第27話 統べる者
イブキの前でミスズリが咳き込みながら、膝をつく。
あれだけの衝撃を受けてなお鞭も一升瓶すらも手放さないのは流石に訓練の量が違うな、と内心気を引き締めるイブキ。
──何かを見落としている気がする。
「……はぁ〜、やってられんわ」
ミスズリは自棄になったように瓶を逆さにして日本酒を流し込んでいく。
それを全部飲み切ってから、ゆらりと立ち上がった。
ぽい、と放り投げられた一升瓶が破砕音を響かせ路上に散らばる。
──彼女の立ち姿に違和感を覚える。
「久しぶりやなぁ、この感じ」
鞭を両手でくるくると弄ぶミスズリ。
──そうだ、
たったいま一升瓶を投げ捨てたから。
それが違和感になるのは、どうしてだろうか。
「──まさか」
イブキと会ってから、彼女がずっと飲んだくれていたからだ。
だとすれば、
「貴女の
「……ひひっ、なぁんや今ごろ気づいたん?」
口角が吊り上げる彼女の
「『飲酒』……!?」
「正解」
こてんと首を傾げるミスズリ。
行動が
「
「それも、正解〜」
つまり、飲めば飲むほど強くなる。
今まで一口ずつ飲んでいた彼女が、一気にそれを飲み干したのだ。
効果のほどは計り知れない。
かつてないほどの恐怖に、果たして自分が耐えられるだろうか。
ゆらゆらと、まるで蛇の威嚇のように頭が左右に揺れ、彼女の墨色の髪も揺れている。
青ざめた表情のイブキは、臨戦体勢のミスズリを止めるべく遮二無二駆け出す。
けれど、彼女の
「ほな」
彼女が顎を上向け、
(──間に合わない……!)
そう察しながらも全力で路面を蹴り、
「────はぇ〜」
ぱたん、と。
ミスズリはそのまま後ろに倒れた。
「…………」
倒れたまま、ぴくりとも動かないミスズリ。
「……え?」
イブキは思わず立ち止まり、大の字に倒れている着物美人をまじまじと見つめてしまう。
深緑の着物は緩んだ帯のせいで盛大に着崩れ、どこか既視感を覚えるだらしない着付け姿になっていた。
「…………」
恐る恐る近寄って、脇腹を爪先でつついてみる。
「うにゅ〜……」
大敵たる美女は、完全に、目を回していた。
「……よ」
イブキは戦慄と共に喉を震わせた。
「──酔い潰れてる〜っ!!!!」
♢♢♢♢♢
「なにやってるの……?」
エエエェェェェエエエ!という間の抜けた絶叫に、クシナは片手を腰に当てて背後を振り返った。
そこに、気持ちの良いほど豪快に仰向けになっている蛇と、狼狽えながらその周りをぐるぐるしている英雄の姿があった。
「…………」
見てもわからなかったので、何も見なかったことにしてクシナは視線を前に戻した。
そこには、膝をついて俯く
彼女は鎖でぐるぐる巻きにされており、その鎖はクシナの空いた片手へと繋がっている。
つまるところ
その様はあたかも飼い主と飼い猫のよう。
唯一違うのは、飼い猫がリードで繋がれている点だろう。
「ま、そういうわけだから、貴女も貴女の姉も終わり。あたしたちの勝ちね」
これからどうしようかしら、とイブキの方を困ったように見ながら頬に手を当て考え事を始めるクシナ。
──その背後で、ミラの蒼い瞳に薄暗い光が灯った。
(ほんっっとうに業腹ですが、最終手段しかありませんわね)
ミラの
その同時、装填数は二つまで。
今のミラのスロットは《発火》と《加速》で埋められていた。
ここ数年、変わることのなかった二つである。
一度入れ替えてしまうと制限がかかってしまうが故に、軽々に入れ替えることはできない。
加えて、この二つはミラにとって忘れられぬ
しかし、頼みの姉まで倒れてしまったとなれば、いよいよ手段は選べない。
あつらえ向きにも、【
一般的には彼女の
しかし、ミラはとある考えに至っていた。
それは、〈
〈
なにより、
(先程の、最初の一撃)
クシナがイブキを庇うように放った、ミラの鳩尾への一撃。
あの時クシナは現れた瞬間に既に掌底を
《転移》前はイブキへと駆け寄る姿勢だったにも関わらず、である。
明らかに、体勢を変える行程が消えている。
例えば、事象の省略。
もしくは、時間の停止。
そうした
そして、そのどれにしろ──仮に《転移》だったとしても──現状をひっくり返す力がある、とミラは確信していた。
