モノクロに君が咲く

琴織ゆき

第1章「今日も今日とて、大好きです」1話

 ──月ヶ丘高校の屋上には、樹齢百年を超える桜の大木がある。生徒から屋上庭園と呼ばれているそこは、しかし庭園とは名ばかりのただの広場だ。

 木の麓を囲むように、ところどころ表面が剥がれた木製のベンチが四つ。

 そのうちのひとつ、入り口から向かって左側のベンチに座る彼を見つけて、私はタッと駆け寄った。


「こんにちは、ユイ先輩」


 にこりと口角を上げて声をかける。が、反応がない。ふむ、と少しその場で思案した私は、そのままそろそろと先輩の背後へと回り込んだ。


「ゆーいせーんぱい」


 先輩の肩口から顔を覗かせながらそう呼べば、ユイ先輩はビクッと肩を揺らして勢いよく顔をあげた。

 危うく頭突きを喰らいそうになり、とっさに体を横へずらして避ける。


「珍しい。二回目とはいえ、先輩が絵描いてる最中に私の声に反応するなんて」


 よほど驚いたのか、使い込まれて芯の短くなった鉛筆が先輩の手から抜け落ちた。

 カランコロンと軽快な音を立てて、それは石畳を転がっていく。


「小鳥遊、さん」


 午後五時前の黄昏時。五月に入り、だいぶ日が伸びてきたとはいえ、この時刻になると空は薄青から稲穂のような黄金を孕む。地平線近くは群青が見え隠れしていた。


「うわ。先輩ってほんとに綺麗な顔してますね」


「え」


「すみません、思わず」


 夜空に浮かぶ月に似た白銀の髪が、柔らかい黄光を弾きながら流れた。その下から覗いた色素の薄い瞳が私を捉えて、なんとも戸惑いがちに揺れる。

 桜の木以外はとくに見どころもない屋上は、日頃から生徒が来ることもほぼない。

 それはひとえに『春永結生が部活動中は立ち入るべからず』という暗黙の了解があるからだが、残念ながら本人はそのことをまったく知らないようだった。


「……小鳥遊さん」


「はい。こんにちは、ユイ先輩」


 確認するような口ぶりに倣って、私もさきほどと同じ言葉で返してみる。

 転がった鉛筆を拾いあげながら前に回り込むと、ユイ先輩はようやく時を取り戻したのか、ぱちぱちと双眸を瞬かせた。   

 第二ボタンまで空いた白シャツに、オーバーサイズの黒ベスト。黒と白とその中間色しか持たない彼は、まじまじと私を見ながら信じられない言葉を口にした。


「君、学校やめたんじゃなかったの」


「えっ、いつの間にそんな突拍子もない話に」


 今度は私が驚く番だった。やめた、とはまた心外な。


「……。わかんない。どうしてかな。そう思い込んでた」


「えー、なんですかそれ。相変わらず先輩ワールド絶好調だなあ」


 ユイ先輩こと、春永結生。ここ、月ヶ丘高校の三年生。八割が幽霊部員の美術部における部長であり、業界では知る人ぞ知る天才高校生画家だ。

 否、正しくは『天才モノクロ画家』。

 彼は、鉛筆一本のみであらゆる世界を明瞭に映し出す鉛筆画を得意とし、いっさいパレットを持たない画家として名を馳せている。

 というのも、毎年行われる学生絵画コンクール──全国の若き画家たちがこぞって腕を奮うこのコンクールで、先輩は輝かしい経歴を残しているのだ。

 それも激戦区と恐れられる関東地区において、中学部門で三年間連続金賞受賞。その後、高校部門へ移り、現在二年連続金賞受賞。

 今年のコンクールも春永結生が金賞だろうと、誰もが信じて疑わない。名実ともに天才の冠を被り、頂点に君臨し続けている学生画家の王さま。

 そんな彼は、高校に進学するや否やなぜか奇抜な銀髪男子となり、いまだに四方から『グレたのか?』と、まことしやかに囁かれているけれど。

 まあ、見ての通り、まったくそんなことはない。


「でも、うん。新学期早々、まるまる一ヶ月も休んだら、そりゃあ退学したって思われても仕方ないですね。すみません、なんの連絡もせずに」


「……や、べつに」


 実際のユイ先輩は、ひとことでは言い表せない不思議な人だ。

 内面的な天然さは元より、特筆すべきは、ふっと気を抜いたら瞬く間に空気に溶けて消えてしまいそうな儚い雰囲気だろうか。

 まるで作り物のように端正で中性的な容姿。低すぎず高すぎない耳心地のいい声。

 ワンテンポ挟んだ話すトーンの緩やかさはどうにも調子を崩されるが、慣れてしまえばそれこそがユイ先輩だと思わせられる。

 そんな、己の世界が完璧に確立されている人。


「勝手にやめたと思ってたのは、俺の方だし」


「あ、わかっちゃいますよ、私。ユイ先輩、今ちょっと怒ってるでしょ」


「怒ってない。たぶん」


「たぶん」


 こんなモテ要素を詰め込んだユイ先輩の周りに、驚くほどミーハーな女子たちが集まらないのは、鉄壁のような無表情が標準装備だからだ。

 それはただ、不器用ゆえのものだと私は知っているけれど、なんとなく話しかけづらいんだろうな、と思う。銀髪だし。本人は無意識のようだが、いつも冷たい氷を纏っているような雰囲気を醸し出ているから、なおのこと怖がられてしまうらしい。

