第48話 前世の記憶か今生の失敗か
年に1度、夫の両親、私の両親と祖母の墓参りのために上京する。二人とも仕事を辞めてからは、そのあとに旅行を楽しんでいる。宿泊もそんなに高いところは泊まれないが、何か所か廻る。その際に「あぁ」と蘇る不安がある。先に書いた高いところとは料金が高い、高級という意味であるが、私は文字通りの高いところが苦手、実はエレベーターが怖いのである。
島のエレベーターは官公庁にある1台だけで、乗らなくて済む生活である。だが、都内は無論、観光地のホテルは全てエレベーター。数階下の自販機やコインランドリーならば階段を使いたいと思うのだが、階段は扉に隠れており下手に開けると、非常ベルが鳴ったりする。便利なんだが不便なんだかわからない。
もちろん都内で働いていたころは毎日、エレベーターに乗っていた。奥歯を噛みしめながら。もしもガクンと急に止まったらパニックに陥るだろうと思いながら。幸運にも一度もそんな経験はなかったが、閉じ込められるのが怖いのである。満員電車や狭い船室も閉所の恐怖はあるのだが、電車は自分の意志で下りられるし、船は甲板に出られる。いかにしてもここから出られないというのが世にも恐ろしい。
或る日、テレビから、かつて欧米の植民地であった島の人の話が聞こえてきた。
「僕の祖先は船に乗ってここへ来た。船客ではない。荷物として」 その瞬間、暗い船倉に詰め込まれ膝を抱えて座る人の姿が浮かび、ツーと涙が流れた。あとから悲しみや怒りの感情が追いかけてきたが、最初は自分がなぜ泣いたのかわからなかった。
話は小学校のプールへと飛ぶ。K君という活発な男の子がいた。そのころ流行っていたドッジボールのスターだった。だが、7月になって最初のプール授業で、彼はスターの座を降りた。私を含めて泳げない子はまだ数人いたのだが、彼は顔に水がかかることさえ怖がり、身体を棒のように突っ張らせて紫色の唇を震わせていた。
3月になり東日本大震災の津波の映像が流れる。津波で亡くなられた人、川や海で溺れ死んだ人、戦艦が爆撃され海の藻屑と消えた兵士…そんな亡くなり方をした人たちが、前世の記憶が残っていて水が異様に怖いのではあるまいか。私は閉じ込められて死んだのかな、と思った。
夫に話しかける。子どものころ、水を怖がってプールに入らない子っていたよね…いたいた、胸より上に水が来るとダメな子が…それって溺れ死んだりした前世の記憶かな…うーんどうかなぁ、それもあるかも知れないけど、赤ちゃんのころ、おかあさんの手がすべってタライにポチャンしたのかも…。
私は思い出した。エレベーターの内側のドアだけが開いて、薄暗い空間に鉄の格子みたいな、蛇腹みたいなものが見えた映像を。あれは私が小学校1年か2年で、4つ上の姉と一緒だった。祖母が親しくしていた方が、まだ珍しかったマンションに引越をされて新居に遊びに行ったのだ。祖母とおばさまが部屋で話している間に、私たちはマンション内を探検に出た。
壁も廊下も白くてピカピカしていた。デパートにあるような立派なエレベーターがあった。早速乗り込んで上がったり下がったり、自分たちでエレベーターを動かせるのが楽しかった。が、いきなりガクンと止まった。外で何かが鳴っている。どちらかが、たぶん私が、姉の真似をしてボタンを押したかったのだろう、緊急停止ボタンか何か、押してはいけないものを押したらしい。
姉が扉を開こうと「開」のボタンを押した途端、内側の扉だけが開き薄暗い空間に鉄の格子…という恐怖の瞬間。火がついたように泣きわめく私の腕をつかみながら、姉は「閉」を押して扉を閉め、階数のボタンをいくつか押した。エレベーターが動き出して止まり、今度はちゃんと開いた。祖母のいる階ではなかったけれど、私たちは恐怖の箱からまろび出た。
姉の突破行動は後から聞いたことで、私は覚えていない。ただ上の階に止まったらしく、姉に引きずられながら階段を駆け下りたことは覚えている。今後30年以内に震災が起こる確率は80%だと言われている。地が揺れるその瞬間に箱の中にいたくはないが、せめて落ち着いて最悪のなかでも最善の行動をとりたいと思う。あの日から60年近くの歳月が経つのだから、少しは成長しなくっちゃね。
いやぁやっぱり怖い。神さま仏さま、良い子でいますから、どうかエレベーターに乗っているときに地震を起こさないでください。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます