警部と記者と謎の死体

 死体は朝の陽に温められて、緩み始めているように見えた。皮膚は無残にやぶれ、引き剥がされ、ちぎれた腕と脚と胴体の断面がぬらぬらとした内部を晒している。野犬に腹を喰い破られたのか、内臓が引っ張り出されてぐちゃぐちゃと絡まり、周囲には赤黒い肉が散らばっている。流れ出た血液は路上にあふれるその他の雑多な汚濁に混じり合って石畳の溝を伝っていく。

 ジョシュアはハンカチで口と鼻を塞いだ。

「これはまた、片付けるのが大変そうだな……いつ片付くんです?」

「記録をつけたら今日中にはモルグに運びますよ。エヴァンズさん、遺体に心当たりは?」

「いえ、まったく」

「訪ねてこられたお知り合いとか」

「まず顔がわからない」

「ああ、ごもっとも。……それです」

 チェスターが指さした先には、確かにごろんと頭部らしき塊があって、よく見ると髪の毛らしきものがへばりついている。しかし顔は潰れた肉塊になり果てていて、人相を判別するどころではない。血に濡れて引き裂かれた衣類は色も柄もわからない。とにかくすべてが血まみれだった。

「やはりご存じないですかね」

 チェスターはいかにも不快そうに眉根を寄せたジョシュアの表情を解釈して言った。

「ご存知も何も」

 その時、死体の下で何かがきらりと光った。

「あれは?」

「おや、なんでしょう」

 ニコルが手袋をはめ、更にハンカチに包んでそれを拾い上げた。

 それは銀色に鈍く光る懐中時計だった。

「貴方のですか?」

「いいえ」

「見覚えも?」

「ないですね」

「おや!それは証拠品ですか?」

 突然快活な声がして、二人は振り返った。

 声の主は薄茶色のスーツを着た、体格のいい若い男だ。

「おはようございます、チェスター警部。やあ、だいぶ酷い有様ですねェ。まるで獣に喰い殺されたようだ」

「新聞屋ですよ」

 チェスターは苦い顔をしてジョシュアに言った。

「お前さんも嗅ぎつけるのが早いね。生憎だがまだ話せることは何もないぜ」

「ジャック・ザ・リッパーが再びロンドンに現れたのでは?」

「そういう情報は入っていない」

「被害者はどこの誰ですか?女性?男性?」

「検死に回さないと何も言えんよ。さあ、帰った帰った」

 チェスターに軽くあしらわれた記者は、しかし今度はジョシュアに向き直った。

「どうも、タイムズのヘイゼルです。あなたはこちらのお屋敷の?」

「エヴァンズです」

「おいヘイゼル、勝手に話すな」

 警部が制止したが記者は意に介さない。

「ではあなたが通報した?殺害現場は見ましたか?」

「どちらもノーだ」

 上背も身幅もある男に畳み掛けるように詰め寄られて、ジョシュアはあからさまに不快感を示した。ジョシュアは小柄ではないが、どちらかといえば華奢な部類だ。

 ヘイゼルの後ろではスケッチを取っている記者もいる。ジョシュアは顔を見せないよう咄嗟に背を向けた。

「チェスター警部、僕はそろそろ失礼していいですか」

「ええもちろん。何かわかったらお知らせしますよ」

「ああ是非お願いします」

 別れの挨拶もそこそこに、ジョシュアはヘイゼルから逃れるようにドアを開けた。

「あ、ミスター、ひとつだけ」

 警部に呼び止められて、ジョシュアはドアノブを握ったまま小さく息を吐いた。

「昨日はシティのどちらに?」

「銀行だ」

「8時まで?」

「パブで夕食を」

「どなたと?」

「……一人だ」

 ジョシュアは自分でも語調がきつくなっていることを自覚した。彼の苛立ちを警部も感じ取ったのか、それ以上は問い詰めてこなかった。

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