見知らぬ素肌に手を伸ばす

月井 忠

第1話

 俺はその履歴書をちらりと見た。

 淡い恋心を思い出した後、心臓が一瞬止まった。


 履歴書には初恋の女性の名が書かれていたのだが、写真には別人となった人物が写っていたのだ。

 辺りを見回し、事務室に人がいないことを確認して、その履歴書を束になった書類から、そっと引き抜く。


 名字も名前も合っている。

 生年月日も記憶のままだ。


 学歴の欄には、俺が卒業した高校と同じ名があり、年度も同じだ。


 やはり彼女だろう。


 しかし、貼られた写真の顔は別人と言っていい。


 履歴書を元に戻し、何事もなかったように事務室を出る。


 廊下の先にある作業場まで戻り、自分の持ち場でダンボールに品物を詰めていく。


 他のバイトたちと連携して、どんどん仕分けていく。

 慣れた作業は自動でこなすことができた。


 頭の中は先程見た履歴書のことで埋め尽くされている。


 カナエ ミユキは整形をしたということなのか。


 当時の彼女の顔を思い起こす。


 俺が一目惚れした相手だ。

 ブサイクということは決してなかった。


 ただ彼女自身にとっては違ったということなのだろうか。

 疑問を繰り返しながら、俺は荷物をさばいていった。




 しばらくして、カナエ ミユキが仕分け作業のバイトに加わることとなった。

 向こうは、こちらに気づいていない様子だ。


 学生時代はまともに話したことがないのだから、当然といえば当然だった。

 俺が一方的に一目惚れして、影から見ていただけなのだから。


 こうして偶然バイトで顔を合わせることになっても、俺は変わらず彼女を見ているだけだった。


 現場にはミシロというおっさんがいる。

 ミシロは女に対して常にいやらしい視線を送り、男に対しては敵意をあらわにするような男だった。


 当然、現場では鼻つまみものだ。

 そんなミシロが毎回行っているのが、新人研修という名の洗礼だ。


 新人を自らの支配下に置けるとわかったら、徹底的に指導する。

 できない場合は陰険に指導する。


 結果として変わりはないのだが、後に続く態度が違ってくる。

 期待しているから強く言うのだとフォローするか、舌打ちをするかだ。


 幸いなことに、俺はミシロより先にバイトを始めていたので、この洗礼は受けていない。

 今はカナエがこの洗礼を受けているらしい。


 作業中に怒号が飛ぶことはない。

 洗礼は見えにくいところで行われる。


 俺がロッカールームに向かおうとした時、ミシロの汚いしゃがれ声が聞こえた。

 事務所の奥にある、今は使われていない小部屋の前にカナエとミシロがいた。


 ミシロの横顔には、いやらしい笑みが張り付いている。

 まるで舌を伸ばして、カナエの柔肌を舐め回すかのようにも見えた。


 カナエは高校の時も、特別社交的ということはなかった。

 話しかけられれば、にこやかに笑う程度。


 放課後の夕暮れ時には、決まって一人で本を読んでいた姿が目に焼き付いている。

 ミシロのような男は天敵だろう。


 俺は影から窺いながら、大きく息を吸って意を決した。


「ミ、ミシロさん、そ、そこの部屋まだ……片付けてないから、近づくと……」

 詰まる言葉をなんとかねじ伏せ、声を出す。


 ミシロとカナエが同時にこちらを見た。


 次の言葉はでてこない。


 ちっ、と舌打ちをするとミシロは俺の肩にぶつかるようにしてすれ違った。


 ミシロの背中を目で追う。


 一応、俺の方が仕事の上では先輩なのだが、歳は向こうが上だ。

 こんな態度を取られても言い返すことはできない。


 残されたカナエの存在を背後に感じた。


 うまく話す自信がないのを良いことに、ちらっと振り返って会釈をすると、小走りで立ち去った。


 視界の隅で、カナエも会釈を返す姿を見た気がした。




 次の日、ミシロは無断欠勤した。

 社員の話によると、何度電話しても出ないということだった。


 ミシロは天涯孤独の身だと言っていた。

 まるで自慢話のように語る姿を覚えている。


 こういうとき他に連絡できる身内がいないというのは不便だ。

