時間迷宮の館の主は時間旅行のタブーを恐れない

 ジョシュアは思い出していた。アラビア語が飛び交う薄暗いマーケットの片隅の、「時間屋」の店主の老人の話を。老人の言葉が記憶に蘇り、ジョシュアの声になって発せられた。

「未来は決まっていない。だから行ってもさして問題はない。しかし過去は既に決まっている。そこへ行くということは、決まっている過去を変えることになる……だから行けない。過去へは」

 ハルは黙って聞いていた。他の者も同様に黙りこくっていた。皆、ジョシュアが何を言いたいのか、はかりかねていた。

「それが、時間旅行のタブーだ。……彼はそう言っていた」

「それで?どこかでこの館の噂を聞いて、今度は過去へ旅してみたくなってここへ来たというのか?タブーを犯して」

 ハルはジョシュアの告白に動じる様子もなく言った。

「そうだ」

「……いつへ飛びたい?事件の夜か?」

 ガタッ、と椅子を鳴らして立ち上がったのはヘイゼルだった。

「まさか……できるのか、時間旅行が?」

「できなきゃわざわざ自分の家にこんな通り名はつけない。過去へも未来へも行けるし、五分だけなんてケチくさいことは言わん。料金は相応にいただきますがね」

「つまり、事件の夜に戻って犯人を直接この目で見ようというわけか!」

 ヘイゼルが興奮して言った。

 すかさずシャーロットが叫んだ。

「わたしも連れて行って」

「また何を言い出すの。戻れる保証がないのに連れていけるわけがないでしょう」

 ジョシュアは即座に却下した。そして好奇心旺盛な妹をこの館の門の前で見た時に、無理矢理でも家に帰さなかったことを激しく後悔した。

「そんな。戻れる保証がないからこそ行きたいわ。戻れないかもしれないのはお兄さまも一緒でしょう?わたし、お兄さまと会えなくなる方が嫌だわ」

 シャーロットはジョシュアにすがりついて懇願する。そんなに仲の良い兄妹だった覚えはないのだが、とジョシュアは思ったが口には出さなかった。更には、

「そういうことでしたら私も行きます」

と、ジャックまで言い出す始末だ。

「どいつもこいつも失礼な奴ばかりだな。少しは私の腕を信用してほしいものだ」

 ハルは呆れて頭を掻く。

「ちょっと待ってくれ。俺も行くぞ。時間旅行の体験記事なんて今まで誰も書いていないからな」

「お前は来なくていい」

 ジョシュアが一蹴する。しかし、ハルが言い渡した。

「いや、連れていくのは、ジョシュアとヘイゼルだ」

「何故……!」

 外されたジャックが珍しく大きな声を上げ、ハルに詰め寄った。

「殺人の現場に行こうというのにお嬢さんを連れて行くのは誰が考えたって危険すぎる。しかし君が言っていたことが正しければ、まだおかしな化け物がロンドンをうろついているかもしれない。そんな中、お嬢さん一人この館に残していくのも不安だ。それに、誰か一人は残って砂時計を監視せねばならないが、そこの記者は気まぐれすぎる。ジャック、君が一番信用できる。主人が無事に戻れるよう全力で見守れ」

「砂時計?」

「そう、これだ」

 ハルが机に置いたのは、お茶を淹れる時に蒸らし時間を計る、五分間の砂時計だった。

「時間旅行に旅立つと、砂が落ち始め、砂が落ち終わるまでに帰ってくる。『見張り役』は全員が戻るまで、この砂時計が水平を保つよう見張るんだ。砂時計はもうひとつ……」

 ハルはポケットからもうひとつの砂時計を出す。

「こちらを『向こう』へ持っていく。その砂時計が水平であれば、こちらの砂時計の砂は呼応する。ふたつの砂時計が呼応している限り、旅行者は元の時間に戻ることができる」

「へぇ。どういう仕組みなんです?」

 ヘイゼルが砂時計をしげしげと観察する。

「まあ、おまじないみたいなものさ」

 ハルは曖昧に答えた。この記者に手の内を洗いざらい見せるつもりなどないのだろう。

 ふたつの砂時計をテーブルに置くと、中途半端に残っていた砂が落ちる。ハルは席を立ち、室内の燭台に火をつけて回る。窓の外はすっかり日が落ちていた。

「さて、準備が良ければすぐにでも旅立てますよ。いかがかな?」

 ハルが改めて言う。

「勿論!」

 ヘイゼルが威勢よく答える。

 ジョシュアはいちいち暑苦しいヘイゼルに辟易として、この館に来て何度目かのため息をついて言った。

「僕も大丈夫だ」

「では、皆、ちょっと寄って。この円の中に入って」

 ハルの指示で、二人は床に描かれた円形の模様の中に入る。

 ハルが腕時計を操作すると、俄に空中に光の粒が現れた。光の粒はみるみるうちに増えて広がり、三人をすっぽりと包み込んだ。ハルは砂時計をふたつ同時にひっくり返し、素早く片方をテーブルに戻した。ロッドとリリーがどこからともなく舞い降りてきて、光の中に飛び込んだ。

「お兄さま!」

「ご無事で……!」

 ジャックが言い終わらないうちに、三人は光の中に消えた。

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