【KAC20236】お隣さんは……

香アレ子

第1話

 マンションの部屋の隣に美人がいる、気づいたのは朝7時のことだった。

 海外の取引先とのオンライン会議で、いつもより1時間早く出かけたのだ。会社に削り取られた短い睡眠時間にイライラしていた。

 扉を乱暴に閉めて鍵をかけ、エレベータに歩き出す。オレの部屋はエレベータの斜め前で、エレベータの反対側の斜め前に隣の角部屋のドアがある。その扉が開いた。

 角部屋なために廊下に面した部屋の窓がなく、今までその部屋に誰かが住んでいると意識したことは無かった。音も全く気にならなかった。その扉から人が出てきたのを見るのも初めてだ。

 何気なく振り返って驚いた。扉から出てきたその人は、ワンピースにジャケットを羽織っていた。彼女もこれから通勤だろうか。

「おはようございます」

 挨拶されて、会釈を返した。背中の半ばまでの艶やかな黒髪が、僅かに下げられた頭に従って肩を流れる。その艶やかな流れに目を奪われた。華奢な手足、全体的に小ぶりなパーツ、顔も小さい。清楚が服を着て歩いているような人だ。

 やっと来たエレベータに2人で無言で乗る。ドギマギはするが、気まずさとかはなく、彼女からは、ふわりと良い香りがした。その人がいるだけで強制的に嗅がされるような強いものでは無く、ほのかに香るか香らないかくらい。なんの匂いか分かる程でもなく、ただなんとなく良い香りだ。

 そのままつかず離れず、駅までの道のりを一緒に歩いた。歩き出すともう香りは分からなかったが、なんとなく、彼女は良い香りだと勝手に脳にすり込まれた。

 あれだけ朝早く起こされてイライラしていたはずなのに、すっかり忘れていて、鼻歌を歌って過ごしたいような一日だった。彼女と会えただけで、今日はついていると思えるような。


 意識してみると、彼女は朝7時に決まって家を出るようだった。

 それから、オレは朝早く起きるようになった。朝7時に家を出て、彼女と挨拶をしてから出社する。時間があるので会社の最寄り駅にある店で朝食を食べるようになったら、なぜか仕事の効率が上がった。それまでは慌ててコーヒーだけ飲んで出かける日が多かったのが、朝食を食べるようになっただけだ。だが、オレの身体は朝の糖分を必要としていたらしい。

 早起きは三文の得と言われるが、オレの場合は隣の彼女のラッキー7だ。帰宅時間も大いに早まった。残業3時間が当たり前だったのが、1時間くらいで終われるようになった。残業代が減るのは痛いが、しばらくしたら昇進がカバーしてくれそうなので、朝の楽しみを優先することにしている。

 その日は殆ど定時に仕事が終わり、のんびりとスーパーで買い物をしてから帰った。買い物袋を2つ下げて家に向かう。日用品が安い日だったので、洗剤類をまとめ買いしたのだ。家の近くまで歩いていると、角を曲がった先に隣の彼女がいた。彼女の方が少しだけ脚が遅いため、追いついたらしい。

 エントランスで追いついたので声をかけた。

「こんばんは」

 毎朝挨拶をするので、そのくらいは慣れたものだ。両手が塞がっていたので、ポストは無視して彼女と同じエレベータに乗り込む。

 両手が塞がっているは言い訳だ。少しの間片手にまとめるくらいは可能な重さだったが、エレベータに乗るのを優先した。彼女の香りを楽しみたかった。

 夕方なせいか、彼女の香りは朝よりも少し弱い気がする。なにより、通勤電車で付いてきたのだろうか、他の香りが混ざっている。やはり朝の方がラッキータイムなのかもしれない。顔色を変えず、そんなことを思った。

「失礼します」

 エレベータから降りると、軽く会釈をして彼女が部屋の前に鍵を探しながら立つ。オレは、隣の自分の部屋へ歩き出した。

 その時、カタンと音がした。どうやら彼女が持っていた郵便物が落ちたらしい。彼女は部屋に入っていくところだ。慌てて買い物袋を片手にまとめると、ハガキを拾い彼女の部屋の前に行く。

「落ちましたよ」

 彼女が振り向いた。

 扉が開いている。彼女の後ろに黒山があった。……そんなバカな。

 ハガキをひったくるように受け取った彼女は、頭を下げながら家の中へ入っていく。バタンと音がして、オレは我に返った。

 間違い無い。あれは……。彼女は汚部屋の住人だった。

 時刻は夜の7時。朝の7時がラッキー7なら、夜の7時はアンラッキー7だったようだ。


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