episode3「The Song of the Mouse」

 ゲルビア帝国皇帝、ハーデン・ガイウス・ゲルビアが即位してから約三十年。ゲルビア帝国はその様相を大きく変えた。


 先代皇帝であるバーガス・バルク・ゲルビアが統治していた頃に比べ、領土はほとんど倍になったと言っても良い程に拡大されている。


 エリクシアンを中心とした七つの部隊、イモータル・セブンはわずか一部隊で敵国の戦力をほとんど壊滅状態へ陥らせる程の力を持っており、戦争においてゲルビア帝国にかなうような国は少なくともこのアルモニア大陸には存在しなかった。


 そんな大帝国を統治するハーデンの元に、宰相ニコラス・ヒュプリスからとある報告が入った。


「……捕らえ損なったか」

「いかが致しましょう」

「しばらく泳がせておけ」


 表情一つ変えずに答えるハーデンに、ニコラスは僅かに驚いたような顔を見せる。


「余は手段にこだわるつもりはない。万一ミラル・ペリドットがアレを見つけ出すようなら、その時奪えば良い」

「……それともう一つ。ルベル・C《チリー》・ガーネットが現れた、と」


 その名前を聞いた瞬間、ハーデンの表情がぐにゃりと歪んだ。


 歓喜に打ち震えるような。

 怨嗟にわめき狂うような。

 感動にむせび泣くような。

 混濁した感情がハーデンの表情に一気にぶち撒けられる。


「生きていたか」


 皇帝が今何を思うのか。ニコラスにはその一欠片すら理解することはかなわなかった。



***



 ペルディーンタウンからフェキタスシティまでの道のりは、道のりだけで言えば険しいものではなかった。

 目立った山や河もなく、天候にも恵まれたため野営にもあまり苦労せずすんだ。チリーはあまり睡眠を必要としなかったため、夜間は基本的にチリーが警戒し、ミラルは夜の間は完全に休ませてもらえていたのだ。

 交代を申し出ても「うっせえ寝てろ」の一点張りで、結局チリーは一睡もしないままフェキタスシティへ到着した。


 現在ミラル達がいるのは、アルモニア大陸の最南東に位置するアギエナ国の中だ。やや内陸側にあったペルディーンタウンとは違い、フェキタスシティは海に面しているため、他国との貿易の中継地点として栄えている。そのため、非常に活気のある街並みが広がっており、ミラルは息を呑んだ。


「さっさとラウラ探して休もーぜ。飯くらいくれるだろ」

「……それもそうね」


 ミラルもチリーも、道中の食事はほとんど取れていない。時折食べられそうな木の実や野草をチリーが見つけてくれるくらいで、それ以外の食事は取っていない。


 それに旅の道中、二人は常に気を張り続けていた。特にチリーは、常時ピリピリとした緊張感を持っており、周囲を警戒しながら行動していた。

 エトラこそ追い払ったものの、ミラルがゲルビアに追われていることに代わりはない。仮眠中でも何かあればすぐに起き出せる自信はあったが、少しでも対応が遅れてミラルが攫われれば元も子もない。そのため、夜間は常にチリーが警戒しておく必要があったのだ。


 現在地であるフェキタスシティは王都にかなり近い。ペルディーンタウンやエリニアシティのような田舎よりは治安が維持されている。ゲルビア帝国の人間も、他国の都市部で好き勝手動くのはあまり容易ではないだろう。


「ラウラの具体的な場所はわかんねえのか?」


 チリーの問いに、ミラルは首を左右に振る。

 羊皮紙に書かれた目印は非常に大まかなもので、目的地がフェキタスシティであること以外は書かれていないのだ。恐らく父がこの羊皮紙に地図を書いたのは、エトラが現れてからすぐのことなのだろう。細かく書き記す余裕はなかったのだ。


