お焚き上げ短編集
玄米
雨の中の自由
大雨の日は、決まってあの日を思い出す。
〇〇〇
梅雨の時期だった。僕はリビングで勉強をしていて、目が疲れたので窓から外の様子を見た。そこには、道路を楽しそうに駆け回る少女がいた。見た目からして、当時小学2年生だった僕と同じぐらいだ。まるで大雨の中が、自分の生きてる世界だと言わんばかりの走りに、僕は魅せられる。
自由のようにも、孤独のようにも。その姿が、僕の目からは無敵な存在のように映った。
「ママ、僕も外で遊びたい」
台所にいた母にそう訴えた。
「こんな日に外で遊んだら、風邪引いちゃうわよ」
「でも」
そう反論すると、母は窓の方を見やって
「もしかして、あの子と遊びたいの?」
「うん」
「……あの子、ご近所さんの中でも1番悪い子なの。遊んだらきっとイタズラされちゃうわ」
「そうなの?」
「うん。それに、ママはこれからお買い物に行くの。1人でお留守番、してほしいな」
「……わかった」
いい子ね。と頭をなでられると、それから10分後に母は家を出た。
当時の僕は「いい子」であることに誇りを持っていた。いい子でいれば、周りから褒められる。いい子であれば、悪い子よりも上に立つ存在になれる。力が弱くて運動が苦手でも、いい子に勉強していれば、通知表の二重丸は増える。クラスでは1番の優等生。それがたまらなく嬉しかった。
でも、それはきっと狭い世界限定での評価であると、当時の僕は薄々感づいていた。もちろん言語化なんてできない。漠然とした、このままでいいのだろうか。という正体不明の不安感。その日は雨のジトッとした空気も合わさって、余計に膨れ上がっていた。
母が家を出てから5分経った。おやつでも食べようかと棚をあさり、リビングの机まで持っていく。また同じ窓を見ると、やっぱりあの子がいた。水溜まりで楽しそうに遊んでいる。水溜まりは汚いから、遊んではいけないのに。
ママの言う通り、悪い子なんだ。そう決めつけた。悪い子と一緒に遊ぶのは良くないこと。直接そう教わった訳ではないが、小さな脳みそではそういう風に解釈していた。
だけど、何故だろう。あの子が遊んでいるところを見ると、僕も水溜まりをバシャバシャ蹴りたくなった。水溜まりの上で、ぴょんぴょん跳ねてもみたい。普段はそんなこと、思わないのに。
ママもいないし、ちょっとだけ。傘を持って濡れないようにすれば、バレっこない。
僕は初めて、母の言うことに背いた。
玄関から出ると、大粒の雨がアスファルトを激しく打ち付けている光景が広がった。鉄の釘が空から落ちてきたみたいだ。バチバチと痛い音が辺りを支配する。
そんな中、雨具を着ずに全身びしょびしょの少女は、相変わらず僕の家の前の道路にいた。びしょびしょすぎて、人間じゃないみたいだ。
「なに、してるの」
傘をさして、その子に近づく。雨音にかき消されないように声を張って尋ねる。
「んー?遊んでるの」
「そうなんだ。なんで、今日なの」
「雨が降ってるから!」
少女は元気だった。みんなが暗い顔をしていても、少女の周りだけは明るく照らされているような。太陽のような子だ、と思った。
「雨の日は外で遊んじゃダメなんだよ」
こんなことを言いたくて、外に出た訳ではないのに。気づけば僕はいい子のふりをしていた。約束を破ろうとしている、悪い子なのに。
「そんなの、誰が決めたの?」
「え……」
予想だにしない返答に言葉が詰まる。誰が決めたのだろう。ママかな。でも、ママ以外の人も、じいちゃんも先生も友達のミチルくんも、雨の日は外で遊んではいけないと言う。それってつまり、誰が決めたわけでもないんじゃないか。
「……みんな、そうしてるから」
僕は考えることから逃げた。答えが見つかりそうになくて、怖くなった。みんながしていることは、きっと正しい。だから、これが正しい。
「だったらみんな、損してるね」
「どういうこと?」
なんだか悔しくなってきた。僕の小さなプライドが、大きな針でぶすぶすと刺され空気を抜かれていく。
「だって、こんなに楽しいこと、したことないんでしょ?それって損じゃない」
「……」
僕は何も答えなかった。本当に楽しそうにしている姿を見て、僕も混ざりたくなったから。でも、そんなことをしたら。もう家に帰れなくなるかもしれない。ありえない恐怖が、僕の好奇心を阻害する。
「寒く、ないの」
「なんで?」
「濡れてるから」
引き込まれそうになったところを、別の質問で中和する。この子と遊びたいだけならば、家に招き入れて遊べばいいと、そんなことを考えていたと思う。
「全然!むしろ、あったかいぐらい」
その子の顔をよく見ると、唇は紫色になっている。長い髪も雨をいっぱいに飲み込んで、おかしな形になっている。手指の先は小刻みに震えている。
「寒そうに見えるけど」
「体はそうかも。でも、心はホットだよ」
話し始めてからそう長くはないが、この子は変わっているな、と思った。質問に答えているようで、方向性があさってを向いている。
僕の常識では計り知れないその回答が、たからもののように輝いて聞こえた。
「可能性は、人を温かくすると思うんだ」
「かのうせい……?」
「そう。可能性。もし雨の日に外で遊んだら、どんな景色が見えるんだろう。これって可能性、でしょ?」
「よく分からないけど」
自然とえくぼが出来上がっていた僕の口は、軽かった。
「いいことだと思う」
「だよね!ほら君も。いつまでも傘なんかさしてないで」
遊ぼ?と僕の方に濡れた手を差し出す少女。それに誘われて、僕は窮屈な安全地帯から抜け出した。
水溜まりは、くるぶしまで浸かるほど深く、冷たかった。靴に水が染み込んでくる感覚が、気持ちよかった。
誰も通らない住宅街を、少女と二人で全力で駆け抜けた。誰も邪魔をしない、僕らだけのかけっこだ。
〇〇〇
そこから先は引き抜かれたように記憶がない。なんとなく、母に怒られているような驚かれているような。曖昧な記憶しか残っていない。あの雨の日の遊びは、あんなにも明瞭に思い出せるのに。
その少女は近所の子、だということで同じ学校なのかと期待したのだけど。どうやら別の学校の子だったらしい。ちょうど通学区域の境界線に僕の家とその子の家があったのだとか。
それきり、僕らは出会うことがなくなった。雨の日には毎日、窓から外の様子を見たのだけど。あの子が現れることはなかった。
〇〇〇
僕ももう中学生だ。来年には高校受験を控えている。大人にならなくてはいけない。母も中学校の先生も近所の頑固なじいさんも、みんなそう言う。
だけど僕は、雨の日になると決まって、傘もささず雨具も着ずに、住宅街を走り回る。それはきっと子供みたいなこと。みんながやろうとも思わないこと。
でも、それは可能性を殺している。楽しいかもしれない、という可能性を。
それを確認する度に、僕の心は温かくなる。
雨の中で、僕は自由だった。
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