第1章 2話



 まだ居残って絵を描いていくというユイ先輩と別れて、私はひとり画材の確認をしに美術室へ向かった。

 部活動時間中ではあるものの、すでに閑散としている校舎内。特別教室が集まっている四階の廊下は、とりわけ静けさが際立っていた。

 今日も今日とて、私以外の美術部員は帰宅部と一緒に下校しているのだろう。そう思い込んでいたために、美術室の扉を勢いよく開けた私はぎょっとした。

 先客がいた。


「えっ?」


 見覚えのある人影に、思わず肝を冷やす。

 至るところに放置されたままの作品に囲まれながら、窓から差し込む煌々とした茜に背を向けている女子生徒。空気を含んだ肩上の髪がなびき、横顔を晒す。

 ゆっくりと振り返った彼女の正体に、私はさらに硬直した。


「……さ、沙那先輩?」


「あなた、学校やめたんじゃなかったのね」


 開口いちばん、また突拍子もない発言だ。

 もしや私が知らないだけで、そういう挨拶が流行っているのだろうか。


「それ、さっきもユイ先輩に言われたんですけど」


 ツンとそっぽを向く彼女は、榊原沙那先輩だ。

 緩やかなウェーブを描く亜麻色の髪。赤系アイシャドウが濃いめに施されたメイク。怖いものなどなさそうな、キリリとした顔立ち。なによりその豊満な……胸。

 齢十八とは思えぬほど全身から大人の色気を滲ませる沙那先輩は、私を見て隠しもせず鼻白んだ。


「あっ、まさかユイ先輩に変なこと吹き込んだの沙那先輩ですか?」


「言いがかりね。一ヶ月も来てないならやめたんじゃない? って言っただけよ」


「やっぱりそうじゃないですか!」


 沙那先輩は、ユイ先輩の元カノだ。又聞きした話だが、私が入学する前、つまり先輩たちが一年生のときに、ほんの数ヶ月ほど付き合っていたらしい。

 美男美女。並ぶとすごくお似合いで、ほんの少し面白くない気持ちはある。

 だが一方で、引力が強い沙那先輩は悩みがちなユイ先輩を導いていけそうだし、実際相性はそこまで悪くないんじゃないかな、とも思っていた。

 まあ、口から流れるように零れ出てくる嫌味の嵐は玉に瑕だけれども。


「……それで、沙那先輩はこんなところでなにを?」


「あなたを待ってたのよ。ここにいれば会えるかなって」


「へ、私ですか?」


 思ってもみない返答に毒気を抜かれた。きょとんとしながら聞き返す。


「そうよ。昼間、あなたがいるのが見えたから」


「はあ……」


 沙那先輩は、どうやらユイ先輩と親しくしている私が気に入らないらしく、一年生の頃からなにかと突っかかってくる人だった。

 美術部員でもないし、私との接点なんてほぼ皆無。

 なのに、なにかと絡まれるおかげで、変な親交の深め方をしてしまっている。とはいえ、こんなふうに待ちぶせされるほど仲良くなったつもりはないのだけれど。


「あなた、今日、新学期になってはじめて学校に来たのよね?」


「あ、えっと、まあ」


 煮え切らない答えを返すと、沙那先輩は不愉快そうに腕を組んで眉根を寄せた。もともとツリ目がちなこともあり、それだけで威圧感が倍増しになる。


「一ヶ月も姿を見せないと思ったら、突然またやってきて凝りもせず結生のストーカー。いいご身分ね。何様だと思っているのかしら」


 おーっと……?

