第17話 恐れ
「なんや気ぃ抜けるわぁ……」
女は髪をくしゃっと手で押さえた。
「敵はんに自己紹介とか意味分からんけど、まあ、ええかぁ。ミスズリや、よろしゅう」
「ミスズリ、さん……」
やっぱり知らないな、と軽く眉根を寄せる。
同時に、いつものことだという諦念もあった。
というのも、これは決してイブキの知識が足りていないわけではない。
そもそも知識が与えられていない、というのが適当であろう。
例えばの話。
とある高校を舞台とする学園ドラマで、
全校生徒が千人だったとしても、せいぜい三十人しか描かれないのが普通だ。
一つの学校という括りの中でさえ九七〇人の
主に【
それが漫画『私の
……ちなみに「
とても悲しき事実である。
ともあれ、イブキはこの世界に生きる人間を三十七人しか知らないのだ。
その三十七人のうち何人と、死ぬまでに出会えるだろうか。
その上でなお、半分の十八人と会うのだって至難の業に違いない。
要するに。
──漫画の世界に転生したからといってネームドキャラとばかり出会うわけがないだろ!
と、イブキは
RPGに転生していればバグ技みたいなの使えたのかな、とか。
せめてハイファンタジーなら伝説の魔剣かっ
幼少期にさんざん羨んだことを今更蒸し返すことになるとは思わなかった。
それも、眼前に座す、どう見ても主要キャラにしか見えないクセつよお姉さんが
……いや、本編未出という可能性もある。
というか、その方がありそう。
ミラと組んでいるということは京都にある第二支部で登場する予定のキャラだったのかもしれない。
「なぁに、人の名前聞いて考え込んどるん?」
声をかけられて、はっと視線を上げる。
深みを持った紅蒼の瞳が、覗き込むようにしてこちらを見ていた。
「……いえ、どこかで会ったような気がして」
ややぎこちなく誤魔化すと、ミスズリが口をへの字に曲げた。
「ほんまに口説いてるんとちゃうかぁ? よぅ分からんお人やなぁ」
「口説く……?」
「…………なんでもないわぁ」
なぜか溜め息を吐かれた。
と、弛緩した空気だが油断はできない。
ミスズリが第二支部所属の
先ほど「なぜここに?」と聞いて「時間稼ぎ」と答えたのすら疑わしい。
嘘ではないが、まるきり真実というわけでもないだろう。
そもそもクシナが来るまで確実に人質にしたいだけなら、黙って同じ空間にいるだけでいいのだ。
それをわざわざ自分の情報まで明かして会話しているあたり、こちらから何か引き出したい情報があるのではないか、とイブキは睨んでいた。
「いやぁ、今日はびっくりすることばかりやわぁ」
予想通り、ミスズリは会話を止めるつもりはないらしい。
ゆるゆると首を振った彼女は、それから、ゆるりと首を傾げると、
「まさか有名な〈
何の気負いもなく、そう言った。
「……え?」
思わず、疑問を口に出してしまう。
「ん〜?」
すう、と目を細めて、ミスズリはこちらを見ていた。
慌てて唇を引き締めて頭を回す。
──そもそも、ミスズリはどこまで自分たちの情報を知っているのか。
ミラの悠然とした態度から正体などとっくにバレているものだと思ったが、ミスズリは今「こちらの正体を知らなかった」と口にした。
であれば、なぜ。
なぜ、ミラは研究所に現れたのか。
目の前の女の言うことを信じるならば、イブキを「〈
それは、つまり──と結論に辿り着く直前。
「なぁにを、黙っとるん?」
「────」
投げかけられた言葉には、重みがあった。
聞いた者の胸中に冷え切った鉛を流し込むかのような、理不尽な重みが。
「ぁ……」
手足の芯まで底冷えし、全身が凍りつくような寒さ。
身体は動かぬのに、焦りだけが募り、息が上がる。
視界に映る女は
違う。
違う。
真っ白な肌の女が、じっと遠くから見つめている。
瞬きもしない顔が、目の前にある。
違う。
違う。
真っ白な肌の女が、じっと遠くから見つめている。
瞬きもしない顔が、目の前にある。
違う。
女の口が裂け、耳をつんざく程の大声で笑った。
──違う。
人など容易く呑み込んでしまうほどの大蛇が、目の前で口を開けている。
「…………っ」
覚えが、あった。
一度はつい先ほど、気を失う直前に。
もう一度はずっと昔、かつてクシナと共に対峙した時に。
「
声を出した瞬間。
眼前の景色が不意に薄れた。
その向こう側に、ミスズリが変わらず座っていた。
「せやねぇ」
彼女は着物の袖で口元を隠して、くすくすと
それすらも、今のイブキには恐ろしくて堪らない。
「《金縛り》、それがウチの
袖越しにも、彼女の口元ははっきりと三日月を描いて見えた。
「で、なぁに考えてたん? 隠し事なんていけずな真似せんで、気ぃ失わんうちに喋った方がええよぉ?」
ぎりぎり、と音が鳴るほどに歯を食いしばる。
──この女、探り合いなんてする気はハナからなかったのだ。
自分が知りたい情報に近づいてから、恐怖という名の拷問によって吐かせる。
元よりそれが目的だったのだろう。
実際、それまでの会話に誘導されて、イブキは”彼女の知りたい情報”に辿り着いてしまった。
それは〈
ミラとミスズリは、イブキが〈
仮にあらかじめ〈
なにせ
確信とまではいかずとも真っ先に候補者としてイブキの名が挙がって然るべき。
逆に言えば〈
それも当然の話だ。
「────は」
イブキの脳裏に
クシナの母にして、先代〈
彼女の死を隠すべくクシナは〈
だからこそ余人には〈
ミスズリにとって、今この地にいるのはイブキとクシナの二人だけのはずだった。
しかしイブキが〈
「…………はは」
つまり、眼前で恐怖をばら撒くこの女は怯えているのだ。
【
そうして必要以上の警戒を抱かざるを得なくなっているのである。
「……ははは」
「気ぃ、おかしなったんかぁ?」
恐怖の末、笑い出した捕縛対象を
確かにイブキの心には未だ恐怖が巣食っている。
けれど、それ以上の頼もしさがあった。
──今は傍にいなくとも、ずっと傍にいた幼馴染への頼もしさが。
「ああ、
下手くそに、けれど不敵に、イブキは口角を上げた。
「人に凄んでおきながら、自分は〈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます