幕間 果敢無き姫のうたかたの夢・四


 ──櫛引クシナという存在は『完璧』だった。


 完璧であれと言われたことはない。そんなこと言われるまでもなかった。

 生まれてからずっと、ただ完璧であり続けるための環境に置かれていたからだ。


『完璧』という言葉は「一つのキズもない宝玉」を意味する。


 その宝玉が私であったならば、偶々発見してしまったそれを守り続けるため丁寧に丁寧に梱包し、宝物庫の奥に仕舞い込むようにして外界から隔離する。


 それが周りが私に対して行った、唯一にして全てのことだ。

 なんと──くだらない球遊び・・・だろうか。


 そこから連れ出してくれた義母と、独りになった私の手を引いてくれた幼馴染。

 彼らがいなかったら、私は今でも大切に仕舞われただけのぎょくに過ぎなかったに違いない。


 だからそう、これは私が、完璧でなくなるための物語だ。



 ♢♢♢♢♢



 上へ、下へ。前へ、後ろへ。

 延々と続く迷路を進んでいる気分になる。


 そんな地下通路を抜けると、ようやく地上を拝むことができた。

 振り向けば、赤煉瓦レンガの外壁が特徴的な、レトロチックな大駅舎が鎮座している。


「どう? 初めての東京駅は?」


 駅舎──東京駅を背に、両手を広げて自慢げに言うのは、よわい十にも届かぬ少年。


 その茶色い髪は肩にかかるほどの長さだったが、紛うことなき男子である。

 彼の翠色の瞳を見つめ返して、それから天を仰ぐ。


「建物が、高いんですね。空が狭くて、囲まれているみたい」


 少年に視線を戻せば、彼は腰に手を当て頭を掻いていた。


「なんかちょっとズレてるんだよなぁ……」

「?」


 チラ、とこちらを見てきたので、笑顔を浮かべる。

 すると彼は「しょうがないなあ」と苦笑しながら、


「ほら、こっち。行くよ、クシナ」


 私の手を掴んで歩き始めた。




「……ここがイブキくんの家、なんですね」


 初めて訪れたその日本家屋は、不思議と居心地の悪さをまるで感じなかった。

 瓦屋根に石と竹の垣根を見ているとなんとなく安心した。

 きっと肌に合っていたんだろうなと思う。


「クシナがこれから暮らす家でもあるよ」


 彼が付け加える。

 私は、微笑みを造った・・・

 

「ありがとうございます」


 すると彼は不満そうな顔をする。


「また、造り物の笑顔だね」

「……ごめんなさい」


 縮こまる私をじっと見た彼は、


「良いこと思いついちゃった」


 イタズラな小学生のように笑った。



 ♢♢♢♢♢



 よくよく考えなくとも、当然疑問に思うべきだったこととして、『彼のご両親はどうしたのか?』というものがあった。


 それに気づくにはあの頃の私は未熟・・で、仮に気づいていたとしても、強情な彼は答えることはなかっただろう。

 それが私たちの間に取り決められた『何も尋ねない』という、ただ一つの誓いだったから、不満などない。


 結果として私は今でもなぜ彼が一人で暮らしているのかも知らないし、彼もまた──私が何故、あの日あの場所に独り佇んでいたかも知らない。


 それでも、お互いについて知っておかねばならない唯一にして全てのことは知っている。


 それは、相手がどういう人間なのか、ということ。


 ……だって、最初の一年で嫌というほどそれを教え込まれたんだもの。


「クシナ!」


 到着から一週間後のこと。

 ただで住まわせてもらうわけにもいかないと黙々と家事をこなしていた私は、さながら家政婦と言ったところだった。

 お世辞にも同居人などとは言えたものではない。


 そんな私の前にやってきて、彼は言った。


「できたよ!」

「そう、ですか」


 何がとは問わない。

 彼が帰ってきてからずっと庭いじりをしていたのは知っている。


 間違った季節の花を植えたり、鹿おどしのようなただの竹のシーソーを飾ったりと園芸に精を出していた。


 驚かせてくれようとしているのだろうか。

 それとも、喜ばせようと?


 こういう時、人がどんな反応を求めているのかは知っている。

 それ通りに反応することもできる。


 ……ただ、きっと、彼が求めているのは、そういう理屈に基づいた反応ではないのだということも知っていた。


 粛々と手を引いていかれる私の胸中は申し訳なさで支配されていた。

 貴方が丹精込めた風景を見せられても、望まれたような反応はできないのだ。


 ──そう、思っていたのに。


 縁側に立つ私の前には、自慢げに胸をはる彼。

 それと、後ろに広がった──紫色の庭。


 花は種類は違えど、全て紫だった。


「──……」


 乱雑に並べられた石灯籠も、紫に塗られていた。


「…………ぃ」


 鹿おどしモドキなんかカラースプレーで蛍光紫に染められていた。


「…………るぃ」


 中央の彼に視線を戻すと、彼は満面の笑みで。


「君の瞳の色だよ」


 きっと彼が言い終わるより前に口をついて出ていた。


「──き、きもちわるい……っ!」


 真紫に染められた──しかも自分の瞳が由来だという庭を見て。

 血の気が引く、というのを私は多分、この時初めて実感した。


 それからハッとする。

 こんなこと、頑張って喜ばせようとしてくれた相手に言うことじゃないのに。


 ──そんなの、完璧じゃない・・・・・・のに。


 心の中で狼狽し始める私を前に彼は、


「──っく、あははは!」


 お腹を抑えて大笑いしていた。

 呆然とする私を見て、目元の涙を拭う。


「はじめて心底イヤそうな顔をしたね」

「……え?」

「気づいてないの?」


 彼は後ろ手に隠し持っていた手鏡を取り出して、私に向けた。

 その鏡面には、汚物のごった煮でも見るような目を彼の方に向けている私がいた。


「私……?」


 思わず頬に手を当てる私を、彼は笑う。


「人間って、負の感情の方が発露させやすいらしいよ。自己防衛本能ってやつ?」

「え、……え?」


 つまりアレか。


「私に気持ち悪がられるために……コレを作ったんですか?」


 コレ、とは言うまでもなく心底気持ち悪い紫の庭である。

 彼はにやりと笑う。


「大成功だったね。作戦名『君の瞳に乾杯』」


 ──宝玉に、ぴしりと一条のひびが入った。


「さいあくです……!」

「あはははっ!」


 首を横に振って最大限抗議すると、彼はやはり楽しそうに笑っていた。


 ……この後、庭の手入れは私の仕事になった。というか、した。

 当然、これだけで終わるわけはなかったのだが。



 ♢♢♢♢♢



「さあ、愛情込めて作ったから、たーんとお食べ?」

「うっ、……ひ、ひどい。全部ねばねばしてます……」


 ある時は食卓に並ぶもの全てがネバネバしていて、単体だと美味しいはずの品で気持ちが悪くなった。



「クシナ」

「は──きゃあ! ……もう! イブキくん!」


 呼ばれて振り向けば、彼の指に乗せられたイモムシが至近距離にあったり。



「庭仕事お疲れ様〜」

「きゃっ、冷た……!? ちょっと、イブキくん!」


 彼の最悪なガーデニングをやっとの思いで和風庭園に模様替えしたと思ったら、いきなりホースで水をかけられたり。



「…………」


 さすがにお風呂は何もしてこなかったけれど、急に何かされやしないかと湯船で悶々とさせられたり。



 ──とにかくそう、色々。

 色々なことをされたのだ。


 全くもって低レベル極まりない、小学生のようなちょっかいを半年近くかけられた。


 でも、今になって考えたら、これは最適解だったんじゃないかと思う。

 普通の子が小学校でされるようなことを味わって、まっさらな状態から小学生程度の反応は返せるようになっていく。


 これがショック療法などと称されて、中高生レベルの嫌がらせをいきなり受けていようものなら、碌にキズついたこともないようなぎょくはあっという間に砕け散ってしまったかもしれない。


