観測

 注文の入った料理を出し終えたあと小路丸は「うーん」と考え込んでしまった。

 小路丸が悩んでいるのは山下からの無茶な注文のことだった。人が花になるという現象が本当にありうるのだろうか。しかしわかっているのはそれだけであまりにも情報が足りなさすぎる。

 そしてもうひとつ、現実に実在するらしい人参果のほうも気になるのだがこちらも情報がない。山下は人参果に関してはなにも言わなかったが、小路丸はこの人参果と人が花になるという現象は関係しているのではないかそんな予感がしていた。しかし実物を手に入れられるのであれば調べようもあるのだが、山下も張劉帆も人参果を手に入れていない。

 そもそも人参果というものが本当に存在するのだろうか。

「なにか悩みごとかい?」とカウンターで昼のランチを食べていた今井先生が小路丸の顔をみて心配そうに言った。今井先生は小路亭の近くにある医大に勤めている先生だ。

「わたしのことじゃあないんですけど、先輩がまた厄介なことを持ち込んできてしまって」

「山下くんがまたなにかやらかしたのかい。トラブルメイカーだからねえ」

「それが今度は、中国で人が花になってしまったと言うんですよ。あと、人参果まで登場してきました。先生、人が花になってしまうなんてありえませんよね」

「人が花だって、これまたすごい話だねえ。しかし、まあ、普通はありえんよ」

 すると今井先生のとなりで同じくランチを食べていたIT企業に勤めている篠塚くんが口を目ざとく口を挟んできた。「人が花ですか、それは面白そうな話じゃないですか」

「なにかの比喩じゃないのかな」と今井先生が言う。

「うーん、比喩といえば、むかしそんな小説を読んだことがあったかなあ。ちょっと待ってくださいよ」と篠塚くんがスマホを取り出してなにか検索しはじめた。「ああ、あった、赤江瀑の「恋怨に候て」ですね。身性の毒が、人を花に変えるってやつです」

「それはどんな話なんです」と小路丸が質問する。

「小路丸さん、この話は本当に花になってしまうんじゃなくってあくまで比喩です。狂言作者の話で本当の花にはなりませんよ」


人間、毒がありゃこそ、花も実もなる。耀いもする。毒を喰らわにゃ、おまえさん、いつまでたっても、紺屋の白生地。味もそっけもありゃしねえ。


 とスマホの画面にうつしだされた小説の一部を小路丸に見せた。

「そうですよねえ」小路丸はがっかりしながらそう言った。

「篠塚くん、赤江瀑なんて読むんだ」今井先生が感心した顔で言う。

「いやあ、昔付き合っていた彼女が好きだったんでそれでちょっとばかり。先生も読んだことがあるんですか」

「いやわしはもっぱらSFばかりだからねえ。赤江瀑は名前と作風くらいしか知らないんだよ。しかし小路丸くん、やはり人が花になるってのは本当に花になるのではなく、花のように見えるなにかになるということなんじゃないかねえ。そのほうが現実的だと思うよ」

「ところで人参果ってさっき言ってましたよね」篠塚くんが口を挟む。

「そうなんですよ、人が花になるってことのほかに、人参果も絡んできて、というかなにか関係がありそうな感じがして」小路丸は二人に山下との経緯を話し始めた。


「そういうことなのか」と小路丸の話を聞き終わって今井先生が言った。

「西遊記の中に登場する人参果って食べると寿命が延びるというやつですよね。たしか三千年に一度だけ花が咲いて、三千年に一度だけ三十個の実がなるんだけれども、その実が熟すのに三千年かかって、さらに食べごろになるまでは1万年も待つ必要がある、って合計一万九千年もかかるわけだから完全に空想の話ですよね」と篠塚くんが言う。

「よくそんな細かいところまでよくおぼえているねえ。わしはそんな細かいことまで思えてなんかないよ。なにしろ西遊記を読んだのは四十年以上も前のことだから、いや歳をとって耄碌してきたせいかもなあ」と今井先生が寂しそうに言った。