「この町のどこかにいる……それしかわからないわ」

「まあいい。虱潰しに探すとするか」


 嘆息しつつ、チリーは露天市場を適当に眺める。

 フェキタスシティは三十年前にも訪れたことのある町だ。位置の関係上元々少し栄えた町ではあったが、今は以前の数倍は活気があるように感じられた。


「……変わるモンだな。三十年もありゃ」


 通り抜けるような僅かな寂寞感に、チリーはらしくないなと溜息をつく。

 感傷に浸ることは、意味がないことのように思えた。

 既に過ぎ去ったことは、もう戻りはしないのだから。


「このブローチでわかる人がいないかしら」


 そんなチリーの隣で、ミラルがブローチを取り出す。

 何度見ても息を呑むような美しさの宝石だ。ちょっとやそっとの宝石ではない。これがどこかの王族の持ち物だと言われても違和感がない程だ。


 ミラルがその美しさに魅入られた――その僅かな一瞬だった。


「……えっ?」


 背後から、薄汚れた少年がぶつかってくる。その瞬間、少年はミラルの持っていたブローチを素早くひったくった。


「……この馬鹿」


 小さく嘆息して、チリーは困惑するミラルをその場に放置してすぐに少年を追いかけた。

 チリーが少年に追いつくまで、ほとんど時間はかからない。

 そのまま追い越して先回りしてチリーが立ちはだかると、少年はチリーに正面から勢いよくぶつかった。


「俺達からひったくろうなんていい度胸してんじゃねえか」


 尻もちをつく少年を、チリーは見下ろしながら両手を組んで見せる。


「さっさとそいつを置いて消えな。痛い目に遭いたくなかったら……な゛ッ!?」


 突如、目に飛び込んできた砂によってチリーは怯んでしまう。


「うっせーばーか!」


 なんとこの少年、ポケットに入れておいた砂を咄嗟にチリーの顔面に投げつけたのである。


 チリーが怯んだ隙に逃げ出していく少年の背中を見て、チリーは静かに笑った。


「……ふっ」


 そして次の瞬間には、顔を引き攣らせながら怒りを露わにしていた。


「上等だクソガキ! 俺を怒らせるとどうなるか教えてやらァーーーーッ!」


 少年がチリーによって捕らえられたのは、それからわずか数秒後のことであった。



***



 ミラルがチリー達に追いついたのは、丁度少年がチリーに捕らえられた頃だった。

 チリーに首根っこを捕まえられ、少年の身体はプラプラと揺れている。必死でもがいているようだったが、そう簡単には逃げられないだろう。


「さて、ぶっ飛ばされる覚悟はあるんだろうなァ?」

「クソ! 離せ!」


 少年の手にはしっかりとブローチが握られたままだ。ひとまずミラルは、奪われたブローチを取り返す。


「ダメじゃない。人のもの盗ったりしちゃ」

「うるせえな! 関係ねえだろ説教すんな!」


 年の頃はまだ十もいかないくらいだろうか。身なりはあまり良くなく、着ているシャツやズボンは薄汚れている。

 くしゃくしゃの黒い短髪は自分で切っているのか、かなり乱れているように見えた。


「子供相手に本気になりやがって! 大人げねーんだよ!」

「おーおー悪かったな、大人げなくってよー」


 そんなことを言いつつも、チリーは首根っこを掴んだまま少年を片手で振り回す。流石に加減はしているようだったが、その光景の大人気なさにミラルは頭を抱えた。


「チリー、やめてあげて」

「へいへい。……ったく、金がねーなら他を当たりなクソガキ」

「どこもダメよ」


 ひとまず揺れと回転から解放された少年は、チリーをキッと睨みつける。


「お前ら覚えてろよ! お前らなんか、俺がエリクシアンになったらボコボコにして丸めて井戸に詰めてやるからな!」

「こら! 井戸が詰まったらみんなが困るのよ!」

「そこじゃねえだろ……」


 ミラルのズレたコメントの方に一度気を取られるチリーだったが、少年の”エリクシアン”という言葉を聞き逃してはいない。


「お前、今エリクシアンっつったか?」


 チリーが問い返すと、少年は口角を釣り上げて見せながらチリーを鼻で笑う。


「なんだお前、そんなことも知らないのか?」

「自分の状況がまだよくわかんねえらしいな」


 再びチリーに振り回される少年の、哀れな叫び声が周囲に響き渡った。


***



 少年はマテューと名乗った。

 ミラルの説得により、ようやくチリーの手から解放されたマテューは、ポケットの中から小瓶を取り出すとそれを得意げにミラル達に見せつけた。


「見ろ、これがエリクサーだ! この小瓶いっぱいにエリクサーがたまれば、俺だってエリクシアンになれるんだよ!」


