episode45「Death and First End」

 男は、黒いローブを着込んだ長身でやや大柄の男だった。フードを目深にかぶっており、その素性はわからない。


 男は剣を抜くやいなや、チリー達目掛けて駆け出す。


 その速度は、チリーの想定よりも遥かに速い。あっという間に距離を詰められてしまう。


 斬られる――――と、覚悟したチリーだったが、男は左腕で強引にチリーを振り払った。


「な……ッ!?」


 一瞬の困惑。


 しかしすぐに、チリーは理解する。

 男の狙いは――ティアナだ。


「ティアナッ!」


 男の凶刃がティアナに迫る。


 チリーは即座に態勢を立て直すと、なりふり構わず男へ飛びついた。

 そのまま弾き飛ばすつもりだったが、男はわずかに態勢を崩しただけだ。


 まるで大木にしがみついているかのような気分だった。多少体格差があっても、腕力でここまで遅れを取るとは思ってもおらず、チリーは目を見開く。


「なんなんだテメエは!? なんでティアナを狙う!?」


 チリーの言葉に、男は答えない。

 ただ黙したまま、チリーを引きずってでもティアナの元へ近づこうと歩を進めている。


「ティアナ逃げろッ! こいつの狙いはお前だッ!」

「せ、青蘭達呼んでくるねっ!」


 戸惑いながらもそう答え、ティアナはその場から駆け出す。


 しかし次の瞬間、チリーの顔面に男の左拳が食い込んだ。


「がッ……!?」


 顔の骨を砕かんばかりの威力だった。


 想像を絶する振動と激痛が脳を揺さぶり、チリーは意識を手放しかける。

 当然、男の身体を掴んだままではいられなかった。

 途切れかけの意識を保つのに精一杯で、チリーはその場に倒れ込む。


「チリーっ!」


 そしてティアナが悲鳴を上げるのと同時に、男はティアナとの距離を詰めた。


「いやっ――――」


 その後は、ほんの一瞬の出来事だった。


 たった一瞬で、何もかもがかき消えたようにさえ思えた。


「あ、あぁ……ッ!」


 男が突き出した剣が、ティアナの身体を貫いている。


 ぼやけた視界の中で、薄暗闇の中に赤い色が飛び散った。


「チ……リ……」


 剣を抱き込むようにして、ティアナが崩れる。


 その姿を、チリーはただぼやけた視界で見ていることしか出来なかった。


 男の所作からは、何の感情も見えてこない。

 ティアナにどんな感情を抱いて、どんな理由で凶行に至ったのか、まるで想像出来ないのだ。

 まるで仕事か何かのように命を奪い、男は黙ったまま剣を引き抜いた。


「う、お……」


 次の瞬間、チリーは何も考えられなくなっていた。


 ただ気づけば、身体だけが勝手に動いていた。


 立ち止まった精神がその場に置いていかれて、男の元へ駆け出していく自分の背中を見つめているような錯覚。


 意識も感情も、あの瞬間で停止した。



 ティアナの死を悟った、あの瞬間から。



「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」


 慟哭が身体を動かしている。


 何も考えられないまま、身体だけが暴れるようにして男の元へ向かっていた。


 その獣のような速度に、男は僅かに反応が遅れる。

 噛みつかんばかりの勢いで飛びついてきたチリーに対して薙いだ剣は、当たらずに空を裂いた。


「――ッ!」


 チリーの拳が、男の顔面をとらえる。その衝撃で、かぶっていたフードがまくれ上がった。

 やや角張ってはいるが、端正な顔立ちの男だった。美しい金髪を持つ、こんな森の中には似つかわしくない貴族然とした面構えに見える。


 チリーに殴られ、態勢を崩したものの倒れるには至らない。そのまま左拳を繰り出し、チリーへ殴りかかった。


 それに対してチリーは、受けることも避けることもしなかった。

 むしろ顔面からぶつかり、あろうことかそのまま男の拳を押し返したのだ。


 男も流石にうろたえたのか、表情に動揺の色が映る。

 チリーは構わず胸ぐらを左手で掴むと、思い切り男の顔面を右拳で殴りつけた。


 暴れ狂う熊のような殺気に気圧されながら、男は二撃目、三撃目と顔面でチリーの拳を受け続けてしまう。


「この……ケダモノがッ!」


 男がついに怒号を発する。


 チリーの腹部を強引に殴りつけ、一瞬怯んだ隙に剣の切っ先を向ける。


 しかしそれでも、チリーは攻撃の手を緩めようとしなかった。


 突き出された剣が、チリーの肩を貫く。


「チッ……!」


 男は急所を狙ったつもりだったが、間一髪のところで回避されたのだ。


 急所を外されたとは言え、肩を貫かれれば当然激痛が伴う。普通の人間ならここで動きを止める。


 だがチリーは、そのまま男へと食らいついた。


 力の入らなくなった右腕をだらんと垂らし、左手は尋常ならざる握力で男の胸ぐらを掴み続けている。


 岩石のような頭突きをモロにぶつけられ、そこで男はようやく派手に仰け反った。


 男に大きな隙が出来る。


 殺すつもりならば絶好の機会だった。