だからミラは長年変えることのなかったスロットを入れ替えることを決意したのである。
──そのための準備は、既に済んでいる。
イブキも知っているように、ミラの
その詳細は、『物真似』というもの。
文字通り、模倣対象の物真似を求められる。
言動どちらも合わせてである上に、対象の目の前で行わなければいけないという制限までついていた。
言うまでもなく、高いプライドを持つミラにとって、この
ゆえに、『物真似』をする相手も選ぶ必要がある。
唯一許容ラインを超える人間として、同じ華族や”何度も辛酸を舐めさせられた宿敵”などが候補に上がる程度。
男なんぞ以ての外である。
その点、クシナはミラの許容値を満たしていたと言える。
まず、その完璧と言って差し障りない容姿。
美的水準の高い華族であっても、初めて見るほどの美貌だ。
その時点で、ミラは既に布石を打っていた。
つまり
ミラは確かに、京都駅でクシナと謝罪
彼女の対面で、同じ言葉を返し、同じように頭を下げた。
──『この
あの時はまだ怒りの感情があったが、クシナの正体まで辿り着いた今となっては別に構わない。せいぜいが”不服”の一言で済む。
(入れ替えるのは──《加速》)
少し悩んだ末に、
この局面を乗り切れば、また相見える機会もあるだろう。
そしてクシナの
(さあ、貴女の景色を見せてもらうわ──!!)
「──────────ぁ」
バチっと、何かが弾ける音がした。
鼻腔の奥が、焦げ臭いような匂いを感じて──やがてそれも感じなくなった。
この時、ミラの視界は白く染まっていた。
そこに、じんわりと”世界”が見えた気がした。
次の瞬間には、それが赤く塗り替えられた。
──本能が理解した。
今、自分には「本当に世界が見えていた」と。
世界。
世界だ。
それが、
橋の素材。出雲のしめ縄。駅を歩く人々。流れる水。魚の鱗。誰かの毛髪。風の色。自動車工場。窒素。D”層。揺れる葉桜。欄干。巣の中の蟻の幼虫。多血質。α。炭化していく木材。列車の音。青。
世界の構成要素。
ありえない。
視えるはずがない。
人間の脳では一瞬足りとも、耐えられるはずがない。
本来ならば、視えた瞬間にミラの自我は消え失せていただろう。
では、なぜ意識まで保っていられるのか。
「もちろん、あたしが停めてあげたからよ」
声がした。
ミラが《停止》を行使した
0.0000000001秒にも満たない、その刹那。
「ほぼ同じ瞬間に停止すると、
ミラは、思う。
(こんなの、転移でも、省略でも、ましてや──停止でもない)
そう、おそらく
では、クシナの
その正体は──不明である。
クシナ本人すらも全容を把握できていない。
星の軌道がずれているという話も聞いたことがないから、おそらくこれは宇宙規模に及んでいるはずだ。
全てひっくるめて、この”世界”。
そう。
クシナは”時間”などという曖昧にして相対的な”もの”ではなく、”世界”という唯一にして絶対的な”物”の動きを止めている。
だから、
”
本当に時間を停止させているのであれば、支払うべきものは止めた分に比例して然るべきである。
そうではなく、指数関数的に増えるのには何かしらの理由があると考えるのが自然だろう。
例えば、停止時間が伸びるほどに”存在がズレていっている”、だとか。
”元の場所”に戻ってくるのに、それに相応しい修正力を働かせねばならない、だとか──。
だが、その正体をめぐる不毛な憶測はミラの心中には一握も在りはしなかった。
あったのは、たった一つの純粋な疑問。
(どうして……この女は、正気を保って……?)
──すぐに辿り着いたのは、それがあまりに単純な答えだったからだ。
(まさか……)
あくまで正常に、
あの、一瞬たりとも只人には耐えられない情報の津波を。
(ありえない、ありえないありえない……!)
そんなことが、ありえていいはずがない。
(だってそんなの……っ)
自分が今まで出会ったことのある、どんな天才とも超人とも比べられない。
あまりにも隔絶しすぎている。
(たかが一個人の保有していていい
そんなものを平然と、
それはもう。
(神の、領域に────)
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