 小瓶の中に入っているのは、薄い赤色の液体だった。


「今はまだこれだけしか買えないけど、今に小瓶いっぱいにエリクサーを買うからな!」


 ミラルはそれをまじまじと見つめていたが、チリーはそれを一瞥した後、真剣な表情でマテューへ視線を向ける。


「やめとけ、エリクシアンになんかなってどうすんだ」

「俺が強くなれば何でも自由になる。今よりいくらでもいい生活が出来るだろ」


 マテューの目は真剣そのものだった。

 その目をまっすぐに見つめ返し、チリーは再び口を開く。


「強けりゃいいってモンでもねえよ。力だけあっても、出来ねえことは出来ねえ。闇雲に邪道で強くなろうとしたって何にもならねえぞ」


 チリーの言葉に、マテューは一瞬虚を突かれたかのような表情を見せる。

 そして数秒考え込むような表情を見せていたが、やがて何も言わずにチリーへ背を向けて走り去って行った。


「言いたいことはわかるけど、もう少し優しく言ってあげても良かったんじゃない?」

「……あのエリクサー、ニセモンだぜ」

「え?」


 ミラルの言葉には答えず、チリーはマテューの背中を見つめながらそう呟く。


「俺は同類やエリクサーのことはなんとなくわかンだよ。アレは違うぜ、ただの赤い水だ」

「そんな……じゃあ騙されてるってこと?」

「多分な。まあどーでもいいだろ。さっさとラウラを探そうぜ」


 しばらくはマテューの走って行った方向を見ていたチリーだったが、やがてどうでも良さそうに背を向ける。


「ダメよ。教えてあげなきゃかわいそうだわ」


 しかしチリーの背中に、ミラルがそんな言葉を投げかけたものだから、チリーは井戸のように深い溜息をわざとらしく吐いてから振り向いた。


「あーのーなー! 一々ああいう連中に関わってっとキリねーぞ!?」

「だからって、知ってしまったら放っておけないわよ!」


 チリーからすれば、物を盗んだ挙げ句砂までかけてくるような他人にわざわざ助言してやろうなどという発想は理解し難い。顔をしかめるチリーだったが、ミラルは簡単には引かなかった。


「どの道ラウラって人を捜すために町中を調べないといけないんだから、そのついでだと思えばいいじゃないの」

「……まあそりゃそーだが……」


 なるほどそれなら手間はほとんど一緒だと思ったが、どうも丸め込まれた感じがして気に入らない。

 別行動を取るわけにもいかず、チリーは渋々ミラルと共にマテューの元へ向かうことを承諾する。

 その道中もラウラを探さなければならないのだが、例のブローチを見せて回るのはまた余計なトラブルを招きかねない。似顔絵どころか人相すらわからないため、名前を頼りに調べるしかなさそうだった。




「ラウラ、ねえ。この辺じゃ特に聞かないかなぁ」


 辺りを歩いている人に何度か聞いてみたが、ラウラを知る者は見つからない。もしチリーの予想通りヴィオラ・クレインの関係者なのだとしたら、身を隠している可能性もある。


 聞き込みをするミラルを少し後ろから眺めつつ、チリーは小さく溜息をつく。

 表通りを歩いている人間は先程までより増えている、全員に聞いて回るのは難しいだろう。気を抜けば、雑踏に紛れてお互いに見失いかねない。


 日が落ちるまでに何かしら手がかりが掴めればいいが、そううまくはいかないだろう。今日はどうやって一晩明かすか、チリーが真面目に考え始めていると後ろから肩を叩かれた。


「あ? ンだよ」


 ぶっきらぼうに振り返ると、そこにいたのは武装した男達だった。


「お前だな。小さな子供を追いかけ回していたという不審な人物は」

「ありゃあのガキがわりーんだろうが」

「見慣れん顔だな、こっちへ来い」

「あ、おい! 離せ!」


 二人がかりで羽交い締めにされ、チリーは身動きが取れなくなる。勿論、なりふり構わず暴れればどうとでもなったが、ある程度武装した憲兵相手にチリーが暴れれば怪我をさせずに、というのは難しい。それに、事を荒立てれば更に面倒なことになる。

 どうすべきか決めあぐねている間に、ミラルの方は後ろからチリーがついてきていると信じてそのまま聞き込みを続けていた。


「おい、待て! ミラル!」

「いいからこっちへ来い!」


 憲兵達に引きずられ、雑踏に飲み込まれるチリーの声はミラルには届かない。


「……チリー?」


 ミラルが振り向いた時にはもう、チリーは見えなくなっていた。



***



「チリー! チリー!?」


 いつの間にか見失ったチリーを捜して、ミラルはそこら中を練り歩いていた。そうしている内に道に迷ってしまい、気がつけばミラルは表通りから外れて路地裏に足を踏み入れてしまう。