 これはもしや、ただ単に嫌味を言われるためだけに呼び出された口だろうか。


「ストーカーだなんて、やだなあ。そんなんじゃありませんよ」


「付き纏ってるじゃない」


「部活動に勤しんでいるだけです」


 実際私は、あの屋上庭園以外でユイ先輩と会うことはほぼないのだ。

 ユイ先輩は他人と最低限しか関わらないし、猫のように気まぐれな一面を持っているから、放課後以外はどこでなにをしているのか見当もつかない。

 そりゃあ、他の人に比べれば相手をしてもらっている自覚はあるけれども。


「……でもあなた、結生が好きなんでしょう?」


 直球だなぁ、と私は一周回って感心する。


「好きですけど。それとこれとは関係ありませんよね?」


「あるわよ。結生を傷つける女を、あたしがみすみす見逃すわけがないじゃない」


「えー……沙那先輩ってユイ先輩のなんなんですか……」


 常日頃から感じていたことだが、元カノにしては少々執着が過ぎる気がする。

 思わず嘆息しながら肩を落とすと、沙那先輩は苛立ったように鼻を鳴らした。


「残念ながらなんでもないわよ、あなたと一緒でね。いまは大事な友人、って立場から言わせてもらってるけど」


「ゆうじん」


「なによ。いいでしょ、それしか関係性が見つからないんだから」


「でも、沙那先輩はまだユイ先輩のこと好きなんですよね?」


「はあ!?」


 意趣返しというわけではないが、この機会だ。常々思っていたことを尋ねてみる。


「だから、私が気に食わないんでしょう?」


「ッ、あのねぇ、こっちはもうずっと前に別れてるのよ! 大体フッたのはあたしの方なんだから、人聞きの悪いこと言わないでちょうだい!」


「えっ、そうなんですか!?」


 それは初耳だ。正直、あのユイ先輩がフられるという場面をまったく想像したことがなかった。


「考えてもみなさいよ。あの人形が自ら相手をフるなんて労力を使うと思う?」


「にんぎょう……」


「そんな発想すら抱かないわよ。付き合ってって言ったときだって、二つ返事で『いいよ』だったけど、二言目には『俺はなにもできないけど』だし」


 ああ、と私は虚空に目をやった。

 それは容易に想像できる。ぴくりとも表情を動かさず、わかっているのかわかっていないのかも判然としない感じ。彼特有の、先輩ワールド。


「付き合ってる最中だって、キスのひとつもしたことなかった。彼女なんて名ばかりで、結生があたしを見てくれたことなんて一度もなかったわ」


「……それは……」


「別れるときもそう。『別れて』って言ったら、なんて返してきたと思う? 『うん?』よ。疑問符よ! 付き合ってたことすら忘れてたのよ、あいつ!」


 ここまでくると、もはや気の毒になってくる。次から次へと溢れ出てくる愚痴の数々に、私はひたすら同情の目を向けることしかできない。

 同じ恋する女の子としては、共感する部分も多々ある。

 けれどそれは、結局、私の好きな相手のことなわけで。

 複雑だ、となんともあやふやな顔をこしらえていた私に、沙那先輩は吐き捨てるようなため息をついた。八つ当たりしてひとまず鬱憤は晴らしたらしい。

 一度大きく深呼吸して荒ぶった息を整えると、改めて私に向き直る。


「……でも、そんな結生が」


 キュッ、と。まるで鈍い痛みを堪えるように、沙那先輩が眉根を寄せる。


「あの唐変木の人形が、ここ一ヶ月、ずっと気がそぞろだった」


「へ?」


 丁寧にネイルの施された爪先が、柔らかそうな手のひらに食い込んでいた。


「あなたのせいよ、小鳥遊さん」


「……それはまた、どういう意味で?」


 責めるような口調と共にキッと睨みつけられ、私はさすがに狼狽えた。


「あなたがいなかったこの一ヶ月、結生は一枚も絵を完成させてないの」


 思わず「えっ」と口から素っ頓狂な声が飛び出した。

 一日で大作を仕上げてしまうこともある天才画家のユイ先輩が、まさかそんな。

 そう思う傍ら、さきほど違和感を覚えた空虚なキャンバスを思い出す。

 たしかに、ほぼ白紙だった。

 そもそもアタリなんて、ユイ先輩は普段描かないのに。


「本人は、自分がどうして集中できていないのかも気づいていないみたいだったけどね。でも、周りからしてみれば一目瞭然よ。口を開けば『小鳥遊さん、見た?』だもの。おかげであたしは、毎日無駄に二年生の教室まで出向くハメになったわ」