「先生、さっき篠塚くんスマホで検索してましたよ」

「もう、小路丸さんばらさないでくださいよ」

 すると店の扉が開いて郵便の配達人が入ってきた。

「こんにちは、郵便です」

「はい、ごくろうさまです」小路丸は荷物を受け取りにキッチンスペースから出てきた。

「なんだろう、また先輩からだ」と受取のサインをして荷物を持って戻ってくる。

「なにか進展があるといいけれどねえ」と今井先生は心持ち嬉しそうに言った。

 開けてみましょうと小路丸が箱を開くと中にはチャックがついて密封できるビニール袋に入ったドライフルーツのようなものと一枚の手紙が入っていた。


 あれから張くんのところに彼女のお父さんから人参果が送られてきたんだ。手紙の内容は、先日はこちらから招いて来ていただいたのに申し訳ないことをした。人参果はこの地域で密かに育てられている果物で、西遊記にもあるように食べれば寿命が延びるというめでたい食べ物である。それを乾燥させてドライフルーツにさせたものを送るのでお詫びのしるしといってはなんだが、ぜひ食べていただきたい。

 そのような文面だったらしい。彼女のことはなにも触れてはいなかったそうだ。

 しかし張くんは彼女の母親から人参果を食べてはいけないと忠告をうけていたので、そのままおれのところに持ってきた。おれもさすがに食べる気はないので、そのままお前のところに送る。よろしく頼む。


「先輩にも困ったなあ、こんな物騒なものを送られても困るじゃないですか」

 人参果は真空パックされた状態で送られてきたけれども、なにしろ正体不明の代物である。うかつに封を切ってもよいものかどうかもわからない。

 この間の粘菌騒動(粘菌騒動に関しては「mycetozoa goal」のほうで書かれているので興味あるかたはそちらを読んでみてください、ただし今回の話とは無関係なので読まなくても支障はありません)で協力してもらった製薬会社に勤めている野中さんに成分分析を頼もうかとも思っていたが、どんな効果を持っているものなのかもわからない。なので頼んで迷惑をかけてしまったら申し訳ない。同じく前回活躍してもらった田口くんはどうかと考えたのだが、田口くんの専門は粘菌だし、先週から長野のほうにフィールドワークに行っているのでしばらくのあいだこの街にはいない。

 人参果を見つめながら小路丸が困っていると「わしのところで調べてみようか」と今井先生が嬉しそうな顔をして言ってきた。

「でも危険なものかもしれませんよ、人参果そのものが問題じゃなくって、人参果に寄生しているウィルスとか」

「仮にそうだったとしたら、人参果をドライフルーツにした人間も死んでいるってことだ。大丈夫だよ、まかせたまえ」

「そうですね、じゃあ、お言葉に甘えてお願いしますけれど、あまり無茶はしないでくださいよ、先生」

「いやいや、こんな面白そうなものだまって見過ごすわけにはいかないじゃないか」と言いながら人参果をカバンの中に入れて帰る準備をし始めた。「このあとは暇だから戻ってすぐに調べ始めてみるよ」

 すると篠塚くんも「僕もちょっと調べてみますよ」と立ち上がる。彼もなんだかやる気になったようだ。



 いっぽう、山下はまだ中国にいた。

 撮影の仕事は終わったが、張劉帆のことが心配で中国での滞在を伸ばしている。幸いなことに次の仕事はまだ入っていない。懐具合には不幸なことだったが、そういうことはあまり気にしないのが山下だった。

「依然として彼女には連絡がつかないのかい」

「ええ、電話をしてもつながらないんです。SNSのほうも駄目で、そもそも見ていないようなんです」

「彼女のお母さんからはなにか連絡はないのか」

「はい、そちらもあれっきりで」

「そうか、手詰まりになったな。小路丸からもまだなにも連絡がないしなあ」と山下は考え込む。「よし、おれがちょっと彼女の実家まで行ってみることにしよう」

「え、それはちょっと無茶じゃないですか。気持ちはありがたいですけれど」

「大丈夫だよ、当たって砕けろだ。いや、砕けちまったらまずいか。彼女の知り合いで近くに来たから寄ってみたということにして会えるかどうか試してみようじゃないか」

 思い立ったら吉日、いや無策で暴走の山下である。そのままホテルを飛び出してレンタカーを借りに行った。山下一人では心配なので張劉帆ももちろんついていく。

 助手席に張劉帆が座ると山下はアクセルを踏んだ。

「このまま道を西に向かって進んでください」そういいながら張劉帆は車に搭載されているナビに住所を入力した。しばらくしてナビに表示された地図上に緑の線が引かれる。


 中心部を抜け出ると建物はまばらになっていく。

「中国といっても新疆ウイグル自治区はもう全然雰囲気が違うんだな。まるでイスラム文化圏じゃないか」車を運転しながら山下が隣の張劉帆に話しかけた。

「はい、新疆ウイグル自治区は中国の一部ですが、ここで生活しているウイグルの人たちは漢民族ではなくウイグル族で、もうぜんぜん別の世界といってもいいんですよ。イスラム教徒の人たちが多いですし。でも政府がこの地方にたくさんの漢民族を移住させたあたりからいろいろと弾圧が厳しくなってきたんです。だから正直言えば僕もこの地方にはあまり来たくはないです。怖いですよ。もちろんウイグルの人も個人個人はとてもいい人ばかりなんですけれど、でもふとしたことで政治がらみの話題になったりすると、こちらはそんなつもりはないですが、弾圧された側の意識というのは表にでてきてしまいますね」

