22 モヤモヤした中で
21:00、片付けを終えたハルは定例の車内巡回に出かけた。アキが「戻ってくるついでに一回りしたから行かなくてもいいわよ」と言ってくれたが、それはそれで気になってしまうので、向かうことにした。どうせメタ・エントランスにいたところで、会談の様子が気になって落ち着かないんだし、だったら出かけようという算段だった。
貨物車を超え座席車に入ると、車内はだいぶ暗くなっていた。基本的に薄暗いシーチューブの中では、車内の人の体内時計をできる限り狂わせないように、照度で調整をしている。今は21時過ぎだから、夜のモードになっている。ただ、昼間と同じで空席が多く、在席していても寝ている人が大半だったので、この程度の照度が丁度いいのだろう。
ラウンジ車は、座席車より少し明るい程度の照度だった。ここは昼間よりも人が多く、ビールなどの飲み物を片手に語らう姿の乗客が多く見られた。どの乗客もラフな格好をしているので、たぶんメタ空間車で遊んでいた乗客が戻ってきて、海底連邦での最後の一夜をゆっくり過ごしているのだろうと思われた。
そう思うと、長い海底生活だったが、明日にはマザー・タートルの本物の太陽の下に出られるのだ。この薄暗い世界も名残惜しいが、地上に戻れることは素直に嬉しく感じられた。
続く食堂車では、遅めのディナーを食べる乗客で混雑していた。これも昨晩はメタ空間のレストランで食べる乗客が多かったが、今夜は評判のタートル鉄道の食堂車でゆっくりと、という乗客も多いのだろうか。賑わっている様子が感じられた。
ちなみに“マシラウ2号”での人気メニューは、意外なことに魚介類だった。シードーム内の牧場で牛や豚などの家畜は飼育できているが、汚染された海を生き残った魚や貝などは、毒を持つものや硬い鱗を持つものなど、食用に適さない生物が多い。最近では、マザー・タートルから養殖用の魚介類を輸入して食べられてもいるが、まだあまり普及はしていない。
だから、久しぶりに本物の魚を食べれるということもあり、多くの乗客が食べていた。特に、寿司や刺身といっと生魚は衛生管理の都合上食べることができず、この日一番の売上を記録していた。
次のメタ空間車はいつもと様子が違った。車内、メタ・エントランス前の広場にクロイドが常駐しているのだ。聞くと、やはりまだ会談中のため、念のためここにいると言っていた。
そのメタ空間内に入り、フロントのクロイドに尋ねると、VIP専用の会議室にいるとのことだった。その場所まで向かうと入り口前にクロイド、そしてフユがいた。
「おい、メシは食べたのか?」
開口一番、フユはそんな質問をしてきた。
「食べた食べた、今は普通の巡回中だよ」
「そうか、そいつは悪かったな」
「中の様子は?」
「別に何も変わってないというか、わからないからな。秘書もほら、あそこで待機している」
フユが指差す方向を見ると、ゴルでジン議長と一緒に乗り込んできた男女2人がいた。ハルがその方向を見ると、2人ともこちらを一瞥しただけで、特に会釈もせずに前を向いていた。
「ずっとああなんだ。冷たいだろ」
フユが小さな声で囁いた。確かに冷たく感じたが、裏を返せば職務に忠実であるということかと思った。
フユと少し話したあと、ハルは巡回を再開した。二等寝台車の15号車に入るとマドレーヌたちがいた。全員、神妙な面持ちで話していた。
「やあ、マドレーヌさん」
「えっ、ああ、ハルさん」
ハルが声をかけると、驚いたかのように顔を上げた。他の人もこちらを見た。みんな昼間に会った時と雰囲気が違った。
「皆さんはここで待機なんですか?」
「はい。ルブタン枢機卿が私一人で行くとおっしゃって、せめて会議室の前まで一緒に行くとお伝えしたのですが、結構だとの一点張りで」
「そうなんですね」
「ええ、相手側が何人で来るかわからないし、大勢で押しかけて変に緊張させて話が拗れるのも良くないと。それで、ジン議長の方は何名でいらっしゃいましたか?会談の様子はどうですか?」
ハルは付き人は男女1名ずつで会議室の前で待機していること、会議室の中の様子はわからないので、会談の内容も全く把握していないことを伝えた。ハルが話している間、マドレーヌを始め、全員が慎重に話を聞いていた。
「なるほど、では良い話なのか悪い話なのかもわからない、という事ですね」
