発芽

「なんていう旨さなんだこれは!」と山下は叫んだ。

 日本語で叫んだので山下が何と言ったか店の親父には理解できなかったはずだが、その表情を見て親父はニヤリと笑った。

「そうだろう、とんでもなく旨いだろう」と親父はニヤニヤしながら山下に言う。

 アフリカのタンザニア湖周辺での写真撮影が終了し、あとはもう帰国するだけとなったとき、山下のなかでいつもの欲求がむくりと首をあげてきた。生まれつき胃腸が弱い山下なのだが、食欲は胃腸の弱さに反比例していた。フリーのカメラマンとして日本国内はおろか世界各国の、特に辺境の地に訪れることの多い山下は、その土地の珍しい食べ物をさがして食べることが大好きなのだ。もっとも殆どの場合、食べたあとで下痢をして苦しむことになるのだが、それでも食べることをやめようとはしない。山下は子供の頃から飲み続けてきた愛用の胃腸薬を片手にあちらこちらで珍しい食べ物を食べまくっていた。

 もちろん撮影期間中に下痢になると仕事に影響を与えてしまい困ったことになるので、撮影が終わるまでは無茶な食事は控える節度はあった。しかし撮影が終わってしまえば、ひどい下痢をしてどんなに苦しもうが何も問題はない。

 今回も撮影の合間を縫っては、ガイド兼通訳のニエレレに珍しいものを食べさせてくれる店がないか熱心に聞き続けていた。しかし彼が教えてくれたものは既に山下が食べたことのあるものばかりだった。がっかりしている山下の姿を見てニエレレも、ガイドとしての自分のプライドが許さないと思ったのか、八方手を尽くして調べてようやく山下が食べたことのないものを出す店を探し出した。その店に行くにはタンザニア湖から南へ車でかなりの距離を走ることになるが、その程度のことは山下には苦にもならない。教えてもらった店へと一直線に向かい、口八丁手八丁、といっても山下はスワヒリ語はそれほど得意ではなかったので手八丁の比重のほうが高かったが、店の親父にこの店の秘密のメニューを出してもらうことに成功した。

 ほらよ、と言いながら店の親父は小皿をテーブルの上においた。

 年季の入った小皿、つまりところどころふちが欠けていたり、黄ばみやら黒ずみやらという汚れの残っているという意味だが、そんな小皿に入っていたのは器の汚れなどどうでも良くなるくらいの得体のしれないものだった。

 粉っぽい固まりのようだが、よく見ると黄色い血管のかたまりというか、葉っぱの葉脈だけを取り出して黄色く着色したような、そんな黄色い網目状の塊が小皿に入っている。皿を揺するとプルプルと揺れる。鼻を近づけてみたが匂いはしない。

 どうやって食べるんだと聞くと、そのまま食べろと返答が返ってきた。手で摘んで少しずつ食べるらしい。

 これはなんだろう、両生類の卵だろうか。それともなにかの葉っぱなのだろうか。しかし得たいのしれない不気味な食べ物だからといって怯む山下ではなかった。戸惑いも見せずに手で摘んで口に入れた。そして山下はあまりの旨さに叫んだのである。

 しばらくして旨さの興奮もおさまり、山下は落ち着きを取り戻した。ここの人たちはこんな旨いものを毎日食べているのだろうか。そう思い、親父に聞いてみると、特別な日しか食べないと親父はいった。

 じゃあやっぱりこれは珍しいものなのかと思いつつ、結婚式とかそういったお祝いのときに食べるものなのかと聞くと、そういう日には食べないと答えが返ってくる。主役が奪われてしまうと親父は答えた。

 確かにこんな旨いものが結婚式で出されたら新郎新婦のことなんてどうでもよくなるな。場合によっては新郎新婦も互いに相手のことなんてどうでもよくなってしまうかもしれない。そこまでいかなくっても食事の基本レベルがこれになってしまった日には目も当てられないだろう、と山下は思った。

 ではなにか宗教的な儀式のときに食べるものなのかと聞いてみるがそうでもないらしい。

 それじゃあ特別な日とはなんだと聞くと、特別な日は特別な日だとしか答えようとしない。そして今日も特別な日だと親父は言った。特別な日であるかどうかはその日になると神様が教えてくれるらしかった。そのあとでなにか言ったのだが山下には聞き取れなかった。

