第三章 追憶のディヴォーション

序幕 しのぶれど・上


「少し、副支部長に会いに」


 そう言い残して、水色の長髪と絶世の美貌を持つ少女──雨剣うつるぎルイは駅に向かっていった。

 その後ろ姿を見送りながら、指宿いぶすきイブキは困っていた。


「俺も同じ駅なんだけどな……」


 別れた手前、また鉢合わせるのもなんだか気まずい。

 少し間を空けてから駅へ向かう。

 ホームに降り、桜邑おうら行きの電車に乗る。

 方向までルイと同じだ。一本ずらさなきゃ気まずいを通り越して恥ずかしいまでいっていただろう。


 仲良しかよ、と自嘲して、ぼんやりと考えるのは今の気分のことだ。

 なんだかふわふわして、車窓の外も白んで見える、気がする。

 こういう状態を現実感がないと言うのだろう。


 心底から嫌われていたはずのルイとこんな風に会話をする日が来るなんて思っていなかったのが理由か……いや、それで言うなら、そもそもルイは”推し”だ。

 しかも、次元の向こう側だった”推し”。

 そんな少女と言葉を交わしている時点で現実味は初めから無い。


 そしてそれはヒナタにも言えることだ。

 事実つい最近まで、あれだけ関わりを持っておきながら彼女を”推し”としてしか見ていなかった。見られなかった。


 さすがにイブキも成長しているので、今となってはヒナタを現実の少女としてきちんと認識しているし、ルイのこともそのように感じている。

 ただ単に「現実味ないな〜。現実だけど」というだけの話だ。


 それも今だけの感傷みたいなものだ。

 ある時は”近所のお兄さん”として、あるいは”オタク仲間”として、またある時は”敵”として。

 これから先も彼女たちと関わっていけば自然とその齟齬は埋められていくに違いない。


 では、”初めから現実として認識していた存在”はどうなるのだろう。


 そんな考えがよぎった時。

 一瞬の隙を縫うように車内アナウンスが響いた。


『次は〜、池袋〜。池袋〜』

「……ん? あっ」


 目的だった桜邑おうら駅を乗り過ごしていた。

 次降りて戻らなきゃ、と決めかけて不意に思い直す。


 いつも一緒にいる幼馴染も、今日はいない。イブキ一人だけ。

 であれば、普段こなさないような事も今のうちにしておくべきだろう。


「せっかくだし、墓参りでもしていくか」


 電車がゆっくりとスピードを落とし始めた。




 ♢♢♢♢♢




 指宿邸。


 ダイニングのソファーに傍陽そえひヒナタが腰掛けていた。

 台所には、いつも通り櫛引くしびきクシナが立っている。


 珍しく料理ではなく洗い物だったので、ヒナタも手伝おうかと申し出たのだが、客にそんなことさせられないと断られてしまった。

 なのでヒナタは若干、手持ち無沙汰である。


「今日って、お兄さんはどうしたんですか?」


 家にいないことは知っていたが何故かは知らないため、ヒナタは問いかける。


「ん、なんか友達・・と出かけるって言ってたわよ。夕飯までには帰ってくるって」

「…………妻?」

「ごめん、何か言った?」


 思わず半目になって言うも、水が跳ねる音でクシナには聞こえなかったらしい。


「いえ、何も」


 別に聞いて欲しいわけでもないので軽く流す。

 それから思い出したように尋ねた。


「お兄さん、最近バイト・・・の調子はどうなんですか?」

「ちょうどこの前、勝手なことしたって上司・・に怒られたみたいよ」


 クシナは洗い物をしながら、肩をすくめる。

 ヒナタはそんな後ろ姿を静かに見ていた。


「でも結果的にギリギリ問題がなかったから、上司・・も仕方なく許してあげたらしいわ」

「それは寛大な上司さんですね」

「そうでしょう?」

「……なんでクシナちゃんが自慢げなんです?」

「いえ、別に」


 そっけなく答えるクシナ。

 きゅっと水道を締める音がした。


「あ、そうそう」


 ヒナタは今日の天気でも話すように、何の気なしに言う。


「──クシナちゃんって〈刹那セツナ〉ですよね?」


 エプロンで手を拭うクシナが動きを止めた。

 彼女から視線を切らさず、ヒナタはその背を見つめ続ける。

 やがて、クシナは軽くため息をついた。

 エプロンを解き、ゆったりと振り向く。


「そうよ」


 ヒナタは彼女と向き合うように立ち上がる。


「よかった。違う違わないで無為な言い争いはしたくありませんでしたから」

「タイミングと言い、口調と言い、随分と確信を持っていたみたいだから」

「まあ、そうですけど……」


 言葉に詰まる、というより言葉にできない感情が自分の胸の内に渦巻くのをヒナタは感じていた。

 他人事みたいに言うんだな、という怒りか。

 それとも──、


「理由は、クシナちゃんなんじゃないですか?」


 そもそもからして、イブキが自発的に【救世の契りネガ・メサイア】に入るとは思えない。


「〈乖離カイリ〉は〈刹那セツナ〉の部下なんですから、あなたの後を追ってお兄さんはメサイアに入ったんでしょう?」


 クシナはこちらと視線を合わせるのを避けるかのように床を見た。


「あたしがいなければ、イブキはメサイアには入らなかったでしょうね。それは、間違いない」

「…………」

「あたしを、責める?」

「責めませんよ」


 あっけらかんと言うと、ようやくクシナの視線が上がり、ヒナタのものと重なる。

 その紫水晶アメシストのような瞳は、珍しく見開かれていた。

 そんなに意外だろうか。


「だって、お兄さんとクシナちゃんが決めた事でしょう? わたしに責めることなんて何もないですよ」

「そう。……ありがとう」

「いえ、別に。むしろこちらこそ、教えてくれてありがとうございます」


 だって、自分にもこれからあなたに言うべきことがあるから。


「ねえ、クシナちゃん」


 一度窓の外を見て、昔と変わらない庭に表情がほぐれる。

 それから、クシナの方を真っ直ぐと見つめ、


「わたし、お兄さんのこと──」

「──待って」


 一世一代の告白を遮る声。

 流石に無粋だと怒りが湧くより先に、ヒナタは驚いた。

 クシナの瞳が、何かを切実に訴えるものだったから。


 ヒナタがその瞳に吸い込まれるようにして立ち尽くしていると、彼女は一度目を閉じた。

 そして、一言。


「3200万秒」

「…………え?」


 水面に落とされた雫に揺れるように。

 ヒナタは微かにざわめく心に従うべく疑問符を返す。

 クシナの薄い唇が、ゆっくりと開かれる。


「それが、あたしの寿命」


 開かれた紫瞳は、朝凪のように静謐な感情を宿していた。


「あと、一年しか残ってないのよ」



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