「…………え」


「そりゃあ『やめたんじゃない?』くらい言いたくもなるでしょ。こちとらさんざん振り回されてるんだから。だから今日は、とりあえず文句を言いに来たのよ」


 つかつかと大股で歩み寄ってきた沙那先輩は、私から二歩ほど離れたところで立ち止まり仁王立ちした。沙那先輩の足から、三倍ほど膨れた墨色の影が長く伸びる。


「言いなさい。なんでこの一ヶ月、休んだのか」


「えぇ……っと」


「先輩命令よ。あたしには知る権利がある」


 びっくりするほど横暴な物言いと主張ではあるが、いまの話を聞いてしまった後ではなかなか無碍にもしづらい。

 正直なところ言いたくなかった。というか、沙那先輩に限らず、家族以外には必要に迫られるまで言わないつもりだった。

 まさかこんな展開になるとは予測もしておらず、私は眉間を揉みながら唸る。


「……言っときますけど、面白い話じゃありませんよ?」


「面白いか否かは関係ないわ。どんな理由であれ、結生の調子を狂わせて、あたしや相良に気苦労をかけたことに変わりはないんだから」


 相良先輩は、ユイ先輩の幼なじみだ。ときおり部活中にユイ先輩の様子を見にやってくるので、私も何度か顔を合わせたことがある。

 どうも聞く限り、私がいなかったあいだユイ先輩は調子が悪かったようだから、一緒にいることが多い相良先輩に被害が及んだのはたしかだろう。

 意図したものではなくとも、申し訳ないとは思う。思うけれども。


「うーん。じゃあ、誰にも言わないって約束してもらえますか?」


「……言えないようなことなの?」


「そうですね……正直、これに関しては難しいところです。いずれは知られてしまうかもしれないけど、いまはまだ隠しておきたいなって感じで」


 ふぅん、と先輩は訝し気に目を眇める。


「いいわよ。べつに、他の誰が知りたい訳でもないだろうし」


「ありがとうございます。じゃあ少し長くなるので、座りながら話しましょうか」


 とはいえ、いったいなにから話したらいいものか。


「あんまり人に話さないので、上手く説明できる自信がないんですけど」


 美術室の古びた木製椅子は、あちこちに絵の具が散りばめられている。何年も何年も蓄積されたそれは、いっそいい味を醸し出していて、私はなんとなく好きだ。

 沙那先輩と向かい合うように腰を下ろして、私はとりわけ濃く固まった朱色の絵の具を指先で撫でる。ツルリとしているかと思いきや、案外ざらざらした感触だった。

 頭の内部で順序を組み立てながら、私は俯きがちに口火を切る。


「ええと。──沙那先輩、『枯桜病』って知ってますか?」


「……え?」


「今から約十年ほど前に突如発現した原因不明の難病です。聞いたことくらいはあります、よね?」


「ええ。その、前に、テレビで……」


 私はよかった、と安堵する。そこを超えなければ、話は一向に進まない。

 ──枯桜病。

 それは発現当時、その奇怪さから一時メディアで多く取り上げられていた病だ。

 おかげで名前だけが尾ひれをつけて独り歩きし、あることないこと囁かれていたりもする。だからこそ、わりと名前だけなら知っているという人も少なくない。

 年に数名しか罹患しない類稀な病ゆえに、詳細を知る人は存外少ないのだが。


「この病気は、いわゆる全身疾患という部類でして。発病から数年の時をかけて、内臓のあらゆる機能が衰退していくんです。年老いるというより、故障に近いかな」


「っ……」


「人によりけりですが、機能が低下すると共に五感、とりわけ痛覚に影響が出ると言われています。つまり、痛みを感じなくなるんですね。だからこの病気の罹患者は、痛みも苦しみもなく、ただ静かに眠るように亡くなるのだとか」


「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそんな……」


 詳しいの、と言おうとしたんだろう。

 けれど、顔を上げた私を見て、沙那先輩は続ける言葉を失ったように茫然とした。


「はい。私、枯桜病なんです」


 シン、と痛いくらいの静寂が落ちた。

 沙那先輩は拒絶を滲ませながら喉を震わせる。


「う、ウソでしょ。あんな……あんな珍しい病気。冗談も大概にしなさいよ」


「こんなこと冗談で言ったりしませんよ。病気でもないのに病気だと偽ることは、本当にその病を抱えている人に対しての侮辱に当たりますから」


 原因不明の難病。いまだ特効薬も発明されておらず、病の原因などもわからないまま。この病気との付き合いが長い私でも、説明できることには限界がある。


「……枯桜病と言われる語源は、発病から死までの期間が、まるで美しい桜が枯れるようだから。身体の機能が徐々に散っていく様を、なかば皮肉的に表現したものですね。実際はそんな美化できるものでもないんですけど」