 ……などと達観したことを言えるのは今だけだ。

 当時は半ば本気で嫌がりつつ、彼のことをあしらうようになっていった。


「もうその手は通じないわよ、イブキ」

「ちぇー、ひっかからなかったかー」

「本当に馬鹿ね、貴方って」


 あしらえている、つもりだったのだ。



 ♢♢♢♢♢



 小学六年生に上がったばかりの頃。

 中学まであと一年ともなれば、さすがにあの子供じみた悪戯は殆どなくなっていた。


 極々たまに、思い出したようにちょっかいをかけてこようとする彼を、私が牽制してやめさせる程度だ。


 そんなある日。

 庭の手入れをしていると、不意に石塀の上から気配を感じる。


 目を向けると、そこに猫がいた。

 自分に向けられる視線を感じ取ったのか、向こうもこちらを見る。

 縁側に座る彼もまた、それを見て、


「猫じゃん」


 そう言った途端、猫はビクッと震えて塀の上を走っていってしまう。


「あ……」

「あー、ごめん」

「いえ、別に」


 猫を目で追いながら上の空で返事する。


 と、塀を行く猫の前には植木鉢があった。

 作業の邪魔だからと上に載せておいたのだ。


 その横を猫が通り過ぎ──瞬間、ぐらっと植木鉢が揺れる。


 あっと思った時には遅かった。

 塀のこちら側に落ちてきたそれが、地面に激突し──ぴたりと止まる。


 不思議に思ったのは一瞬。

 すぐに過去一度だけ・・・・・・見たことがある彼の天稟ルクスだと気づいた。


 ほっとして植木鉢を回収すると、なぜか猫もそれを見ていた。


 ちょっと休憩と、手袋を外して縁側に戻る。


「ありがとね」

「ん」


 横に座って言うと、彼は言葉少なに返す。


「……あの、クシナ」

「ん? なに?」

「めちゃくちゃ申し訳ないんだけど……手、握ってもいい?」

「は? ……って、ああ、代償アンブラなのよね」

「そう」


 一瞬、いつもの悪戯かと警戒してしまったが、そうではないらしい。

 頷きつつ恥ずかしそうに目を伏せる彼を見て、こっちへ帰ってきてから今まで彼が一度も天稟ルクスを使ってこなかった理由に気づいた。


 なんだ、可愛いところもあるじゃないかと、手を出す。


「いいわ。はい」

「ありがと」


 そっと手に触れられ、するりと握られる。


 ──ぞくりと。


 なんだか少しだけ、背筋が震えた気がした。


「…………?」


 彼は隣で目を瞑っていた。

 ふと前を見ると、先ほどの猫が少し離れた場所でこちらを見ていた。


「…………っ」


 なぜだか急に落ち着かなくなって、彼を見る。

 その瞬間、彼は目を開けた。


「もう大丈夫。ありがとう」

「ぁ……うん、わかったわ。それじゃ」


 立ち上がり、ぼんやりと庭を見つめている彼の横を通り過ぎて家の中へ。

 どこへ行くかも決めずに小走りに移動する私は、廊下を曲がった先で、見てしまった。


「────」


 目の前で立ち止まる、濡れ羽色の長髪の少女を。


 胸の前で両手を握り、肩が少しだけ震えていた。

 熱でもあるのかと思うほどに頬が赤い。

 そして、切なげに濡れた紫水晶の瞳。


 私が頬に手をやるのと同時に、洗面台の向こう側にいる彼女・・も同じことをした。


 ──鏡だ。


 そこに写るのは、どうしようもないほど何かに──誰かに心奪われた女の顔。


「これ、私……?」


 まざまざと櫛引クシナ恋する乙女の顔を、見せつけられていた。


 そして──取り返しのつかないほどに瑕つけられた恋してしまった宝玉を。


 その時はじめて、私は知ったのだ。


 特別なことなんてない、なんてことのない日々に──ありふれた日常に、自分は恋を教えられてしまったのだと。

 とっくに、彼のことが好きだったのだと。


「…………」


 そのとき私が思ったことは、たったの一つだけ。



 ──もっと、傷つけてほしい。



 もっと切りつけて。

 もっと叩きつけて。

 もっと擦り付けて。


 もっと宝玉を、キズだらけにして欲しい。


 完璧なんかじゃいられない、貴方なしじゃ生きていけないほどに、ずたずたにして欲しい。


 そして願わくば、いつの日か貴方も──私と同じようにキズだらけになって欲しい。


 貴方を、私で、キズだらけにしたい。


 ぶつけて。

 削れて。

 研いで。


 いつか、二つの勾玉が噛み合うように併わさって。


 私の支配下ものになって欲しい。


 だってそうでしょう?


 私は貴方の支配下ものなのに。

 貴方抜きじゃ生きていけないのに。


 貴方は私抜きでも生きていけるだなんて、ズルいじゃない。


 私がお世話しないと生きていけないようになってほしい。

 私が抱きしめてあげないと才能ルクスも活かせぬようになってほしい。


 ね? いいでしょ?


 私の、英雄イブキくん──。




 ♢♢♢♢♢




 何の気なしに覗き込んだホームの姿見に、紫水晶アメシストの瞳が映り込む。


 わずかに視線をスライドさせれば、後方のイブキと鏡面越しに目が合った。

 二人揃って微笑む。


「駅弁買ってこうよ」

「いいわね」


 鏡を通り過ぎ、並んでホームを歩く。

 キャリーケースの音が、人気ひとけのないホームに木霊していた。



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