面白い事の発露

 レースが開始されて、誰でもない、そのコース上に居る全員だった。……いや、厳密に言えばと言うべきだろうか。


「……何!? この速さはまさか!?」


 特に実感したのは、恐らくは勲矢那美だろう。同じホンダ系列であり、トップを競える者であり、何よりも彼女自身がずっと注視して来たのだから。

 無論、それもほんの僅かに想いが強いと言うだけの話。本田千晶と競った事のある者達ならば、普段と違う彼女の走りに驚き疑問を覚えたのは言うまでもなかったのだった。


「ちょっとぉ、千晶っ! あなた、本気なの!?」


 スタートに成功して順位を3位にまで上げていた佐々木雅は、驚きの余りヘルメットの下で思わず大声を上げた。まだスタート直後であっても、千晶が何をしようとしているのかを雅は具に感じ取っていたのだ。


「……ふぅん。確かに前と雰囲気が違うけど……」


 スタート時4位、SRCの岸本美紗は、それでも冷めた眼で状況を観察していた。ただ他の者とは違い、彼女はそこまで千晶に思い入れてはいない。

 冷静な観察と言うよりは、そこまで千晶に興味が無いのだろう。……速さには目を見張るものがあったとしても。

 その他にも。


「おおっ! やる気だなっ!?」「まさか、早々に勝負を仕掛けるとでも!?」「……逃がさない」


 西島喜久李、藤堂香蓮、小清水明楽といった面々に加えて、殆どの者達が驚きの感想を抱いていたのだ。


 ―――本田千晶らしからぬ、スタートダッシュとその加速に。


 千晶のレース運びを知る者ならば、彼女が率先して先頭に立つ事自体が珍しい……と言うか在り得ないと考えるだろう。レース巧者の彼女は、序盤は無理をせずに流れを読みつつ、勝負所で一気に仕掛けると言うオーソドックスなスタイルを好んでいた。

 一般的であり正統的、それを高いレベルで行使する事の出来るライダー……それが本田千晶という人物であった。


 ……これまでは。


 しかし今回のレースに関しては、千晶はその認識をアッサリと塗り替える走りを披露しだしたのだ。そして、その驚きはコース上のライダーたちだけではなく。


「……ねぇ。今日の本田部長の走りってなんだか……らしくないと言うか」


「……うん。って言うか、こんな部長の走り方って初めて見る……よね?」


「わ……私は昨年のレースからその……見ていましたけど。……ファーストラップからトップを堅持する様な走りをするなんてその……ありませんでした」


 篠山貴峰、井上沙苗、米田裕子が各々感じた事を口にした。彼女達はまだ1年で、間近で千晶のライディングスタイルを見て来た訳ではない。

 それでも本田千晶は、それこそ多くの者達から注目されていた。それ故に、彼女の好むレース展開は多くの者達に熟知されていると言って良いだろう。


「でも紅音ちゃん。これってまるで……」


「……ええ。これじゃあまるで〝逃げ展開〟のレース運びね。しかも……」


 恐らくは真っ先に千晶の異変に気付いたであろう紅音は、千迅の疑問に明確な肯定を突き付けた。しかもそれが「ただの先行逃げ切り」で無い事まで理解していたのだった。


「しかしこの加速……。もしかして千晶の奴、〝タイヤウォーマー〟まで使ってるんじゃないの?」


 同じく千晶の走りに違和感を覚えていた美里は、ある仮説を立ててそれを呟いた。とは言え、それに何の意味がありどんな思惑の下に実行しているのかは分からなかったのだが。


 美里の言う「タイヤウォーマー」とは、文字通りタイヤを温めてグリップ力を上げる装置だ。特に寒い冬などでは効果を発揮するだろうか。

 車両と路面の唯一の接地点がタイヤである以上、タイヤの性能以上にマシンを走らせる事は不可能だと言って良いかも知れない。

 そしてそのタイヤは気候、気温、路面温度にその性能が非常に左右される。

 マシンが日進月歩で進歩している様に、タイヤも同様の進化を続けている。遥かな未来には、もしかすればそれらの懸念事項は皆無となるやも知れない。

 しかし少なくとも今現在は、そう言った〝熱〟によるグリップ力の低下を避ける事は出来ないのだ。


「そうでなければ、この加速の説明が付きません。ですが……」


 ゼッケン10を付けた捷報学園3年藤堂香蓮は、スズキの名機である「RGBγガンマ250二式改」を駆りながら確信とも取れる思いを抱いていた。だがそれと同時に、そんな事は考え難いと言う相反する疑念にも囚われていた。