 本当に体が桜の花びらになって散ることができたら、どんなにいいだろう。

 もう数え切れないくらいに考えたそれを、自嘲を浮かべながら振り払う。


「余命は人それぞれです。枯桜病は死間際になって急速に症状が進むのが特徴なので、いざ進み始めないと余命すらもはっきりしなくて」


「……それ、は、何年くらいとかも……」


「そうですね。これまでの最長記録は発病から五年九ヶ月らしいですけど、早い人は一年も経たずに亡くなってます。でも、若い人ほど進行は遅いみたい」


 夕暮れを逆光に浴びる先輩の顔色は悪い。だから面白くない話だと言ったのにな、とより申し訳なくなりながら、私は場を和ませようと少し声音を上げた。


「私は小学六年生の終わり頃に枯桜病を発症したんです」


「え……小六? えっと、あたしの一つ下だから……」


「今から五年前ですね。残念ながら、まだ最長記録には届いてませんけど」


 見た目からはわかりにくい、かもしれない。

 痩せてはいても平均身長より背が低いおかげであまり目立たないし、そもそも表面上に現れるものではないのだ。あくまで内側のみが徐々に衰退していくだけ。


「なので今回一ヶ月休んだのは、検査のためです」


「……検査? その、病気の?」


「はい。体の内側が現時点でどのくらい衰退しているのか、衰退速度はどの程度なのかを定期的に検査するんです。一日二日ではわからないので、一ヶ月ほどかけて行う必要があって。だから、学校を休んで入院していました」


 新学期開始と被ってしまったのは、私的にも相当な痛手だった。

 だが、こればっかりは致し方がない。

 なにせもう五年目だ。私の体は、いつなにがあってもおかしくない状態にある。


「……結果は」


「え?」


「結果は、どうだったの。まだ……」


 生きられるの、と声にならなかった言葉が聞こえた気がして、私はくすりと笑う。

 案の定、どうして笑うのかと沙那先輩は今にも泣きそうな顔を歪めた。

 ──けれど、だって、ほら。

 私相手にそんな顔をしてくれる沙那先輩は、やっぱり悪い人ではない。ただ不器用なだけで、わかりにくいだけで、誰かを思いやる心は人一倍持ち合わせている。


「とんとん、とまではいきませんが、幸いまだ加速はしてないみたいですね。でも五年ですから、さすがにいろいろと不備は出てます。生きるために最低限の機能しか残してないというか。うん、ぎりぎりラインを辿ってる感じです」


 例えば胃の消化機能とか。味覚とか、嗅覚とか。

 そういった、私自身にも感じられる不具合がここ最近増えてきたように思う。

 ──とくに、記憶関連のことは。


「体力も磨り減っているので、本当は学校生活も渋られてて。だけど、通えなくなる限界までは通うって決めてるんです。だからこうして戻ってきちゃいました」


「な、なんで、そんな無理するのよ。病院で大人しくしていた方が寿命だって……っ」


「そうですねえ」


 困惑した表情をする沙那先輩に、思わずくすりと笑ってしまう。


「たしかに、病院にいた方が寿命は多少延びるかもしれませんけど。でも、どうせいつかなくなる命なら、ちゃんと最後まで使い切りたいから。それに……」


 ユイ先輩に会いたいから、という言葉は直前で飲み込んだ。

 きっと言わなくても、沙那先輩ならちゃんと察してくれるだろう。ユイ先輩とは違って、意外と気遣い屋な彼女は相手の真意を読むことに長けているから。


「これが理由です。すみません、あまり聞いていて楽しい話じゃないですよね」


「……あなた、なんでそんなに落ち着いてるの」


「え?」


「大変な病気なのに、どうして他人事みたいに話せるのって聞いてるのよ。……無理に聞いたあたしが、言えることでもないかもしれないけど」


 他人事とはまた言い得て妙だ。私は眉尻を下げながら、慎重に言葉を選択する。


「なんて言ったらいいかな。……五年経ってるから、ですかね」


「どういう意味?」


「発病からこの五年間、いつ訪れるかもわからない死を覚悟して生きてきたんです。後悔しないように、今を全力で──なんて少年マンガみたいで嫌なんですけど。でも、本当にそんな感じで。その、私なりに向き合ってきた結果、といいますか」