「なに迷子になってるのよ……。いや、もしかして私が迷子なんじゃ……?」


 もう少しチリーの位置を確認しながら聞き込みをするべきだったのかも知れない。


 捜している内に入り込んでしまった路地裏の光景は、先程までのフェキタスシティとは全くイメージの違うものだった。

 古びた家が密集しており、路地には薄汚れた老人が平気で寝そべっている。彼らは少し身なりの良いミラルの姿を見つけると、驚いて視線を集中させた。

 所謂(いわゆる)スラム地区である。


 フェキタスシティのような王都付近の栄えた町では、このような貧困層の密集地帯が当たり前にある。存在そのものは父から聞いていたが、ミラルはこのような光景を目にするのは初めてだった。

 実のところ、ミラルにとっては「まさか本当にあるとは思っていなかった場所」であった。


 次第に、ミラルを見つめる者達の視線がギラつき始める。

 チリーがいない今、何かあったら対応し切れない。

 引き返そうとしていると、不意にミラルの手を誰かが掴む。

 ひんやりとした感触に肩をビクつかせると、下から怒声が聞こえた。


「何してんだよこんなとこで! こっち来い!」


 そこにいたのは、ミラルのブローチを盗もうとした少年、マテューだった。

 ミラルはマテューに手を引かれるまま走り出し、一軒の家の中に連れ込まれる。

 家というよりは、ほとんど小屋のような木造建築だ。


 中に入ると、まずミラルは暖炉が見当たらないことに驚いた。

 ベッドはなく、敷物と薄い毛布が置かれているだけで、台所やトイレも見当たらない。風呂場などもってのほかだ。

 ミラルの住んでいた世界とは、あまりにもかけ離れている。

 家の中には、マテューより幼い男の子と女の子がおり、ミラルを見て目を丸くしていた。


「……そんなに珍しいかよ」

「あ、その……ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」

「まあいいさ。すぐにこんな生活抜けてやる」


 言いつつ、マテューはミラルを中に入るよう促す。


「さっきのあの……目つきの悪くて大人げない暴力男は?」


 大して間違っていないので始末が悪い。苦笑しつつ、ミラルはかぶりを振る。


「チリーとはちょっと……はぐれちゃって……」

「なんかぼーっとしてんなアンタって」

「し、してないわよ! 先にいなくなったのはチリーの方よ! ……多分」


 多分、と自信なさげに付け足すミラルを面白がり、マテューは笑みをこぼす。ブローチを守るように懐に手を置くミラルだったが、マテューの方は何かしようとする気配はなかった。


「トイレから帰ろうと思ったらアンタがいたモンだから、何かの見間違いかと思ったよ」


 ミラルの家は、一般的には富裕層に含まれる家だ。そのため家の中にトイレがあるのは当たり前のことだったが、庶民、特にこのような貧民層の場合は共用トイレが使われることが多い。


「まあいいや、アンタに何かあるとあいつに何されるかわかんねえし、後で表通りまで送ってってやるよ」

「いいの? ありがとう。でもどうして?」

「ん……まあ、アンタが止めなかったらあいつに死ぬまで振り回されてたかも知れねえからな……」


 気恥ずかしそうに応えるマテューの様子は、年相応の子供と言った印象だ。盗みは許されない行為だが、マテューは根っからの悪い子供というわけではないらしい。


「でも俺じゃどうしようもねえから、ロブ兄ちゃんに頼むけどな」

「へえ、お兄さんがいるのね」

「血は繋がってないけど、俺にとっちゃほんとに兄貴みたいなものなんだ……」


 そのままぽつぽつと、マテューはロブについて話し始める。

 マテューは元々、この家で母親と二人で住んでいたのだ。

 しかし母は病に冒され、一年前に亡くなった。その時、マテューの世話をしてくれたのがロブという男なのだ。


「アンとベイブも、同じくらいの時期かな。捨てられて野垂れ死にかけてたのを、俺が見つけて食い物を分けてやったら家までついてきてさ」


 呆れたような物言いだったが、マテューはアンとベイブを見て穏やかに微笑む。彼らも血が繋がっていないようだが、マテューにとっては大切な家族のようだ。


「ここじゃ弱い奴が死んでいく。だから俺はエリクシアンになって、強くなる」

「……そういうことだったのね……」


 マテューが何故エリクシアンになりたいだなんて言い出したのか、合点がいってミラルは深く考え込む。きっとそれは、マテューにとっては今の生活を生き抜くための目標なのだ。そんなマテューにあのエリクサーが偽物だと伝えれば、ひどくショックを受けることになるだろう。


