第17話 恐れ


「なんや気ぃ抜けるわぁ……」


 女は髪をくしゃっと手で押さえた。


「敵はんに自己紹介とか意味分からんけど、まあ、ええかぁ。ミスズリや、よろしゅう」

「ミスズリ、さん……」


 やっぱり知らないな、と軽く眉根を寄せる。

 同時に、いつものことだという諦念もあった。


 というのも、これは決してイブキの知識が足りていないわけではない。

 そもそも知識が与えられていない、というのが適当であろう。


 例えばの話。


 とある高校を舞台とする学園ドラマで、名持ちのネームドキャラはいったい何人いるだろうか。


 全校生徒が千人だったとしても、せいぜい三十人しか描かれないのが普通だ。

 一つの学校という括りの中でさえ九七〇人の名無しモブがいるのである。


 主に【循守の白天秤プリム・リーブラ】に視点をおいて描かれる『わたゆめ』でも、それは同じこと。



 既刊十三巻で・・・・・・三十七人・・・・



 それが漫画『私のた夢』におけるネームドキャラの総数だった。


 ……ちなみに「指宿いぶすきイブキ」は「近所のお兄さん」として第一話限りの出演なので、三十七人には含まれない。

 とても悲しき事実である。


 ともあれ、イブキはこの世界に生きる人間を三十七人しか知らないのだ。

 その三十七人のうち何人と、死ぬまでに出会えるだろうか。


 不運幸運にも名無しの噛ませ犬指宿イブキに転生したおかげで、主人公ヒナタ親友ルイ敵幹部クシナなど主要キャラたちとはえにしが結ばれた。

 その上でなお、半分の十八人と会うのだって至難の業に違いない。


 要するに。


 ──漫画の世界に転生したからといってネームドキャラとばかり出会うわけがないだろ!