 深い海の底にいるかのような空気の重さに耐えかねて、私はたははと頬を掻いて誤魔化した。実際はそんな大層なものではないし、発病から今日までをでき得る限り思い返してみても、やはり後悔のない人生なんて少しも送れていない。

 日々、自身に圧し掛かる病の無常な残酷さに打ちひしがれるばかりだ。

 ただ、そんな心意気ではあった。

 いつだって私は、前を向くことをやめたことはない。

 今ももちろん継続して──だからこそ、ここにいるわけだけれど。


「沙那先輩。知っての通り、私はユイ先輩が好きです」


「っ、ええ」


「でも、こういう事情があるので付き合えません。……先輩の気持ちはさておき」


 私は彼に、春永結生に会うために、この学校に入学した。

 彼と彼の世界を見たくて、彼の描く世界の真髄を知りたくて、逢いに来た。

 その裏側にはたしかに焦がれるほどの恋情もあるし、憧れだとか尊敬だとかそんな言葉では足りないくらいの羨望や、それ以外の大切ななにかもある。

 だからこそ、自分のわがままを貫いたこの一年は、ただただ本当に幸せだった。


「沙那先輩は……さっきはああ言ってましたけど、やっぱりユイ先輩のこと好きですよね?」


「なっ……なんでこのタイミングであたしのことなのよ! あなたまさか、」


「あ、誤解しないでください。咎めてるわけじゃないです。病気だから譲れとか、そんな都合のいいことも言いません。むしろ、ホッとしてるくらいなんですから」


 沙那先輩は、はあ?と言わんばかりに虚を衝かれた顔で私を凝視する。目も口もあんぐりと開いているせいで、せっかくの美人が台無しになっていた。

 かと思ったら、突然ガッと身を乗り出してきた沙那先輩。

 だいぶ乱暴に肩を掴まれ、私は思わず二歩ほど後ずさった。


「あっ、なたねえ! さっきから聞いてれば、なんなのその綺麗事はっ!」


「んえ、へっ?」


「つまり、あたしがいるから自分はいなくなっても結生は大丈夫だ、とか、そんな傲慢極まりない馬鹿げたことを言いたいんでしょ!?」


 いやそれは、と否定しようとして言葉が詰まる。

 そう、なのかもしれない。

 だって沙那先輩のようにユイ先輩を想ってくれる人がいれば、きっと彼はひとりぼっちになることはないから。私は、なによりあの人を孤独にはしたくない。


「ふざけんじゃないわ」


「さ、沙那先輩?」


「あのね、結生はあなたに出逢うまで本当に人形そのものだったのよ。感情どこに忘れてきたのってくらいなにかが欠落してた。だから、ようやく人間らしくなってきた今……そう、今がいちばん大事だったのに……っ」