 もっとも、俺も似たような境遇ではあるのだが。


 社員は俺に心当たりはないかと聞いた。

 もちろん、そんなものはない。


 実際そう返したのだが、俺からも連絡して欲しいと言われた。

 ただバイト歴が長いだけの俺は、社員に厄介事を頼まれるバイトリーダーのような立場になっていた。


 ミシロの連絡先を知らないと言って断ったのだが、社員はミシロの電話番号を教えた。

 個人情報の管理はどうなっているのかと言いたくなる。


 カナエの履歴書を盗み見た俺に言う資格はないだろうが。


 仕方なく、休憩時間にミシロにショートメッセージを送る。

 どうせ、電話したところで出るとは思えないので、社員から番号を教えてもらったことを伝えた上でメッセージを送った。


 これで返答がなければ、バックレたと見なそう。


 返事は期待せずに仕事をしていると、意外にもすぐにメッセージが返ってきた。


 体調を崩したので、しばらく休むとのことだった。


 俺はすぐに事務室に向かい社員に報告する。

 ついでに、ミシロの悪口も忘れずに。


 以前から、ミシロの素行の悪さを伝えてはいるのだが、社員の方に聞く気はないようだ。

 しかし、無断欠勤が加われば心が動くかもしれない。


 慣れた悪口はスラスラとつかえることなく語ることができた。




 仕事を終えると、帰り支度をしてから下駄箱に向かい、自分の靴に手を伸ばす。

 手が止まった。


 靴の上には紙が乗っていた。


 ドキリと鼓動が胸を打つ。


 俺は学生時代に幾度も思い描いた、古典的なラブレターを連想していた。


 そっと紙に手を伸ばし裏返す。


 そこには「ありがとう」という文字の下に「カナエ」と書かれていた。


 飛び上がるほどの嬉しさを身体に溜め込んで拳を握る。

 昨日ミシロから助けたことに対するお礼ということだろうが、俺にとってはそれ以上の意味を持っていた。


 カナエは俺のことを認識して感謝した。


 一緒に通った高校で、空気のような存在だった俺ではなくなったのだ。


 見るとカナエの靴はすでになく、内履きが残されている。


 俺はすぐに靴を履き替え、走り出した。


 俺とカナエが同じ高校に通っていた事実を伝えたら、あいつは喜ぶだろうか。

 そんなことを考えながら、いつもとは違う道を行く。


 カナエの履歴書を盗み見たときに住所は暗記していた。

 すでにマップで、何度もカナエの家を確認している。


 迷うことなくカナエのマンションの前まで来ることができた。


 高校生のときも同じように、こうしてカナエの家を見上げていた。


 懐かしさと共に、カナエに話しかける勇気がないことも承知していた。


 同じ高校だったんだよと話すことはないだろう。

 俺にとっては、この距離感が一番なのかもしれない。




 しかし、俺の気持ちが止まることはなかった。


 あれからというもの、彼女の方から挨拶をすることが増えた。


 にこやかな笑顔を作り「こんにちは」と言う。

 それだけのことなのに、俺の心は踊った。


 もちろん、それ以上の話をすることはない。

 挨拶を返すだけで、その場は終わる。


 彼女に近づきたい思いは増していった。


 彼女のマンションの南側にはベランダがあり、窓が見える。

 五階の窓が画角に収まるようにカメラをセットした。


 北側にはマンションのドアが並んで見える。

 五階のドアが見えるようにカメラをセットした。


 防水、防塵仕様で、ボディにバッテリーを内蔵、データ転送にはWi-Fiを使用するネットワークカメラだ。

 完全ワイヤレスかつ屋外で使用可能であり、撮影データはクラウドサーバーに保存される。


 この程度の出費は投資だ。


 俺は彼女の家を監視し続けた。


 すぐに俺は異変に気づく。


 彼女の部屋に男が入っていくのだ。

 初めは彼氏かもしれないと歯噛みしたが、どうやら違うようだった。


 次の日には違う男が来て、その次の日には別の男。


 頻繁に男が出入りし、ときにはぞろぞろと男たちが入っていくこともあった。