 食べることしか興味のない山下はそれ以上突っ込んだことを聞こうとはせず、その特別な日にこの店に来られた自分の運の強さとアフリカの神様に感謝することにした。

 そして持ち前の図々しさと愛想の良さを発揮して何度も何度もおかわりを要求し、挙げ句の果てに持っていた胃腸薬の瓶の中身を捨てて、こっそりその粘菌を入れて日本に持ち帰ったのだ。


「密輸じゃないっすか。よく税関にひっかかりませんでしたね」

「やばい薬じゃないしな。それに食べてしまえばなくなってしまうから大丈夫だ」

「そんな屁理屈は通用しないっすよ。それに自分が食べるためだけに持ってきたわけじゃないんでしょ」

「よくわかったな」

「わかりますよ」

「さすが、おれが見込んだだけあって賢いな。で、その賢さを見込んで頼みがあるんだが、これをなんとか繁殖させて売りたいんだ」

「はあ?」

「この旨さはお前もわかっただろう。満腹のときでもこんなにも旨いんだ、これを使えばどんなまずい料理でも旨いと感じさせることができるはずだ。だからこれを魔法の調味料として売るんだ。商品名はまだ考えてないけどな」

「まあ、たしかに理屈としてはそれができるかもしれないっすけど」

「食べ物に関してだったらお前の右に出るものはいない。だからおれのために頼む」

「えー、密輸したんでしょ、あまりヤバイことには関わりたくないっすよ。……でも、この旨さの謎は気なるなあ」

「だろ」山下はニヤリと口をゆがめる。

「とりあえず売るか売らないかは後回しにするとして、この旨さの秘密を調べてみましょうか」

「おれとしちゃあ旨さの秘密なんてどうでもいいんだが、お前が知りたいってんならそれでもいいや。でもまずはこいつの繁殖のさせかたを調べてくれないか。生き物なんだから餌とか必要なはずだし、死なせてしまったら元も子もないからな」

「そうっすね、だったら、うーん、常連客の田口くんならわかるかもしれないなあ」

 田口くんはこの店の常連客の一人で、大学で菌類を研究している。

 いま連絡がつくかなあと言いながら小路丸は田口くんに電話をかけはじめた。

「まいどっ、小路亭の小路丸です。あ、いやいや忘れ物じゃないです。それだったらこうして電話なんかしなくってもどうせ明日もうちに来てくれるでしょ。そうじゃなくって、ちょっと教えてほしいことがあって、いまちょっと大丈夫ですか……」小路丸は田口くんに粘菌の繁殖方法について質問をしはじめる。しばらくして小路丸はうんうんとうなずきながらメモを取り始めた。

 やがて会話が終わり、ありがとうございましたと言って電話を切った小路丸は山下にメモを差し出した。

「とにかく薄暗い湿気のあるところであれば大丈夫みたいですよ、現物を見てみないとはっきりとしたことはいえないけれども、後は腐葉土を用意しておけばしばらくは大丈夫だろうとのことです、先輩の部屋だったら汚くて湿っぽいし、どこでも大丈夫でしょ」田口くんから聞いた内容を説明した。

「ひと言余計だ、お前は」メモを見ながら山下は言う。「ま、これだったら必要なものは近所のホームセンターでそろえられるな」

 一方、小路丸はそんな山下の言葉など右から左に聞き流しているようで「ついでに成分も分析しておきたいところだなあ、そうだ、製薬会社に勤めている野中さんならクロマトグラフィーを使えるだろうから頼んでみるかな」とぶつぶつと呟いている。そして「と、いうわけでこの粘菌、しばらく預からせてもらってもいいっすか?」

「ああ、大丈夫だ。それは一部だけで、残りはうちにある。もう少し欲しいんなら持ってくるさ。それでも足りないってんならもう一度タンザニアに飛んで取ってくるよ。で、悪いけどおれはまたこれから撮影の仕事でしばらく沖縄に行かなきゃならないんだ。おれの部屋の鍵はこれだ。あとは頼む。粘菌の世話もこのメモどおりにやっておいてくれ。かかった費用は後で請求してくれれば払う」といって小路丸の返事も待たずに山下は店を出ていった。

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