 沙那先輩は震える手で掴んでいた私の肩を離して、グッと唇をかみ締めた。


「あいつは、心の行き場を見失ってるのよ」


「……沙那先輩?」


「どんな感情も捉えられない生きた人形。それがあたしが出会った結生だったわ。恋愛なんてとんでもない……そんなの、最初からわかってたことだった」


 つぶやきを落としながら、沙那先輩は私に背を向ける。

 震えた肩。震えた声。泣いているのかと思ったけれど、聞けないのがもどかしい。


「わかってたのに、どうして……?」


「そんなところに惹かれちゃったのよ。危うい、ほっとけない、あたしが守らなきゃって。けど、あたしには無理だった。たったの一ミリも掴めなかった。結生の心を」


 沙那先輩の言わんとしていることは、なんとなく理解できる。

 けれど、それはほんの少し、私のなかのユイ先輩とズレていた。

 たしかにユイ先輩は感情の起伏が少ないし、表情に出ないから思考回路も読み取りづらい。その点では『人形』という喩えは、至極、的を射ているのだろう。

 でも、決して心がないわけではないのだ。むしろ人一倍、繊細だと思う。

 ──だって心がない人に、あんな絵を描けるわけがないから。


「……あなたは違うのよ。小鳥遊さん」


「私、ですか?」


「あなたはもう掴んでる。きっとあたしにはわからない世界を見てるんでしょうね。皮肉なことに、自分が外側にいるとそれが嫌というくらい感じられるわ」


 顔を拭うような仕草をしてから、沙那先輩がおずおずと振り返る。

 深みのある栗色の瞳は、淡く濡れそぼって頼りなく左右に揺れていた。


「あいつは今、変わろうとしてるの」


 いくつもの感情が複雑に入り交じる、名前のない色。これを表現できるのはきっとユイ先輩くらいだろうななんて、頭の隅っこでぼんやりと考える。


「それはきっとあなたのおかげで、あなたの存在ありきのものなのよ。正直、悔しいし羨ましいけど。でも、あいつは放っておいたらいつまでも……それこそ延々と底なし沼にいるから。だから、あなたが必要なの」


「……私、ユイ先輩にとってそんなに重要な存在なんですか」


「そうよ、ちゃんと自覚しなさい。結生を沼から引き上げて陽の光を浴びさせてあげられるのは、きっとあなたしかいないんだから」


 これはこうだと言い切る。沙那先輩の強いところだ。

 私とは、違う。私はこんなにも強くなれない。……なりきれない。


「あなたが病気だってことはわかった。けど、それとこれとは話がべつ。あなたが結生とどんな展開を望んでいたとしても、他人の気持ちだけは変えられないのよ」


 そこまで言うと、沙那先輩は今日初めて、小さな笑みを口許に滲ませた。


「結生はああ見えて頑固だから、きっと苦労するでしょうね。早いところ相応の覚悟を決めておかないと、そのうち痛い目にあって泣く羽目になるかも」


 突き放し、切り捨てるような物言いは相変わらず。

 けれど、そこにはどうしたって隠しきれない優しさが潜んでいた。


「それから。ちゃんと約束は守るから安心してちょうだい」


「約束……あ、病気のこと」


「誰にも言わないわ。ちなみに、他に知ってる人はいるの?」


「友だちの円香とかえちんは知ってます。隠してたけど、普通にバレました」


 沙那先輩は、なぜか可哀想なものを見るような眼差しを向けてきた。


「あなた、隠し事とか向いてなさそうだものね。まぁ、同級生に知ってる人がいるなら安心だけど。……なにかあたしにできることがあれば、頼ってくれてもいいわよ」


「はあ……えっ!?」


「なによ」


「せ、先輩が優しいことに驚いてます」


 ──言葉を選ばなければ、あまりの手のひらの返し具合に驚いています。

 すると沙那先輩は、かあっと顔を赤く染めて「心外!」と声を張り上げた。


「あ、あたしだってそこまで性格悪くないわよ!」


「だって、いつも嫌味を……」


「そ、それは……ああもううるさいわね! なんでもいいから、なにかあったら言いなさい。あたしは、あなたと結生が上手くいってくれないと困るんだから」


 ──でも、本当は知っていた。

 沙那先輩が私に意地悪なのは、ユイ先輩を想うがゆえのことだって。

 だからこそ、私はどれだけ苛まれても沙那先輩を本気で嫌いになれなかった。

 それどころかユイ先輩を任せても大丈夫だと思っていたくらいだ。なんだかんだ病気のことだって話したのだから、根っこの部分では信頼していたのかもしれない。


「ありがとうございます、沙那先輩」


「っ……」


「……本当に、ありがとうございます」


 もう長くない時のなかで、いったい何度、私は人にありがとうと言えるだろう。

 こうして本心で言葉を交わせる相手がいるのは素敵なことだ。けれど、大事にしたい、大切にしたいと思う相手が増えるほど、私は迷ってしまう。

 遠くない未来に消えゆく私が、明日が当たり前の人に関わっていいのかと。

 こうして親密に関われば関わったぶんだけ、いずれそれは棘となり、刃となり、心に拭いきれない傷を負わせてしまうのではないかと。


 ──鎖となって、まるで枷のように苦を縛り付けてしまうのではないかと。

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