「……エリクサーは、誰から買ってるの?」


 ミラルがそう問うと、マテューはしばらく難しそうな顔をしていたが、やがてミラルを手招きする。


「こっそり教えてやる。どうせお前買わないだろ」


 身をかがめてミラルが耳を預けると、マテューは少し上ずりながらも小声でこう言った。


「ロブ兄ちゃんだよ」

「えっ……」

「盗みも全部ロブ兄ちゃんが教えてくれたんだ。それで少しずつ金を出せば、少しずつエリクサーを分けてくれるんだぜ。誰にも言うなよ? 俺のエリクサーがなくなっちまうからな」


 マテューのその言葉に、ミラルは愕然とした。

 もしチリーの言っていたことが本当なら、ロブがマテューを騙して金を稼いでいることになる。


「……ねえ、エリクサーのことなんだけど」

「ん? なんだよ?」


 マテューの瞳は、嫌になるくらい純粋だった。

 きっと盗みだって、悪意を持ってやっていたわけではないのだ。

 ロブに言われるがまま、それこそが幼い自分が金を稼ぐ手段だと信じて行っていたのだろう。


 やるせない気持ちに締め付けられて、口にするのが苦しい。

 それでもミラルは、真実を伝えずにはいられなかった。

 不当なものが、不当な価格で、不当に取引され、幼い子供が搾取されている。

 例えこれが世の中に蔓延しているものだとしても。

 ミラルにとっては、目の当たりにして見過ごせることではない。


「そのエリクサー……偽物よ」

「……え?」


 一瞬、マテューは唖然とする。だがすぐに、いたずらっぽい笑みを浮かべてミラルを小突いた。


「お前エリクサー知らねえんだろ! ロブ兄ちゃんは本物だって言ってたぜ」

「チリーはエリクシアンなのよ。だからなのかわからないけど、彼は、本物と偽物の区別がつくって言ってたわ」

「なんだよそれ! あんな奴がエリクシアンなわけ……」


 言いかけて、マテューはチリーの脚力と腕力を思い出す。

 マテューからすれば年上だが、チリーだって大人から見れば子供の体格なのだ。


 今までマテューは足の速さにだけは自信があったし、だからこそ旅行者から金を盗んでやっていくことが出来たのだ。そんなマテューをチリーは難なく追い抜き、あろうことか片手で振り回していた。いくらマテューが痩せ細っているとは言え、チリーの体格でそれは常識的に考えればおかしな話なのだ。