「そうか、それは悪いことをしてしまったな。ウルムチでの仕事に呼んでしまって」

「いえ、怖いというのは一人っきりの場合ですから。山下さんといっしょならどんな場所でも心強いですよ」

「ははは、うれしいことを言ってくれるなあ。しかしおれはそんなに頼りになるかどうかはわからんが、日本にはおれの頼りになる相棒もいるんだ。今回のこともそいつに協力してもらっているから心配するな」と日本にいる小路丸のことを頭に浮かべたところまではよかったが、小路丸は日本にいて中国にいるわけではない。すぐに助けを請おうとしてもせいぜい電話越しに応援の言葉をかけてもらうくらいしかできないだろう。そんなことを考えたとたん山下の意気揚々とした気持ちは急降下しはじめてしまった。

 ――まあ張くんの彼女の家に行って様子を探るだけだからなんとかなるだろう。



 今井先生が人参果を持ち帰った翌日、篠塚くんが小路亭に昼食を食べにやってきた。

「小路丸さん、あれからちょっと人参果について調べてみたんですけど、たしか山下さん中国の新疆ウイグル自治区にいるって言ってましたよね」篠塚くんは小路丸にランチメニューを注文したあとですぐさま昨日の話題を持ち出してきた。

「うん、そうだけど」

「西遊記ってフィクションなんですけど、三蔵法師一行が天竺まで行ったとされる道のりを実際の地理に当てはめてみると人参果が登場する付近って新疆ウイグル自治区のあたりになる可能性があるらしいんですよ」

「えっ、それほんとうなの」

「人参果が登場する場所はまったく架空の場所なんですけど、三蔵法師たちの出発地点とゴールは実際の場所と同じですからそこから一行がどういうルートをたどっていったかというと中国をぐるっと囲むというか「つ」の字を左右逆転させた感じになるんです」と篠塚くんは自分の顔の前で指を大きく動かしてつの字を書いた。小路丸の方から見ると左右逆転して見える。「そこからそれぞれのエピソードを割り振っていくとちょうど新疆ウイグル自治区のあたりで人参果が登場しても矛盾はしないんですよ。だからひょっとすると山下さんが送ってきた人参果って西遊記に登場した人参果と関係するんじゃないかって思うんですよ」

「じゃあ、食べたら本当に寿命が延びるというの?」

「中国ですからねえ、何が実在していても不思議じゃあない感じですよね。しかし、山下さんも新疆ウイグル自治区なんてずいぶんなところまで行くんですね」

「先輩はどこでも平気で行っちゃう人だから。でも、この間の電話じゃかなり都会らしいですよ」

「いえ、そういう意味じゃなくって、新疆ウイグル自治区が中国の中でも中国じゃないというか、そこに住んでいる人は漢民族じゃないってことです。もともとがウイグル族の人たちが住んでいた場所で、そこを中国が支配してしまったから、中国政府の弾圧がひどいみたいですよ。ちょっと調べてみただけなんですが」と篠塚くんが調べたことを小路丸にはなし始めた。

 ウイグル自治区は古くはウイグル帝国の征服によってウイグル人の支配下におかれていた。その後モンゴル帝国、清朝と支配する側が変わるのだが、清朝のあとをついだ中華民国が半独立的な領域支配を行い今に至っている。そしてこの地域が新疆ウイグル自治区となったのは1955年のことだった。

 反発ももちろんあったのだが、支配する中国側からすると幸運だったのは、しばらくして中国全土で起こった大飢饉の影響がこの地域でも無視できないほどの大打撃を与え中国支配に対する対抗する力が削がれてしまったこと、さらにはこの地の住人たちは中国に対抗するよりもソビエト側に逃亡するという手段を選んだことなどがあって大規模な闘争が起こることはなかった。