「はい。まあ、直接ジン議長と話をしたアキによると、ジン議長側はあくまでも穏やかに話をしたいという様子だったんですが」
「ハルさん、見た目に惑わされてはいけません」
「へっ?」
「政治家というものは、演技が上手なんです。たとえ笑顔で近づいてきたとしても、腹の中では今すぐに戦争を始めようとしている人も多いのです。だから、たとえどんなに笑顔で近づいてきたとしても、最後に合意書に調印するまで信じてはなりません」
「…!」
マドレーヌの言葉にハルはぐうの音も出なかった。アキも冷静な判断ができるとは言え、政治に携わったことは無い。だから、見た目の様子だけで判断するのは間違う可能性も高い。
確かに、言われてみればこれから相手に不都合な事を言うにしたって、そういう態度で向かっていったらそもそも会談の席に座らないだろう。だから、最初の挨拶だけでもにこやかに行くのが鉄則だ。
そう言えば、自分達もクロイドが対処できない乗客の相手をする時に、必要以上に相手を挑発しないように静かに接近しているではないか。ジン議長もそういう思惑だったのか。そう考えると、結局良い話なのか悪い話なのかわからなくなってしまった。
このモヤモヤを晴らすための気分転換に巡回に来たのだが、結局は余計に心配になってしまった。残りの一等車を巡回している間、ハルはずっと考え込みながら歩いていた。
「ハルさん」
「えっ」
唐突に声をかけられて、再び驚いてしまった。見ると、一等展望車のカクテルバー常駐のクロイドがこちらを見ていた。
「どうしたんですか、深刻な顔をして。心ここにあらずという感じでしたよ」
「あー、びっくりした。いや、ちょっとね」
「制服を着た乗務員がそんな顔をしていたらお客様に不安を抱かせてしまいますよ。さ、水でも飲んでスッキリしてください」
そういうとクロイドは、ハルにコップを手渡した。
「ありがとう」
ハルはコップを掴むと、中に入っていた透明の液体を一気に飲み干した。
その瞬間、喉に激痛がはしった。
「うぇっ」
思わず声が出た。激痛はすぐにおさまり、お腹の中からガスが出てきそうな感じで、ゲップを我慢するのが大変だった。
「何これ…?」
やっとの思いでクロイドに尋ねた。
「何って、水ですよ。水と言っても炭酸水、それに強めのね」
そういうとクロイドはウインクをした。
「強めの…」
「はい。まあ驚かせてしまったことは申し訳ない。でもこうでもしないと正気に戻らないかと思いまして。我々クロイドは心理学の知識というか、お客様がどういうお考えなのか判断する能力が高いですので、さっきのようなハルさんには、刺激が一番だと思いまして」
「…そう。そんな変な顔をしていたんだ」
「はい。まるでこの世の終わりかのような。でも、忠告させてください。どんな事があったのかわかりませんが、あなたは今、この列車のオペレーターとして、終点まで集中して乗務に取り組まなければいけません。お客様を不安にさせるような行動は論外です。ですから、お目覚め頂けるように、少し工夫をさせて頂きました」
「…」
クロイドの言う通りだった。自分はこの列車のオペレーターとして、安全、安定して列車を動かす義務がある。それなのに、自分にはあまり関係のない話に首を突っ込んで、勝手に盛り上がって、勝手にモヤモヤしている。
ルブタン枢機卿もジン議長も、ここではただのお客様だ。そのお客様がどんな話をしていたとしても、列車運行に影響ないのならば問題はない。
むしろそのお客様が安心して話をできるように、全力を尽くすのが自分達、乗務員じゃないのか。それなのに、自分はなんと愚かだったのだろうか。
クロイドの言うことにハルはぐうの音も出なかった。先程のマドレーヌといい、ここのクロイドといい、自分自身の未熟さを感じていた。
「そうだね。確かにシャキッとしなきゃ」
「はい。元気になってもらって良かった。さあ、お口直しにどうぞ。今度は本当のお水ですよ」
クロイドは笑顔でコップを出してきた。ハルは恐る恐る飲んでみたが、確かに普通の冷たい水だった。
「ありがとう」
さっきよりも感情のこもったお礼をして、ハルは機関車に戻っていった。
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