 ただ第一コーナーを経てS字コーナーに差し掛かった時点で千晶との差はさらに大きくなり、疑念は確信に変わりつつあるのだが。。


 今は9月。秋と言えばそうなのだが、まだまだ夏の暑さが残り初秋とも言えないだろうか。当然路面温度は真夏並みに上がり、比喩表現抜きで熱したフライパン上の様相を呈していた。

 そこまで熱ければ、この時期にタイヤウォーマーを使う必要は無い。厳密に言えば、そこまで熱する必要が無いと言おうか。

 レースの場合はある程度熱を加えておく必要があるが、過剰である必要は無いだろう。数周も走ればタイヤは自然にグリップ力を上げてくれるからだ。

 だが逆に最初から高い熱を与えた状態の場合、スタート時のグリップ力は最高潮で高いパフォーマンスを見せる事が出来る反面、タイヤは瞬く間にそのグリップ力を失い終盤に失速する事が十分に考えられる。

 それでも、そんな事はお構いなしとでも言うかのように、予選時の速さを再現しているかのペースで千晶は走行を続ける。先頭集団がS字コーナーを抜けようとしている時点で、千晶は既に第一ヘアピンを抜けダンロップコーナー、シケインであるアジアコーナーを抜け、もはや独走状態となりつつあった。


「なるほどなぁ! スタートダッシュで私らを置いてけぼりにするって魂胆かぁ! だけど……!」


 ゼッケン15は剋越高校3年西島喜久李。カワサキの250CCクラスを代表するマシン「ZXR-09RRダブルアール」に鞭を入れつつ、彼女は意表を突かれた千晶の作戦に歓喜の声を上げていた。とは言え、喜久李のマシンを始めとして殆どの者達は、そう簡単にペースアップなど出来ない。

 スタート直後のマシンはガソリン満タンの上、タイヤがグリップ力を最も発揮するまでには幾度かの周回を重ねる必要があるのは間違いないのだ。最初からトップに迫るスピードを出せる千晶に追い縋るなど不可能に近かった。


 これで季節が冬ならば、路面の低さからタイヤ温度の上昇を抑える事が出来、レース終盤まで十分持つだろう。しかし夏と同等の気温から、路面より立ち上る陽炎がそうではない事を物語っていた。

 このままの速度を保てば、後続との距離を稼ぐ代わりにタイヤは一気に摩耗して早い段階で食いつきが悪くなるのは目に見えている。


「それでも、そう思い通りに行かせはせんっ!」


 ただそうと分かっていても、それをそのまま放置出来ない者がいる。いや、この場合は意地だろうか。

 1人先を行く千晶に、後続の先頭集団より1台のマシンが飛び出した。HRT所属のゼッケン1番、勲矢那美だった。

 この時点で千晶に付いて行くメリットは殆ど無い。現に千晶が回る最終コーナーのスピードやバンク角度に比べれば、那美の速度はまだ随分と遅い。

 それでも彼女は絶妙のマシンコントロールで前を行く千晶の背中を追ったのだった。




 千晶が1周目を走り終え、ここで漸く千迅には千晶の言葉が理解出来ていた。


「そうかぁ……。本田先輩の言っていた面白い事ってこれだったんだぁ……」


 2人だけの秘密だと念を押された事が目の前で展開されて、千迅の声は喜色ばんでいた。


「……千迅? 本田先輩の面白い事って?」


 そんな彼女を、隣に座る紅音が気付かない訳はない。紅音は千迅に怪訝そうな顔をして問い掛け、千迅は今朝の事を嬉しそうに語った。


「……そう。本田先輩がそんな事を……」


 楽し気に何でもない事のように語る千迅だが、紅音はその話にどこか引っ掛かる部分を感じて、レース中だと言うのに考え込んでいたのだった。

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