 思わず、マテューの背筋を冷たいものが駆け抜けた。

 知らない内に、マテューはエリクシアンに喧嘩を売っていたのだ。今更になって生きた心地がしなくなって、マテューは震えそうになる。


「じゃあ、あいつ……すげえ手加減して……」

「……その上で私はやり過ぎだったと思うけど……」


 とは言え、結局マテューには外傷がない。その辺り、チリー自身ある程度理解した上でのことだったのだろう。


「あいつは大人げないし乱暴だけど、くだらない嘘は吐かないと私は思ってる」

「いや、でも……」

「ロブって人は、エリクシアンなの?」

「……違う」


 しかしそれはロブが嘘を吐いているという決定的な証拠ではない。マテューは縋るようにロブのことを話す。


「ロブ兄ちゃんは、エリクサーにはあんまり興味がないって……金儲けの方が大事だって言ってたから……」


 語尾が先細っていく。

 マテューのロブへの信頼が揺らぎ始めた証拠だった。


「……俺、ロブ兄ちゃんに聞いてくる!」


 居ても立っても居られなくなったマテューは、すぐに家を飛び出そうとする。しかしそれと同時に、家のドアがそっと開かれた。


「ようマテュー、客か? 珍しいな」

「ロブ兄ちゃん!」


 現れたのは、金髪で褐色の優男だった。

 ある程度上等な衣類を身にまとっており、肩までの長髪もかなり整っている。

 マテュー達より遥かにいい生活をしている証拠だ。


「初めまして、俺はロブ。血は繋がってないがマテューの兄貴分ってところだ、よろしく」


 ロブは表面上、極めて友好的で善良な笑みを浮かべながらマテューの頭を撫でる。

 だがその笑みを、ミラルは信用出来ない。


 エリクサーの件だけなら、チリーだってミラルの個人的な感情や印象を除けばそれほど信用に足る話ではない。

 しかし、幼い子供に盗みを教えて、その稼ぎで自分の身なりを整えるような男の言う言葉を信頼出来るわけがない。少なくとも、ミラルにとっては。


 やや睨むような目つきになるミラルだったが、ロブは笑みを絶やさなかった。


「ロブ兄ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど……」


 そんな中、マテューがおずおずと話を切り出す。


「ん? どうした?」

「ロブ兄ちゃんの売ってくれるエリクサー……本物だよな?」

「何言ってんだよ、俺を疑うのか?」


 ロブは全く態度を崩さなかった。

 それどころか、マテューを安心させるように抱き寄せる。


「心配すんな。エリクシアンになって、強くなってアンとベイブを守るんだろ? 一緒に頑張ろうぜ!」


 そう言ってロブはマテューの肩を優しく叩いて見せたが、マテューの表情は曇ったままだ。

 ロブを信じたいのがマテューの本音だ。今だってこうして優しくしてくれるロブは、マテューにとっては本当に兄のような人物なのだ。


「それより、今日の分は稼げたか?」

「え? ああ、ごめん、ダメだった……」


 今日の分、とは盗みのことだろう。

 マテューはしゅんと肩を下げたが、ロブは特に気にする様子もなく、ミラルへ視線を向けた。


「気にすんな。それに今日はもう十分だしな」

「え……?」


 マテューが戸惑いの声を上げたのと、ロブがミラルの肩を掴んだのはほとんど同時だった。


「ちょっと! 何するのよ!?」

「マテュー、お前やっぱり最高だよ! 今日はエリクサー、小瓶の半分くらいまでやるよ」


 力強く、ロブはミラルを抱き寄せる。その痛みで表情を歪めるミラルだったが、ロブは気にとめる様子はない。


「ロブ兄ちゃん、待ってくれ! そいつはただの客で……」

「マテュー、俺教えただろ? 自分と身内以外は全員敵で獲物だって。こんな女、獲物以外の何物でもねえだろ」


 ロブのぎらついた視線が、ミラルを舐め回す。

 必死に逃げ出そうともがくミラルだったが、その華奢な体躯では抜け出すことは出来ない。


「ロブ兄ちゃん! エリクサーは今度また、金が入ってからでいいから! そいつは帰らせてやってくれよ!」


 マテューにとっても、元々ミラルはただの獲物だった。最初に見た時はぼーっとした間抜けな、金目の物を持った旅人に過ぎなかった。


 表通りでのマテューは薄汚れたネズミで、いつだって餌を探して這いずり回っていた。うまくいけば罵られるだけですみ、失敗すれば蹴り飛ばされる。憲兵に捕まってしばらく牢屋に放り込まれていたことだってあったのだ。