 しかし荒れ狂うように動き続けたチリーの身体は、既に限界に近づいていた。


 身を削るような攻撃と、剣で貫かれたことによる深手が、チリーに膝を付かせてしまう。


 それでもチリーの目は、男を強烈に睨み続けていた。


 その恐ろしい程の執念に、男は態勢を立て直しながらも身震いしかける。

 この獣と戦い続ければ、いずれ刺し違えてでも殺される、と。


「テメエは……誰だ……なんで…………ティアナを……」


 既にチリーの意識は朦朧としていた。


 もう、身体もほとんど動かせない。


 何かにしがみつくように意識を保ち、チリーは男へ問うていた。


 男が、笑みを浮かべる。つい先程まで何の興味もなかった少年に、今は強く興味を惹かれている。

 だがそれと同時に、男の身体がよろめく。想定外のダメージに、身体が悲鳴を上げていた。


「……私はハーデン」


 思わず、男は名を口にしていた。


「貴様の名は?」


 チリーには、もうほとんど意識がなかった。今自分がどこにいて、何故ボロボロに傷付いているのかもわからない程に。


 それでも男の名と、自身が名を問われたということだけは認識していた。


 反射的に、チリーは自身の名を口にする。


「ルベル……C(チリー)…………ガーネット……」


 チリーの名前を聞いて、ハーデンはどこか満足げに頷いて見せる。


「チリー! ティアナ!」


 そうこうしている内に、騒ぎを聞きつけたニシルと青蘭がこちらへ駆け寄り始めていた。


 ハーデンはどこか名残惜しそうにチリーを見やった後、驚異的な脚力で跳躍し、大木の上へと消えていく。


「いずれまた……会うことになるかも知れんな」


 ニシル達がチリーの元へたどり着く頃には、ハーデンはその場から姿を消していた。




***



「……お前が傍にいながら、何故こうなった!?」


 目を覚ましたチリーが最初に聞いたのは、青蘭の悲痛な声だった。


 全身がひどく痛む。


 最低限の応急処置は施してあるが、まともに動ける状態ではなかった。


「青蘭! チリーは怪我が……!」

「答えろルベル! 何があった!?」


 ニシルの制止も振り払い、凄まじい剣幕で捲し立てる青蘭を、チリーはぼんやりと見つめていた。


 そして段々と意識がはっきりしてきて……突き落とされるような形で現実に戻っていく。


 フラッシュバックのように記憶が蘇る。


 真っ赤な記憶が鮮烈に再生されて、チリーの全身から厭な汗が吹き出した。


 動悸が止まらない。傷口が開いたような気がする。


 肩に巻かれた包帯が真っ赤に染まり、チリーもう一度気を失いかけた。


「チリー! 安静にしててくれ! 青蘭、これ以上刺激しないで!」

「ニシ……ル……」


 呟きつつ、チリーは強引に身体を起こす。そこでようやく、ここが自分達が野宿のために確保した拠点だと気付いた。


 中央で揺れる焚き火の中で、バチッと音がして焚き木が燃える。身も心も、一緒に焚べてしまいたかった。


「青……蘭、すまねえ……俺は……」


 守れなかった。


 その言葉が、喉の奥でつっかえてしまう。


 鉛のように重い言葉は、簡単には吐き出せなかった。


 そのままずっしりと身体の中に居座ってしまい、動けなくなってしまいそうだ。


「ルベル……ッ!」


 激情に取り憑かれた青蘭が、チリーの胸ぐらを掴み上げる。

 今まで見たこともないような形相で、青蘭はチリーを睨みつけていた。


「……すまねえ」


 言い返すことさえ出来なかった。

 ただ謝罪を述べることしか、今のチリーには出来ない。


 その意味は、青蘭にも理解出来た。


「俺は…………俺は……」


 ――――……この旅が続く限り、俺はお前を守り続ける。


「ティアナを…………守れなかった……」


 そう口にした瞬間、全てを認めなければいけなくなってしまった。


 自身の無力と、彼女の死を。


 嘲るように弾ける焚き木が、妙に煩わしかった。


 青蘭もニシルも黙ったまま、ただ呆然とチリーを見ていた。


 そして不意に、チリーの視界に入ってしまう。


 ニシルと青蘭があの場所から回収しておいた、ティアナの遺体が。


「あ、ああ……」


 彼女はもうピクリとも動かなかった。


 焚き火に照らされた顔が厭になるくらい青白い。


 もう何も言わない、笑わない。あとはただ朽ちてゆくだけになった彼女が、そこにあった。


「うわああああああああああああああああああああッ!!!」


 ここで一度、ルベル・C(チリー)・ガーネットの精神は砕け散った。


 自身の絶叫が耳にまとわりついてもう何も聞こえなかった。


 焼き付いた死が瞼から離れない。


 殺された理由が全くわからない。死がただの不条理に成り下がる。


 何もかもをその場で吐き散らしながら、チリーは耐え切れずにもう一度意識を手放した。



 ティアナ・カロルは死亡した。



 幕が、閉じ始める。

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