 と、イブキは声高こわだかに主張したい。


 RPGに転生していればバグ技みたいなの使えたのかな、とか。

 せめてハイファンタジーなら伝説の魔剣かっさらえたのかな、とか。


 幼少期にさんざん羨んだことを今更蒸し返すことになるとは思わなかった。


 それも、眼前に座す、どう見ても主要キャラにしか見えないクセつよお姉さんが名無しモブキャラであるという信じがたい事実からの逃避に過ぎない。


 ……いや、本編未出という可能性もある。

 というか、その方がありそう。


 ミラと組んでいるということは京都にある第二支部で登場する予定のキャラだったのかもしれない。


「なぁに、人の名前聞いて考え込んどるん?」


 声をかけられて、はっと視線を上げる。

 深みを持った紅蒼の瞳が、覗き込むようにしてこちらを見ていた。


「……いえ、どこかで会ったような気がして」


 ややぎこちなく誤魔化すと、ミスズリが口をへの字に曲げた。


「ほんまに口説いてるんとちゃうかぁ? よぅ分からんお人やなぁ」

「口説く……?」

「…………なんでもないわぁ」


 なぜか溜め息を吐かれた。


 と、弛緩した空気だが油断はできない。

 ミスズリが第二支部所属の天翼の守護者エクスシアだとすれば、ミラと同じで探り合いに秀でていることは確実。


 先ほど「なぜここに?」と聞いて「時間稼ぎ」と答えたのすら疑わしい。

 嘘ではないが、まるきり真実というわけでもないだろう。


 そもそもクシナが来るまで確実に人質にしたいだけなら、黙って同じ空間にいるだけでいいのだ。


 それをわざわざ自分の情報まで明かして会話しているあたり、こちらから何か引き出したい情報があるのではないか、とイブキは睨んでいた。


「いやぁ、今日はびっくりすることばかりやわぁ」


 予想通り、ミスズリは会話を止めるつもりはないらしい。

 ゆるゆると首を振った彼女は、それから、ゆるりと首を傾げると、


「まさか有名な〈乖離カイリ〉の正体が、イブキはんだったなんてなぁ」


 何の気負いもなく、そう言った。


「……え?」


 思わず、疑問を口に出してしまう。


「ん〜?」


 すう、と目を細めて、ミスズリはこちらを見ていた。

 慌てて唇を引き締めて頭を回す。


 ──そもそも、ミスズリはどこまで自分たちの情報を知っているのか。


 ミラの悠然とした態度から正体などとっくにバレているものだと思ったが、ミスズリは今「こちらの正体を知らなかった」と口にした。


 であれば、なぜ。

 なぜ、ミラは研究所に現れたのか。


 目の前の女の言うことを信じるならば、イブキを「〈乖離カイリ〉として」ではなく「指宿いぶすきイブキとして」追ってきたことになる。


 それは、つまり──と結論に辿り着く直前。


「なぁにを、黙っとるん?」

「────」


 投げかけられた言葉には、重みがあった。

 聞いた者の胸中に冷え切った鉛を流し込むかのような、理不尽な重みが。


「ぁ……」


 手足の芯まで底冷えし、全身が凍りつくような寒さ。

 身体は動かぬのに、焦りだけが募り、息が上がる。


 視界に映る女はあでやかに首を傾げているだけだ。


 違う。


 たおやかな女が、ころころと笑っている。


 違う。


 真っ白な肌の女が、じっと遠くから見つめている。

 瞬きもしない顔が、目の前にある。


 違う。


 たおやかな女が、ころころと笑っている。


 違う。


 真っ白な肌の女が、じっと遠くから見つめている。

 瞬きもしない顔が、目の前にある。


 違う。


 女の口が裂け、耳をつんざく程の大声で笑った。


 ──違う。


 人など容易く呑み込んでしまうほどの大蛇が、目の前で口を開けている。


「…………っ」


 覚えが、あった。


 一度はつい先ほど、気を失う直前に。

 もう一度はずっと昔、かつてクシナと共に対峙した時に。


天稟ルクス、か……っ!」


 声を出した瞬間。

 眼前の景色が不意に薄れた。


 その向こう側に、ミスズリが変わらず座っていた。


「せやねぇ」


 彼女は着物の袖で口元を隠して、くすくすとわらう。

 それすらも、今のイブキには恐ろしくて堪らない。


「《金縛り》、それがウチの天稟ルクスどす。仕組みが恐怖心に由来しとるんはウチの好みやないで?」


 袖越しにも、彼女の口元ははっきりと三日月を描いて見えた。


「で、なぁに考えてたん? 隠し事なんていけずな真似せんで、気ぃ失わんうちに喋った方がええよぉ?」


 ぎりぎり、と音が鳴るほどに歯を食いしばる。


 ──この女、探り合いなんてする気はハナからなかったのだ。


 自分が知りたい情報に近づいてから、恐怖という名の拷問によって吐かせる。

 元よりそれが目的だったのだろう。


 実際、それまでの会話に誘導されて、イブキは”彼女の知りたい情報”に辿り着いてしまった。


 それは〈刹那セツナ〉の正体。


 ミラとミスズリは、イブキが〈乖離カイリ〉であることを知らなかった。

 仮にあらかじめ〈刹那セツナ〉の正体がクシナだと知っていたならば、十年前を知るミスズリは自然と〈乖離カイリ〉の正体にも気づけていたはずだ。


 なにせ天稟ルクスを持つ男の数は限られている。

 確信とまではいかずとも真っ先に候補者としてイブキの名が挙がって然るべき。


 逆に言えば〈乖離カイリ〉の正体に気づけていなかった時点で、彼女たちは〈刹那セツナ〉の正体を知らなかったことになる。


 それも当然の話だ。


 そのためにクシナが・・・・・・・・・刹那セツナ


「────は」


 イブキの脳裏にぎるのは、この旅でクシナが語った秘密。


 櫛引くしびきハキリ。

 クシナの母にして、先代〈刹那セツナ〉。


 彼女の死を隠すべくクシナは〈刹那セツナ〉を継いだ。

 だからこそ余人には〈刹那セツナ〉とクシナが同一人物であると気づけない。


 ミスズリにとって、今この地にいるのはイブキとクシナの二人だけのはずだった。

 しかしイブキが〈乖離カイリ〉であったことで、新たに〈刹那セツナ〉という脅威まで生まれた、という認識なのだろう。


「…………はは」


 つまり、眼前で恐怖をばら撒くこの女は怯えているのだ。

 【救世の契りネガ・メサイア】の最高戦力が、敵二人の後ろに控えている可能性に。


 そうして必要以上の警戒を抱かざるを得なくなっているのである。


「……ははは」

「気ぃ、おかしなったんかぁ?」


 恐怖の末、笑い出した捕縛対象をいぶかるミスズリ。


 確かにイブキの心には未だ恐怖が巣食っている。

 けれど、それ以上の頼もしさがあった。


 ──今は傍にいなくとも、ずっと傍にいた幼馴染への頼もしさが。


「ああ、可笑おかしいね」


 下手くそに、けれど不敵に、イブキは口角を上げた。


「人に凄んでおきながら、自分は〈刹那セツナ〉を恐れているんだろう?」




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