 クズだの害虫だの、必ず罵詈雑言を浴びせられてきたマテューにとって、ミラルのような反応を示す人間は初めてだった。


 マテューを叱りつけて正そうとしたのは、母親とミラルだけだ。


「頼むよロブ兄ちゃん!」


 しがみついて頼み込むマテューを、ロブはミラルを掴んだまま見下ろす。

 そして一度にっこりと微笑むと――――マテューの顔面を容赦なく蹴りつけた。


「マテュー兄ちゃん!」


 アンとベイブの、悲鳴のような声が響く。呼応するように、ガタついた家が軋む音がした。


「なんてことするのよ!」

「そりゃこっちの台詞だよ。うちのていの良い子分に余計なこと吹き込みやがって」


 マテューは、今何が起こっているのかほとんど理解出来ていないかのようだった。

 ただ呆然とロブを見つめて、蹴られた額を右手で抑えている。


「この! 離しなさいよ!」


 なんとか抜け出そうとするミラルっだったが、その腹部にはロブの拳が叩き込まれる。

 小さくうめき声を上げてうずくまりそうになるミラルを、ロブは乱雑に抱きとめた。


「ロブ兄ちゃん……なんで……?」

「マテュー、お前はもう使えねえから今日で解雇だ」

「それ……どういう……」


 問いかけようとするマテューを、ロブは再び蹴りつける。


「使えそうなガキは他にも何匹か手懐けてあるんだよ。こいつを使ってな」


 言いながらロブが取り出したのは、赤い液体の入った瓶だ。それを見た瞬間、マテューは目の色を変える。


「え、エリクサー……!」


 そう、この瓶こそが、ロブが持っている”エリクサー”なのだ。

 ロブはエリクサーの瓶をしばらく手の中で弄んだ後、蓋を開けると中身を倒れているマテューの顔に叩きつけた。


「こんなモンただの血の混じった水だよ」

「あ……」


 薄っすらと赤いだけの液体が、マテューの顔を濡らす。ポタポタと垂れた液体が、汚れた床を汚した。


「お前らが強くなりてえってうるせえから夢見せてやったんだろうが!」


 愕然とするマテューの頭を、ロブが踏みつける。

 もう、マテューは抵抗する気力さえなかった。


「第一、エリクサーなんてあんなら俺が真っ先に自分で飲んでるっつーの!」


 何度も、何度も踏みつける。

 もう既にひしゃげてしまった心を、念入りに押しつぶす。


 ミラルの悲鳴が無意味に響く。


 こんな場所に正義はない。

 ネズミだ害虫だと罵られた連中が行き着いて、くたばるまで這いずるのがこの場所だ。


「お前みたいなバカガキはなァ! 一生強くなんてなれねえよ!」


 心を潰され。

 尊厳を潰され。

 これ以上何を踏み潰すというのか。


 繰り返される冒涜に、マテューはただ涙を流すことしか出来ない。


「死ぬまで俺みたいなのの使いっぱしりにされて、地べたを這いつくばって生きるしかねえんだよッ!」


 もう、歯を食いしばることさえ出来ない。

 マテューが全てを諦めて意識を手放しかけた――その時だった。


「代わりはいくらでもいるんだよ! お前なんかいら…………ッ!?」


 突如、ロブが動きを止める。

 かと思えば、この世の終わりとでも言わんばかりの絶叫を上げ始めたのだ。


 ミラルも放し、マテューを踏むのもやめ、自身の股間を両手で抑えながら、ロブはふらふらしながら家の入り口へ目を向けた。


「おま……どこ……蹴っ……」


 そこにいたのは、憲兵に連れて行かれたハズのチリーだった。

 彼はこの家に入るなり、ロブの股間を思い切り蹴りつけたのである。


「やかましい。外まで聞こえてんだよテメエの話は」


 ダメージから全く復帰できずにふらつくロブだったが、チリーはその胸ぐらを容赦なくつかむと、顔と顔を突き合わせてギロリと睨みつけた。


「テメエみてえなクズは一生地べた這いつくばって生きてろよ」

「ひっ……」

「クズの分際で、今から這い上がれる奴の足引っ張ってンじゃねェッ!」


 そのままチリーは、ロブの顔面に左フックを叩き込む。

 頬骨が砕かれんばかりの勢いで殴られたロブは、そのまま吹っ飛んで壁に叩きつけられた。流石にチリーも加減したのか、壁を突き破る程の勢いでは殴っていなかったようだ。

 そして無様に倒れ込むロブを片手で引きずると、そのまま家の外へ放り投げる。


「ぶちのめされたくなかったら、とっとと失せろッ!」

「……もうぶちのめしてるじゃないの……」


 家の外で気絶しているロブの周囲に、薄汚れた住民達が近寄っていく。


「あ、ちょっと!」


 すぐに止めに入ろうとするミラルだったが、チリーはそれを右手で制止した。


「ほっとけ」

「でも……!」

「クズにゃ当然の報いじゃねえか」


 やがて住民達は取り合うようにしてロブの衣類や所持品を奪い取ると、何処かへと去って行った。


「……ありがとう。助けに来てくれたのね」

「お前に何かあると後々めんどくせーからな」

「ていうかどこ行ってたの」

「……色々あってな」


 憲兵に連れて行かれかけたチリーだったが、マテューの名前を出して説明すれば憲兵達はある程度事情を理解してくれた。この町ではある程度名の通った悪ガキで、憲兵に追われたことも一度や二度ではないらしい。

