29.涙

 この部屋の中には、自発的に音を出すものが一切存在しない。

 オーディオ機器はもちろん、時計すら存在しない。聞こえてくるのは、俺と信濃さん、二人分の呼吸の音のみ。


 俺の呼吸は、ゆっくり、穏やか。信濃さんの呼吸は、未だにしゃくり上げるよう。まずは、これを落ち着かせることから始めよう。



「しーなーのーさんっ。まずはゆっくり、息を吸ってー……吐いてー」



 背中に回した手で、彼女の背中を優しくさする。しーやつーが風邪をひいた時のように、優しく、優しく、優しく。

 薄い体だ。強く抱き締めたら壊れてしまいそうな細さ。この体も、中の魂も、今相当参ってしまっている。


 ならもう、その手を取るしかない。俺は、そういう風にできてしまっているんだ。


 俺の行動に暫く固まってしまっていた信濃さんだが、やがて俺の言葉通りゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐く。



「そうそう、ゆっくり、ゆっくりね……そのまま、俺の話を聞いてくれるかな?」

「……うん」



 ただ抱き締められているだけだった信濃さんが、俺の胸元をきゅっと握ってくる。先程までと同じように、遠慮がちに。



「おっけい、ありがとうね。じゃあまずは、そうだな……信濃さん、君は自分のことを勘違いしちゃってる」



 ゆらゆら、左右に小さく揺れる。小さい時お袋に泣きついた時、こんな感じでゆらゆら揺れているのが心地よかった記憶を頼りに。

 信濃さんの呼吸が、安定してくる。まだ涙は出ているようだけど、少しだけ落ち着いてくれたみたいで一安心。



「君はね、すっごく優しい人なんだよ? 気遣いできるし、周りをよく見てるし……あ、それこそ二日目のお茶。あれ本当に嬉しかったんだよ? まだ朝は寒い時期だったし、あのお茶、本当に美味しかったよ」

「……そんなの、当然」

「君にとってはね。でも、俺はそれを優しさと受け取ったんだ。だから俺は何度でも言うよ。君は、優しい、いい人だよ」



 子供をあやす様に、彼女の中に俺の声を響かせるように一つ一つ言葉を伝える。

 今の俺の穏やかな心情を彼女に余すことなく伝えるように、ゆっくり、丁寧に、慎重に。



「それと、君は自分が俺に迷惑かけてるって言ってたけどね? 人って、生きてるだけで他人に迷惑を掛けちゃうんだ。俺だって、いっぱい沢山の人に迷惑をかけながら生きてきた」



 当たり前の話だ。授業、仕事、買い物、サービス、インフラ……全てに他人が絡み、他人が居ない世界は、きっとずっと厳しい。

 俺も、信濃さんも。しーもつーも親父もお袋も。赤嶺さんも木谷くんも矢掛くんも恭介も。みんなみんな、人に迷惑かけながら生きている。



「大切なのは、それをきちんと知っておくこと。だから君は、俺にいっぱい迷惑かけて良いんだよ」

「……でも、申し訳ない」

「大丈夫。君が喜んでくれたら、それで十分だよ」



 嘘偽り、一切無し。俺は、どうしても嘘をつくのが苦手だ。だから、どうしても言葉が直線になってしまう。

 それで苦労したことも勿論あるけど、こういう時は、この性質で良かったと心から思う。



「……なんでっ」



 信濃さんの声が、上擦る。


 先程まで落ち着いていた呼吸が乱れ始める。少しずつ声が震え始める。


 顔を上げる信濃さん。涙でボロボロの顔。普段の無表情からは想像もつかないくらい、感情が溢れ出た顔。



「なんでっ、くろさわくんわっ、そんなにっ……やさしいのぉ……! くろさわくんなら、もっと、いっぱい、たのしく、すごせるっ……のにぃ…………!」



 綺麗な瞳。それを埋め尽くす涙を、そっと指で拭き取る。


 なんで。


 その疑問の答えは、もうとっくに出ている。



「言っただろう? 君を幸せにするって」



 初めてのデートの日の言葉。


 あれ以来、あの言葉をいい意味でも悪い意味でも、忘れたことは一度もない。

 そのために俺は、ここに来たんだ……それくらいの気持ちで、俺は信濃さんと交流を深めている。


 恥ずかしかったし、何口走ってんだとも思ったが、それはそれとして、俺は信濃さんを幸せにしたい。


 その気持ちは、ずっと変えない。



「誰かと楽しいことをしたいんじゃない。君と……信濃咲と、楽しいことをしたい。信濃咲を楽しませたい……そのために俺は頑張るんだ」



 ──だから、こうやって君を抱き締めるんだ。


 少しだけ、ほんの少しだけ力を込めて彼女を抱き締める。

 言葉は尽くした。あとは……この胸の中の小さな女の子が、どう受け取るか。



「……あり、がとう…………っ!」



 絞り出したような、掠れた、必死な、夢中な、縋るような。


 これまで聞いたどんな彼女の言葉よりも、ずっとずっと気持ちが溢れてくる一言。


 それだけで、救われたような気がした。



「わたしをっ…………ひっぐ…………たすけてくれて…………ぐすっ…………ともだちになってくれてっ…………ありがとうっ」

「どういたしまして。こっちこそ、ありがとう。俺の手を取ってくれて」

「そんなのっ……当たり前……!」



 信濃さんの涙は、結局減らないまま。


 だけど、この涙は、きっと……いや、間違いなく悪いものじゃないから。


 俺はその涙を、止めようとはしなかった。



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