 しかし21世紀に入るとアメリカ同時多発テロの影響で反イスラムの声が高まり、中国政府のこの地への弾圧がより強くなっていった。

「でも山下さんならどこでも平気だと思いますけれどね。誰とでもすぐに仲良くなっちゃいますから」

「そうなんだよね、そういえばこの間も、先輩――」と言いかけたところで小路丸の携帯が鳴った。「ごめんなさい電話、ちょっと出るね。はい、小路亭です。あ、今井先生。どうかしたんですか、電話なんて珍しい」

「小路丸くん、昨日持って帰った人参果なんだけれどな、ちょっととんでもないものだったんだ」

「やっぱり、それで先生の方は大丈夫なんですか」

「ああ、わしのほうは大丈夫だ。心配してくれてありがとう。それよりもだな、あれから昨日、何匹か実験用マウスに食べさせてみたんだよ。しかし食べさせてみたのはいいけれどもどうやって寿命が延びたのか調べる方法が思いつかなくってな。昨日から延々と考え続けてたら今朝にになってテロメアの解析をしてみたらどうかと思いついたんだ」

 テロメアは細胞分裂をするたびに少しずつ短くなっていく。そしてその長さがある程度以下となるとそれ以上の細胞分裂は行われなくなる。細胞分裂が行われないということは新しい細胞が作られないということで生物学的な死を迎える。人参果はこのテロメアになんらかの作用を与えるものではないかという仮説を今井先生は立てた。

「そこで早速、食べさせたマウスのテロメアを採取しようと思ってマウスを見たらだな、食べさせたマウスの全てに昨日まではなかった腫瘍ができていたんだ。癌だよ」

「癌って、昨日の今日じゃないですか。そんなに急になんてならないんじゃないですか」

「そうなんだよねえ、しかし、腫瘍ができているのはまちがいない。だからこの人参果はジャンピング遺伝子を持っているんじゃないかって思うんだ」

「ジャンピング遺伝子?」

「いや、説明は後回しにしよう。重要なのは説明じゃない。いま起きていることのほうだ。ジャンピング遺伝子によって人が癌化するとなると、花になったという彼女があぶない」



「あの角を右に曲がってください。あとはそのまま道を進んでいけば彼女の家が見えてきます」と張劉帆は山下に言う。

「けっこうウルムチの中心から離れているんだなあ。こんなに遠いとは思ってもなかったよ、いやさすがは中国、日本とはぜんぜん違うな。おっと電話だ、誰からだろう」

 ポケットから携帯を取り出し画面を見ると小路丸からだった。

「おれだ。国際電話なんかかけてこなくってもいいだろう。金かかるぞ、大丈夫か」

「あとで先輩に請求するから大丈夫です。払ってくれますよね。じゃなくって、大変です。今すぐ彼女さんのところに行ってください。それでなにがなんでも病院に連れて行ってください」そして小路丸は今井先生から聞いた仮説を山下に説明した。

 電話を終えて山下は隣にいる張劉帆に「急がなければいけないようだ。ちょっと飛ばすぞ」

 言うと同時にアクセルを踏み込んだ。


 しばらくして家が見え始めた。山下は家の少し手前で車を止め「よし、行こう」と張劉帆とともに車をおりて玄関まで歩いていく。

「こんにちは。張です。張劉帆です。ムヘンメトさんはいらっしゃいますか」玄関の扉越しに張劉帆が挨拶をする。

 待っていると家の中で人の動く音がした。音は近づいてくる。玄関の扉がゆっくりと開き、リズワンギュルのお母さんと思わしき女性が顔をのぞかせた。

「ああ……ありがとう」その女性は張劉帆の顔を見ると糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

「大丈夫ですか」と彼女の体を抱え起こそうとする張劉帆の体を横切って山下は家の中に入っていった。

「張くん、おれはリズワンギュルさんの方を探してくる」

 扉が開いたときから山下はなにかが腐ったような匂いを感じ取っていた。腐敗、いや化膿したときの匂いに近いかもしれない。そして血の匂いも。足元で倒れている女性の服に染み付いた匂い。

 家の中を奥へと進んでいくとその匂いが強くなっていく。

 山下の行き先にいくつも連なる閉じられた部屋の扉がある。その中で開け放たれている扉がひとつだけあった。

 山下は迷わずその部屋の中に入っていき部屋の中を見た。

 ――見つけたぜ。

「張くん、お母さんの方は大丈夫か? 大丈夫そうならこっちに来てくれ」

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