 見かけない顔のチリーが子供を追いかけ回しているのを見た町人が慌てて憲兵に報告したようで、ひとまず厳重注意だけで解放されたのである。

 余計に時間がかかったのは、チリーの態度と口が悪かったせいなのだが。


 その辺りの説明は後に回し、チリーは倒れたマテューの顔を覗き込む。


「よー、気分はどうだ?」

「……最悪だよ。クソ、しかもお前なんかに……助けられちまって……」


 たまらずもう一度泣き出すマテューに、チリーは小さくため息をつく。


「だから言ったろ。闇雲に邪道で力を手に入れようとしたって、何にもならねえってな」


 マテューは、言い返そうとはしなかった。

 なんとか涙をこらえようと嗚咽を漏らすマテューに、チリーは言葉を続ける。


「……俺がそのクチでな。力だけ強くなっちまって、他には何にも身についちゃいねえ」


 エリクシアンとしての力には、過程が存在しない。

 特にチリーにとっては、突然手に入ってしまった身に余る力なのだ。

 力は、強さは、手に入れるまでの過程を含めてこそ意味を持つ。


「だから、俺はなんにも守れなかったぜ」

「チリー……」


 遥か遠い、どこかを見る赤い瞳。そこに何が映っているのか、ミラル達には想像することも難しかった。

 ただどこか、悲しげで。さみしげで。

 深い悔恨だけが顔を覗かせていた。


「俺みてえになりたくなかったら、お前はまともな方法で強くなれよ」


 そう言ってチリーは、隅で不安そうにマテューを見つめるアンとベイブに目を向ける。


「やり方はともかく、それでもお前はガキ共を守ってたンだろ」


 チリーがわずかに微笑んで見せると、アンとベイブはようやく安心したのかマテューの元へ駆け寄ってくる。

 マテューはなんとか身体を起こし、飛び込んでくる二人を抱き止めた。

 傷ついた心と身体に、温かいものが染み込んでくる。

 その感触はどこか痛みを伴うものだったけれど、いつまでも忘れたくないと思えるものだった。


「ちったぁつええじゃねえか」

「……へへっ」


 チリーがマテューの頭に手を乗せると、マテューは初めて屈託のない笑みを見せた。



***



 気休め程度にしか出来なかったが、ミラルはすぐにマテューの応急処置を始めた。とは言っても、布である程度止血するくらいしか出来ないのだが。

 ミラル自身も何度か殴られているものの、マテューに比べれば大したことはない。


「まずは孤児院に連れて行かないとね」

「そこまで面倒見んのかよ!」

「だってほっとけないでしょー!」


 流石のチリーも、もうミラルはこういう人間なのだと諦めた方がいいのではないかと考え始めてしまう。


「……頼む……じゃない。お願い、します……」


 そんな話をしていると、黙っていたマテューがそう言って頭を下げる。


「それと……ありがとう。色々……」


 やや気恥ずかしそうに礼を言うマテューに、ミラルは優しく微笑みかけた。


「そんなに気にしなくていいのに」

「きっともう、アンもベイブも俺だけじゃ守れないから……こいつらだけでも……ちゃんと食わせてやりたいんだ」

「心配しなくても、なるべく三人一緒に受け入れてもらえるよう、話してみるわ」


 ミラルの言葉を聞いて、マテュー達は顔を見合わせて安堵した。

 本来は母親が死んだ時点で孤児院に預けられるべきだったのだ。恐らく母はそんな暇もないまま病で死に、誰よりもはやくロブが接触したのだろう。

 もしミラルやチリーが関わらなければどうなっていたのか……ミラルは少し想像するだけでもゾッとした。


「おー、そういやお前ら、一応聞いとくんだがラウラって知らねえか?」


 あまり期待せずにチリーがそう問うと、マテューは何か思い当たるのか表情を変える。


「……聞いたことあるよ」

「何だと!?」

「ここよりちょっと西の方の区画で、そう呼ばれてる人がいたの見たことある。妙に身なりが綺麗だったからよく覚えてるよ」


 マテューの言葉に、チリーとミラルは思わず顔を見合わせる。

 ラウラに関する手がかりは、この町にいる、という情報だけだったのだ。

 予想外の形での進展に、二人は驚きを隠せない。


「礼にもなんないと思うけど、案内するよ」

「何言ってやがる。これ以上の礼なんざねえよ」


 ニッと笑うチリーに、マテューは嬉しそうに微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る