんね」

 だが、雨澤くんくらい優秀な人が選ぶと考えたらやはりもったいない話だと思う。

 いや、そもそも選択肢がそれ一つしかないのか。彼は。

 そう考えると行こうと思えばどこにでも行けると太鼓判を押されているのにどこも選べないと嘆いている私に彼が不快感を抱くのは至極当然だ。

「何か勘違いしてないか」

「えっ」

 雨澤くんは不快感を隠さない表情で続ける。

「俺がアルビノ体質だからそこしか選べなかったと思ってるのかもしれないが、別にそれは関係ない。単純に校則や教師の圧力が一番緩そうだったからそこにしただけだ。というか、日の光に弱いと言っても別に吸血鬼なわけじゃないし昼間の通学だってやろうと思えばできる。俺が普段学校に顔出してないのはシンプルに面倒なだけだ」

「そうなの?でもなんだかもったいない気がするなぁ。雨澤くん勉強できるのに」

「勉強ができる奴は、日の光に嫌われている奴は分相応の進路を選ぶべきなんて決まりでもあるのか?」

「え?」

「お前は自分がどうする“べき”かで考えているのかもしれないが、俺は自分が“そうしたい”からそうするんだ。テストの選択問題で何も選ばなかったら不正解扱いなのと同じで、選んでみなければそれが正解か間違いかなんて分かりはしないぞ。必要なのは間違えないことじゃなくて、間違えたときにどうするかだろ」

「………」

「それから、俺はお前が気に入らない」

「———やっぱり?」

「自由意思を手放して、自分の生き方を他人に預けるような人種は気に食わない。お前は親や教師に死ねと言われたら死ぬのか?」

 言葉を選ばない抜き身な、ともすればどこか説教臭くも聞こえる彼の言葉が、私の奥深くまで染み込んでいく感覚があった。

 間違えないことじゃなくて、間違えたときにどうするか。

 自由意思を手放して、生き方を他人に預けている。

 どことなく、周りの大人達に見放されているような気がしていた。信頼の裏返しだったのかもしれない。あるいは、自分が周りに頼っていたことの。そう、頼っていたんだ自分は。でもそれは手を引いてもらうことではなくて、あくまで背中を押してもらうだけ。どの方向に向かうかは自分で決めなくちゃいけない。

 ―――そんなこと、前から分かっていたつもりだったのに。

 どうやら分かっていなかったみたいだ。

「やっぱり雨澤くんは賢いね」

「成績が良いだけだ。賢いわけじゃない。本当に賢ければそもそも学校をサボったりしていないだろう」

「成績は置いておいて、それでもやっぱり雨澤くんは賢いよ。少なくとも私よりは」

「まぁ知り合ったばかりで言うのもなんだが、頭の固そうな奴だしなお前。勉強が周りの奴よりできるから大人に褒めそやされてそれが自分に必要なことの全てだとか大人の言うことに従えば大丈夫だとか勘違いしてそうだ」

「うっ」

 そういう意識や密かな自尊心が無かったわけではないので、なんとも居心地の悪い心地にさせられた。

「自分を知れ」

「?」

「自分で自分の人生を選ぶっていうのはそういうことだろ」

 吐き捨てるような、けれどどこか諭すような口調で告げた雨澤くんは私に背を向けて空き地を去っていく。

 私はその場から動けなくて、去っていく彼の背中を見ながらいろいろなことを考えていた。進路のこと。自分の人生。でもいろんなものが溢れてきて、上手く考えがまとまらない。時間が必要だと思った。

 「自分を知れ」と雨澤くんは言った。

 結局自分に足りなかったものは、欲しかったものはそれなのだろう。元々考え事をしたくて今夜家を抜け出してきたわけだけど、“何について考えるのか”は考えていなかった。

 ———あぁ、私。

 ———今日、少し悪い子になって良かったかも。

「———雨澤くん!」

 夜の闇に溶けかけていた彼の背中に再度声をかけた。私のことを気に食わないと言っていた彼のことだからもう振り向いてはくれないかもと思っていたけど、暗闇の中で彼の頭が僅かに動いた、ような気がした。

「ありがとう!」

 表情は相変わらず見えないが、不鮮明な彼の後ろ姿からは敵意や嫌悪めいたものは感じられなかった、ような気がした。

「………」

 彼の姿が完全に見えなくなると、空き地に残された私はその場で一度大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。何かが解決したわけではないけれど、不思議な解放感と充実感で満ちていた。今なら何か、これまでとは違うことができるような気がした。

 ―――何をしよう。

 ―――何処へ行こう。

 ―――とりあえず、もう少し歩いて考えようかな。

 少しだけ悪い子になった私を、月だけが静かに見下ろしていた。


***


 夜の町をいつも通りのルートで歩いていれば、自然とあの空き地に足が向く。もはや身体に染みついた習慣でありルーティン。深い理由も思い入れもないが不思議とあの場所は落ち着くのだ。

「ん………」

 いつもこの空き地で椅子代わりに使っている木材のすぐ傍に、キラリと光るものが見えた気がした。

 ———指輪?

 拾い上げたそれは飾り気のない、どこの雑貨屋にでも売っていそうな指輪だった。雨風に晒された様子もない、ごくごく最近のものだろう。この辺鄙な空き地に自分以外に訪れる者がいるとは思えないが、一人だけ心当たりがあった。

 ———園崎楓だったか。

 ———まぁ、わざわざ渡してやる義理もない。

 特に深く考えず手にしたそれを空き地前に流れている用水路に放り投げようとしたが。

「………」

 ふと明日が学校の終業式だったことを思いだし、振り上げた腕を下ろした。

 ———授業が無いのなら久しぶりに顔を出してもいいか。

 普段必要な時以外学校に行かないのは、俺が学校という場所に何も期待していないから。有り体に言えば、退屈なのだ。その上校則だの伝統だの、不自由が多い。行くメリットが感じられない。

 明日は多少面白くあってくれと願いながら、俺は今日も夜と戯れる。

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