食パンマンが笑うとき
われもこう
1話
鯖の煮付けと白ごはん、小松菜と薄揚げのお味噌汁、切り干し大根とグリーンリーフのサラダを平らげた僕は、料理長である彼女にご馳走様を言いお皿をさげた。
シンクの前で腕まくりをした僕の肩を叩いて彼女が言う。
「洗い物はいいよ。レースがあるんでしょ?」
「いいよ。自分で食べたものくらい洗わせてよ」
「遅れちゃ大変だわ、私がやっておくから行って」
女将のような威圧感を醸しながら彼女がそのように仰るので、僕はお言葉に甘えてというよりかは彼女の命令に従って捲り上げた裾を下ろした。鼻歌を歌いながら洗い物を始めた彼女の横顔には「素直でよろしい」という一文が書かれてあった。
「ありがとうね。」
僕は鍵と携帯、財布とウォークマンだけ持って、リビングに立つ彼女に行ってきますと告げる。
アパートの外廊下では蛍光灯がちかちかしている。明滅する光を見上げると、その傍らでは二匹の蛾が舞っていた。視線を落とす。僕の足元には、蛾の死骸、そして落ち葉。蛾、蛾、蛾。生きてる蛾に、死んでる蛾。なんとまあ蛾に祝福されていることだろう。
このアパートは三階建てで、一フロアにつき用意されている部屋の数は三つ。僕は三階の真ん中の部屋、302号室に住んでいる。右の301号室はたぶんゲーマー、左の303号室は土建屋のおっさん。
土建屋のおっさんは、僕が早朝からアラームをセットしているとブチギレて壁ドンしてくる短気な男だ。なかなか起きない僕が悪いんだけどね。
しかし、そんな奴の部屋からはときおり不気味な、それこそ今まで耳にしたことのない類の機械音が聞こえてくることがある。それも床が震えるほどの大音量だ。そのときの時刻は二十三時頃。ふざけんなよ夜中に一体なにしてんだよ……と僕は思うが、僕の横では彼女が津軽三味線の練習に勤しんでいる。じゃらんじゃらん鳴らしている。和楽器ってもっと静かなイメージだったんだけどな…。
変わっているのは土建屋のおっさんと彼女だけではない。階下の203号室は日中にダンス教室を開いているみたいで、その練習がとってもうるさいのだ。いっちにっ、いっちにっ、という複数の女性の掛け声とダンスのタップによる振動がアパート中に響き渡る。あの、知ってる? ここアパートなんですけど。
一階からは赤ちゃんの泣き声とお母さんの怒鳴り声が聞こえてくる。夜遅くまで。あーあの坊ちゃんは、今夜もご飯を食べなかったのか。人ん家の事情に詳しくなる。
隣のゲーマーの部屋からは何も聞こえてこない。このアパートの良心だ。
そのようなわけで、この壁の薄いアパートではみんなが各々好き勝手生活させてもらっている。
これも大家さんの懐が広いお陰だ。
さて、僕は虫の死骸が散らばる階段を降りて駐車場にゆき、愛車のプリウスに乗ってカーナビで目的地を設定し車を走らせていた。ちょうど渋滞する時間を免れたみたいでスムーズに目的地に着いた。駐車場に停車し下車する。他の車の数は三十台くらいだろうか。
今夜の僕の目的は、年に一度の首都高レースに参加することである。レースとは言えど、速度を競うわけではない。運転診断機能が搭載されたドライブレコーダーの点数を常に90点以上維持したまま、高速道路を一周できた者を勝者とする、という極めて変わったへんてこりんなレースなのである。
ほぼ無理ゲーなのだけれど、僕がこのレースに参加したのにはわけがある。車の運転が好きなのだ。それも日が暮れてからの、都会の高速道路の運転が好きなのだ。彼女の機嫌が悪くなるので、普段は夜のドライブには行けないけれど、レースがあると言えば納得してもらえる。僕は立派な、いや立派かどうかは分からないけれど、とにかくちゃんとした名目を得て堂々と気晴らしができるのだ。
会場に着いた僕たちは、アルコール検査を受けるため、三列になって並び、自分の順番が来るのを待つ。
「あ、松田さんじゃないですか」
不意に声をかけられて振り向くと、同じアパートで僕んちの真下、202号室に住んでいる大学院生の韓国人が話しかけてきた。チョさんという。韓国人なのに日本語がぺらぺらで、いっそそこらへんの日本人より日本語がうまい。努力家の学生だ。
「ああチョさんどうも。君も参加するの?」
「うん。」
チョさんには以前、ねえダンスしてる? と尋ねられたことがある。言いづらいんだけどなって表情で。僕は慌てて否定した。ダンスしているのは、チョさんの隣人ですよと。勘違いを悟った彼は照れたようにはにかんだ。僕は疑いが晴れて心底よかったと思った。
「論文や課題は大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないけど、たまには気晴らししたいから」
「そうなんだ。チョさんにも気晴らしが必要なんだね」
知らなかった。チョさんには気晴らしなど必要ないと思っていた。
順番が回ってくると口元にアルコール検知器をかざされ、僕はふうと息を吹きかける。
形式的な作業だ。通過しようと一歩足を踏み出したとたん、ピピピピピとけたたましい音がその場に鳴り響いた。驚きのあまり、肩が跳ねた。なにごとかと顔をあげると、僕を検査した食パンマンみたいな男が顰めっ面をしていた。
「通れませんね」
「はあ? なんでですか」
僕は今日お酒を一滴も飲んでいない。
訝った僕はすこし悪態をつくような声を出してしまった。
「希死念慮がおありのようです。このレースには参加できません」
「希死念慮だって? そんなものありません」
僕を摘発したアルコール検知器は希死念慮検知器だったらしい。ふざけてる。
「嘘はよくありませんね。だってコイツがそう申しているでしょう」
「コイツ? いや、それはどうでもいい。僕はそれが誤解だと言っているのです」
「正直に仰ってください」
「ありませんってば」
「なぜ嘘をつくのです」
「しつこいよ、ないってば」
「いいえ、おありです」
コイツは新手の催眠術師なのだろうか? 僕はこの男と押し問答しているうちに、自分のなかに、その口にも出したくないキシなんとかが存在するような気がしてきた。慌てて、首をふる。そんな僕の様子を、食パンマンは疑わしげに見守っている。
「出会ったばかりの貴方とこの機械。わたしがどちらを信用すると思いますか? もしくはあなたとこの機械、どちらが嘘をつく可能性がより高いと思いますか? 火を見るより明らかでしょう。さあ、あっちいった。しっしっ。」
その食パンマンみたいな男はしかめ面のままで、虫を払うように僕を追い払おうとする。しかし僕は食い下がった。無愛想な食パンマンは僕が鬱陶しかったみたいで嫌々ながらも通してくれた。やれやれ、一件落着だ。
レースで使用する車は、運営側が用意した車の中から早い者勝ちで選択する。僕は車に疎いので、愛車と同じプリウスを選ぶ。色々と世間を賑わせることが多いこの車だけれど、僕は自分の飼っているウサギとこの車の顔がよく似ているので結構好きだ。それに他の車に乗ると、車線変更するとき、後方から来る車と自分の車との距離が把握しづらい。乗りなれているのが一番だ。
ふと辺りを見渡してみると、気性の荒そうな細めのおっさんが黄色ナンバーの小さな車を選んでいる。いるよな、と僕は思った。ああいうチョロQみたいな小さめの車は大体高速道路で信じられないスピードを出している。僕も何度か煽られたことがある。この度のレースで近づきなくないと心から思った。
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