有能な執事はいつでも最高のお茶を淹れる
「……逃げましたね、サー」
扉を閉めるなり、始終黙したままジョシュアに付き従っていたジャックが言った。
「ああいうタイプは苦手だ」
「記者ではなく、警部からですよ」
「ふふ。僕を犯人扱いするからさ。なんとも不愉快な朝だ」
「熱いお茶を淹れ直しましょう」
「ありがとうジャック」
あの失礼な刑事はジョシュアの名を聞いて、彼の母譲りの黒髪や黒い瞳を無遠慮にねめ回していた。なんという偏見だろう。
ジョシュアは男爵家の庶子だった。母の家は裕福だったがユダヤ系だったので、当時のエヴァンズ男爵〜ジョシュアの祖父にあたる〜の意に沿わなかった。だがジョシュアが生まれて間もなく祖父は病床に臥せり、数年後には他界してしまう。その間にジョシュアの父は幼いジョシュアを男爵家に引き取り、エヴァンズの姓を名乗らせた。
ジョシュアは利発で素直な子どもだった。幸い母の実家でもエヴァンズ家でも、誰に疎まれることもなくすくすくと成長した。好奇心に満ちて輝く大きな瞳は愛くるしく、美しい艶をたたえて波打つ黒髪は形のいい額や細いうなじにふりかかって、その磁器のように白い肌を際立たせた。そんなジョシュアをエヴァンズ家の当主となった父も惜しみなく愛した。
ジョシュアの父・エヴァンズ卿は、ジョシュアが八つの年に貴族の娘イザベラと結婚した。程なくしてジョシュアは、全寮制のパブリックスクールに入る。数年後、イザベラが年の離れた妹を産む。更にジョシュアが大学在学中に弟が生まれ、ジョシュアの足は自然と家から遠のいていった。卒業後は家を出て、爵位は継いでいない。
「ふん。あの記者に便乗して皮肉の一つでも言ってやればよかったかな。『ホワイトチャペルの殺人鬼はまだ捕まえないのか』なんてね。ヤードの無能のとばっちりを食ういわれなぞない」
「得をしない喧嘩は売るものではありませんよ、サー」
ジャックが嗜める。ジャックはジョシュアより二歳かそこら歳上で、元はエヴァンズ家の使用人だった。主人のことは子どもの頃から知っている。
「そういえば君もジャックだったな」
ささやかな反抗のつもりだったが、もちろんジャックは涼しい顔で受け流した。
数年前にロンドン中を震撼させた、ホワイトチャペル地区で起きた連続殺人の犯人はまだ捕まっていない。売春婦を殺して臓器を切り取るという犯行の手口から、犯人は「切り裂きジャック」の通称で恐れられていた。事件直後から多くの容疑者があがっていたが、決め手に欠け逮捕に至っていない。そして一説には、ユダヤ人の犯行ではないかとも囁かれていた。
今回の事件も一見すると遺体の損壊状況から「切り裂きジャック」を連想させるが、被害者の衣類はどうやら男物のようだし、臓器を切り取られたというよりは身体をバラバラに引きちぎられた印象なので、冷静に調べればだいぶ状況が違いそうだ。そもそもこのあたりは売春婦がうろつくような地区ではない。
「獣に喰い殺された……か」
「どうかしましたか?」
「いや、あの記者が言っていたんだ。ちょっと気になってね。街道で追い剥ぎにあった死体を野犬が喰い荒らすことがあるのはたまに聞くが、このあたりにそんなに犬がいたかな」
「あまり聞きませんね。紅茶のおかわりはいかがです?」
「それより散歩に出ないか。血の臭いが気になって食事をする気も起きない」
「ではコーヒーハウスにでも行かれますか」
「いいね、そうしよう。付き合え」
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