 他ならぬ私だって、最初は大いに戸惑ったものだった。


「ごめんなさい、先輩。ちょっとままならない事情がありまして」


「……芸術とも取れない、その斬新なデザインの前髪と関係ある?」


「あ、そこ聞いちゃいます? みじんも関係ないですけど」


 じっ、と。濁りのない澄んだ眼差しを向けられて、私はついたじろいでしまう。露わになった額を両手で抑える振りをして顔を隠しながら、たははと笑ってみせた。


「違うんですよ。こんなに短くするつもりはなかったんです。ただ、ちょーっと手が滑りまして」


 私の前髪はいま、右側が極端に短く左側が長い状態だ。流行りのアシメだと誤魔化せないほど急な下り坂状態の前髪を見て、友だちの円香とかえちんはこう言った。


『お、思い切り具合が素敵だね、鈴ちゃん』

『さすが芸術家だよ。その発想はないわ』


 私もない。言うまでもなく、思い切ったわけでもない。

 いくら筆が乗らなくとも、髪をじぐざぐに切るなんて奇行には走らない自信がある。

 長い髪が好きだという先輩の好みに合わせて伸ばしているのに、せっかくの努力が危うく水の泡になってしまう。


「直す暇もなかったんですよ。もう今日一日めちゃくちゃ恥ずかしくて」


「まぁ……いずれ伸びるだろうし、慣れればそのままでいい気もするけど。でも、そんなに気になるなら切ってあげようか」


「えっ」


「……よけいなお世話なら、」


「じゃないっ! なわけない!」


 グイッと食い気味に否定すると、先輩はわずかに眦を下げながら苦笑した。


「必死」


「だ、だっていいんですか? 先輩の天才的な手腕を私に施したりなんかして……!」


「大袈裟でしょ。絵と散髪は違うし」


 ベンチから立ち上がったユイ先輩は、私が手に持ったままだった鉛筆を抜き取ってキャンバスの横に置いた。まだアタリしか描かれていないモノクロのキャンバスだ。

 今さらながら、はて、とささやかな疑問を浮かべる。


「あまり筆が乗らなかった感じです?」


「……まあ、ね」


 一瞬の間ののち、ユイ先輩は小さく肩をすくめた。


「ハサミ、教室に行けばあるかな」


「あ、私持ってますよ。筆箱にいつもいれてるから」


「じゃあ、貸して。あといらないプリントがあればそれも」


「はーい」


 言われるがまま、スクールバッグからハサミとノートを取り出して先輩へ手渡す。

 中指にペンだこが拵えられたユイ先輩の骨ばった指先は、それでも色が白くて綺麗に見えるから不思議だ。私のかさついた手とは比べ物にもならない。


「元がその形じゃ限界があるけど……リクエストは?」


「お任せします。見た感じ、おかしくない程度に直してくれれば充分です」


「了解」


 ベンチに座ると、おもむろにプリントを持たされた。

 どうやらこの上に切った前髪を落としていくらしい。幸い今日は風もほぼ吹いていないから、飛んでいってしまうこともないだろう。


「……それで。君の休んだ理由、ままならない事情っていうのは言えないことなの」


「え。知りたいですか?」


 ちょきん、とハサミの先が額の上で動くのを上目遣いに見ながら聞き返す。


「知りたいわけじゃないけど」


「ふふ、ならいいじゃないですか。たいした理由でもないんですよ」


 ハサミの向こう側に見えるユイ先輩の顔は、相変わらず無表情だ。

 でも、ほんの少しだけ拗ねているような気もする。ここ一年、毎日のように部活で顔を合わせていたおかげで、だいぶ理解できるようになってきているらしい。


「やめませんよ。ユイ先輩がいるうちは」


「……ふーん」


「ふーんて」


 くすくす笑うと、ユイ先輩も無症状の顔にわずかながら微笑を滲ませた。

 そんな些細な変化ひとつに心拍数が上がる。