 尋常でない状況に、俺は妙な興奮を覚えた。


 彼女がこの状況を快く思っていないのは確実だ。

 俺なら、彼女を救い出せるかもしれない。


 そんな考えが浮かんでから、自分の気持ちを抑えることができなくなった。


 俺は本当の彼女を知っている。

 偽りの仮面の下にある顔を知っているのだ。


 だが、それが全てではない。

 どうしても、仮面の下の素肌に触れたくなった。




 いつものようにスマホからネットにアクセスして、カメラの映像を食い入るように見る。

 彼女がドアを開け外に出てきた。


 今しかない。


 今日は珍しく男の来訪がなかった。


 俺はすぐに会計を済ませると店を後にする。

 彼女のマンションの向かいにあるコーヒーショップは、こういう時に便利だった。


 マンションの外で彼女が出てくるのを待つ。


「え? あ? どうも」

 彼女は俺に気づくと、不審がりながらも挨拶をした。


「俺が救ってやる」

 真っ先に言葉が出てきた。


「はい?」

 小首をかしげる。


 さすがに急ぎすぎたかもしれない。

 つばを飲み込んで、一呼吸置く。


「お前……困ってるんだろ? 家に男が来てる。いつも違う男が」

 順序立てて話すこともできず、途切れ途切れに言った。


「ああ……そういうこと」

 急に彼女の目が変わった。


 もしかすると、俺はこの目が見たかったのかもしれない。

 蔑みと哀れみの混じった、人を人とも思わない目。


 しかし、彼女にはまだ触れられない底がある。

 俺は拳を握って口を開く。


「お前、誰なんだ?」

「誰とは、どういうことですか?」


「だっておまえカナエ ミユキじゃないだろ?」

「そう言われましても」


「お前は俺の知ってるカナエ ミユキじゃない」


 彼女はニヤリと笑うとこちらに近づいてくる。


「少し、歩きましょうか?」

 そう言って、俺の横を通っていく。


 すれ違う間際に彼女は全く別の空気を運んできた。

 危険で刺激的な匂いだった。


 俺は彼女の背中を追う。


 河川敷まで来ると彼女は足を止め、こちらに振り向いた。


「それで?」


「俺は高校生のときのカナエ ミユキを知っている。同じ高校だったんだ」

「私は知りませんけど」


「別に隠す必要はないんだ。俺はお前が別人だって知ってる。顔だって声だって違う」

「あまり言いたくはないですが整形したんです。声はちょっと酒ヤケしたかもしれないですね」


 彼女はくすっと笑う。


「ごまかさなくていい。カナエ ミユキの足のサイズは23センチだった。お前は24.5センチだ」


 整形したとしても足のサイズを変えるヤツなんていない。


「キモっ」

 彼女は先程と同じような目をした。


「俺ならお前を救える。一緒に逃げないか?」


 俺にとってカナエは初恋だったかもしれないが、今は彼女のことで頭がいっぱいだった。

 名前も知らない彼女のことが気になって仕方ない。


「カナエのフリをさせられて、犯罪の片棒を担がされているんだろ? 俺は全部知った上で、お前を受け止めてやる」


 いつの間にか緊張はなくなっていた。

 言葉はスラスラ出てくる。


 それでも、彼女はあの目のままだった。


「想像力がたくましいんですね」


 彼女は笑うと、なぜかうなずいた。


 ガツンと後頭部に衝撃が走る。


 たまらず俺は地面をのたうち回った。


 頭の痛みが増していき、意識すら怪しい。


 うっすらと目を開けると、そこには男がいた。

 こんな男が彼女の家に入っていくのを見た気がする。


「あなた、近親者も友達もいない孤独な人間らしいわね? あなたの存在も、奪うとしましょう」


 俺はやっと仮面の下の素肌に触れた気がした。

 彼女の笑みは、まさしく悪魔のそれだった。


 意識はどんどん希薄になっていく。


 俺がいなくなっても、誰も気づかないだろう。


 希薄な繋がりしか持たない俺を探そうとするものはいない。


 誰からも嫌われたミシロのおっさんと同じだ。

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