 ずるい、と。そう思ってしまう。


「次からは、連絡すること」


「はぁい。でも私、先輩の連絡先知らない」


「…………」


 前髪を切る手がぴたりと止まり、珍しくユイ先輩が硬直した気配がした。


「そう、だっけ」


 まさか、連絡先を知らないということすら認識されていないとは。

 上げては落とされる。慣れてはいるが、つい苦笑いを浮かべてしまいながら、私はわざと唇をとがらせて見せた。


「先輩ったらひどいなぁ。私の気持ち知ってるくせに」


「俺はあまりスマホ見ないから」


「わあ現代っ子らしからぬ発言だ」


 知っているとも。ユイ先輩に、ハニートラップなんてものは効かないのだ。こちらがいくらあざといことをしたところで、ユイ先輩が興味を持つことはない。

 ──けれど、それでいい。だからこそ私は、いまもこうしてユイ先輩のそばにいることができるのだから。


「まぁ、先輩って絵を描くこと以外への関心は薄いですもんね」


「……そう?」


「そうですよ。自分の世界に入り込んだら、周りがいくら声をかけようが気づかないし。ほら、食事も睡眠もまともにとらなくなるじゃないですか」


 同じ絵を描く者として、没頭してしまう気持ちはわからないでもない。

 ただ、先輩の場合はやや……いやかなり、度が過ぎていて。


「本気で絵を描いているときの先輩は、たとえ罵詈雑言を投げかけようが、頭から水をぶっかけようが戻ってこないですからねえ」


「罵詈雑言て。君、もしかして」


「いや、さすがにやってないですよ? やだなあ、先輩ったら。……あはは」


 今日みたいに普通に話しかけて気がつく場合は、たんに集中力が切れているときか、あるいは筆が乗らないときか、はたまた他に意識を取られることがあるときだ。

 どちらにせよ、大抵のことは右から左に受け流す究極のスキルを身につけている先輩には、比較的珍しい現象かもしれないけど。


「……よし、できた」


 やがて満足そうにハサミを下ろした先輩。

 ポーチから手鏡を取り出して見てみると、あんなにも歪な形をしていた前髪が綺麗に整えられていた。眉前でも不自然ではない。むしろオシャレだ。


「先輩すごい。美容師さんにでもなるつもりですか」


 初めからこの髪型を狙っていたかようなでき栄えに、思わず「ほわー」とほうけてしまう。


「不具合は?」


「ありません! 完璧です!」


 ならよかった、とユイ先輩が相好を崩す。


「っ……」


 ごくまれに現れる、誰でもわかるような表情の変化だった。

 でも、これはなかなかに強烈な一撃だ。なにせ顔がいいから、不意打ちで向けられた側に与えられる破壊力がえげつないのである。

 加えて、長い睫毛が瞳に影を落とす様は、あまりにも高校生らしくない。というか、毎朝ビューラーで睫毛上げに奮闘している全女子高生から反感を買われそうだ。


「先輩って、ほんとなんでもできますよね」


 しみじみつぶやくと、ユイ先輩はなんとも怪訝そうにこちらを一瞥する。


「そんなことない」


「えー、ありますよ」


「ないよ。……ないから、絵を描いてるんだし」


 ほんのわずかながら、ユイ先輩の面差しにしっとりとした陰りが指す。

 ハサミを数回動かしながら、ユイ先輩は私の隣に腰を下ろした。

 揺蕩う水面のように憂いのある眼差しが、もうほとんど花弁を落としてしまった桜の木へと向けられる。ふっと、先輩の体から力が抜けたのがわかった。


「俺は、小鳥遊さんが思うほど、すごくもなんともないんだ」


「……先輩?」


「君は初めて会ったときから、やたらと俺を買い被ってるところがあるでしょ」


「そう、ですか?」


 うーん、と考えるもピンとはこない。はなから私はユイ先輩を常時リスペクトし続けてきているわけだから、多少の課題評価は当然といえば当然なのだ。


「ユイ先輩って、変なところで自信がないですよね」


「え?」


「基本的に、絵を描くこと以外はどうでもいいっていうか……一見、流されるままに生きてる感じですけど、意外と完璧主義じゃないですか」


 誰だって得手不得手はあるものだ。

 しかしユイ先輩は、自分のできないことに対して、ひどく負い目を感じているところがある。できることをできないことで相殺してしまう、というか。


「……わからない。そう、なのかな」


「少なくとも、私にはそう見えます」


 そして絵を描くこと自体に、なにかどうしようもないうしろめたさを抱いている。

 胸を張れるほどの実力と経歴を持ち合わせながら、彼はそれをいっさいひけらかさないばかりか、己の栄光に露ほども興味がないのだ。

 どうして、とずっと疑問に思っていた。

 でも、そこにはきっと先輩しか知らない事情があるのだろう。私の『ただの後輩』という立ち位置では、なかなかその繊細な部分まで立ち入ることは難しい。


「生意気かもしれませんけど、さっきの言葉。絵を描くことしかない、じゃないですからね。できることがあるってすごく特別なことなんですよ、先輩」


「……だとして、君はどうなの」


「え?」


「君も絵を描く人でしょ」


 まあたしかに、私も生粋の絵描きだ。ユイ先輩には及ばずとも、絵に関しては並々ならぬ思いがある。特別、と言えば、きっと自分にも当てはまるのだろう。

 だが、そこは明確に違う。私と先輩では、はなから比べることはできない。


「私は絵を描くこと自体に、そこまでこだわってないんです」


「……?」


「絵を描くのは──描いていたのは。その先に希望があったからでした。だけどこの希望はもう、仮に私が絵を描けなくなったとしても続くものになったので」


 だから本当は、もう絵を描く理由すらない。美術部で唯一と言ってもいいほど真面目に活動していた身としては、たとえ口が滑っても明かせないけれど。


「そういえば先輩。遅ればせながら、今年も金賞おめでとうございます」


 ひょいっと立ち上がってユイ先輩と向き合うように振り返ると、唐突な話の転換に先輩は面食らっているようだった。それでも構わず続ける。


「コンクール五年連続金賞ってもう神さまの域ですよね。さすがです」


「……君だって銀賞だったじゃない」


 思いがけない返しに、私はえっと大きく目を瞠った。


「先輩、私が銀賞獲ったこと気づいたんですか」


「? そりゃ気づくでしょ。部員の功績くらい、さすがの俺もチェックするよ」


 へえ、と心の奥底がそわそわと浮き足立つ。だって、他人への興味が皆無に等しい先輩が、まさか気づいてくれるなんて思っていなかった。


「ふふ」


「……嬉しそうだね?」


「嬉しいですよ。たぶん、ここ数年でいちばん」


 一歩、二歩、三歩と足を踏み出して、風雅な桜の大樹を見上げる。

 樹齢百年記念で数年前にここへ植え替えられた桜は、きっと他のどの桜よりも空に近い場所にいるのだろう。

 天に花を咲かせる薄紅を脳裏に焼きつけながら、私は「先輩」と呼んだ。


「なに?」


「ユイ先輩」


「……聞こえてるって」


 私にとって、誰よりも大切な人。

 さきほどまでまったく吹いていなかった風が、私と先輩を隔てるように流れていく。いつも通り。久方ぶりでも、変わらない日常。

 けれど、きっとそう遠くないうちに終わりを迎える『当たり前』。

 爽やかに凪いだ髪が潤みかけた視界を泳ぐなか、私は誤魔化すように微笑んだ。


「今日も今日とて、大好きです」

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