第43話 選んだ運命
シャイラは悲鳴を押し殺すため、拳を口に押し当てていた。
フィスクの右肩、深く裂けた傷口から鮮血が滴っている。腕はだらりと垂れ下がり、動く様子はない。
大剣を携えた魔王が、花畑に膝をついたフィスクの傍にゆっくりと歩いていく。そして、今になって思い出したかのように、ちらりとこちらを見た。
この光景を、知っていた。
凍り付く。この先を二度と見たくないと、願っていたはずだった。そのためのひと月だった。
魔王が大剣を振り上げ、切っ先を下に向ける。
最初に感じていた恐怖など、気づけばどこかへ消えていた。
「魔王!!」
叫ぶ。この戦いで、シャイラにできることなんてそれくらいだった。
だが驚くべきことに、魔王が一瞬だけ、動きを止めた。
大剣の切っ先が微かに揺れる。
魔王が初めて見せた、一秒にも満たない隙。そこを縫うように突き出された銀の槍。目を見開いた魔王が、大きく身を捩った。
跳ねるように伸び上がったフィスクが、左腕のみで槍を薙ぎ払う。一歩、二歩と下がる魔王を追って、槍の穂先が縦横無尽に閃く。
突き、払い、受け、斬る、斬る、斬る。
上段から振り下ろされた大剣を柄で打ち払い、翻った石突きが魔王の胸を強烈に殴打する。
「――ラーガ」
フィスクの手から、風の刃が迸った。
「お前はもう、二度と俺に勝てない」
よろめいた魔王は風の魔法をかき消そうと左腕を掲げ、――その肘から先が、いとも呆気なく斬り飛ばされた。
魔王の落とした大剣が、地面に深く突き刺さる。左腕の傷口を抑え、魔王はその場に立ち尽くした。
呻き声を上げるどころか、表情すら変わらないのは魔王としての矜持だろうか。しかし、もはや勝負はついていた。
「……忌々しい」
血を吐くような声で呪いを吐く魔王。精錬された憎悪の籠もった目は、フィスクにのみ向けられている。
「貴様はいつも……、おれの神経を踏みにじる」
それなのに、どうしてだろう。魔王は遠く別の、フィスクとは違う誰かを見ているようだった。
フィスクは少しだけ目を眇める。
「俺の知ったことじゃない」
切り捨てる声はいつにも増して冷たく、怒りに満ちていた。魔王の持つ憎悪に負けないほど、強い怒りに。
「お前の気持ちなど、俺が知ったことか。それを慮ってくれるひとたちを切り捨てて、お前はここまで来たんだろう」
魔王は虚を突かれた顔をした。殺意の覆いが剥がれて落ちて、素の驚きが露わになる。
そうすると、そこにいるのはただの男だった。揺らいだ視線がシーレシアの城壁を見上げ、そして、シャイラの方を見る。
改めて正面から見る魔王は、意外にも涼しげに整った顔立ちをしていた。シャイラの父親というには、少し若く見える。神秘的な美貌を持つフィスクとは何もかもが違うが、刃のような視線の鋭さだけは同じだった。
腕からの出血のせいだろうか、青褪めた唇が、小さく動く。
「……シャイラ……」
名前を知っていたのか、と思った。そして、顔が分かるのか、とも。
だってシャイラは、父親のことを何も知らないでいたのに。
名前も、顔も、その存在すらも。
「お前は、」
魔王が掠れた声で、何かを言いかける。シャイラに語り掛けようとしている。
続く言葉を、聞きたくなかった。
「あなたは私のお父さんじゃない」
口をついて出たのは、否定だった。
声に出して初めて、自分の感情を自覚する。
「私に、お父さんはいない。……いなくたって、私はもう自分の幸せを選べる」
ずっと、そうだった。シャイラに父親はいない。母と二人きりの家が当たり前だった。父と呼べる存在などいなかった。
薄情と思われるかもしれない。もしかしたら、本当に彼は、シャイラの幸せを祈ってくれていたのかもしれない。
でも。
魔王は、フィスクを殺すことだけを考えていた。シャイラのことなど、見てもいなかった。
それが答えだと、思うのだ。
「……この運命を選んだのは、おれか」
ぽつりと落ちていた腕が、音もなく風に溶けて消えていく。魔王は黒い羽を広げ、高く舞い上がった。シャイラとフィスクを等分に見比べて、
「今は退いておこう」
「ここで逃げても、俺がお前を殺すことに変わりはないぞ」
フィスクは無理に追いかけようとはしなかった。よく見れば、彼の顔も血の気が無い。右肩からの出血は、まだ止まっていなかった。
睨み上げるフィスクを上空から見下ろし、魔王はどこか自嘲気味に笑った。
「女神はおれを、死なせやしない」
それを最後に、魔王は飛び去って行った。瞬き一つの間に、その姿が遠く見えなくなる。
随分とあっさりした、戦いの終わりだった。
呆然と空を見上げ立ち尽くす。唐突に訪れた開放感について行けず、シャイラはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「勝っ、た……?」
魔王は撤退を選んだ。フィスクを殺すためにやって来て、戦い、けれど目的を果たすことはできず。
どちらかが死ぬまで、本当の意味で戦いが終わることは無い。
けれど今、この瞬間においては。フィスクが生きている。この現実こそが、ひとつの勝利の証だった。
荒れた花畑を、そよ風が優しく流れる。シャイラの髪を揺らし、フィスクの翼を撫でて、通り過ぎてゆく。
「……ぅっ」
思い出したように肩を押さえたフィスクが、ふらりとその場に座り込んだ。背中を丸め、小さく呻く。そのまま、動かなくなった。
シャイラは慌てて駆け寄り、膝をついてフィスクの顔を下から覗き込んだ。
「ああ……。大丈夫。大丈夫だ……」
フィスクは、美しく整った顔立ちをぐしゃぐしゃに歪めて、ぽたぽたと涙を落としていた。小さな雫がいくつも、地面に吸い込まれていく。
『風の涙』だ。
どこか遠い場所で降る雨を、風の精霊たちが運んでくる。晴れ渡った空から降り注ぐ、優しい祝福の雨。
はらり。ほろり。ほたり。
風の涙が、たくさん落ちてくる。
「全然、こんなつもり……、ちょっと待ってくれ。とまらない。とまらないんだ……」
涙をめちゃくちゃに拭おうとしたフィスクの手を止めて、シャイラは彼の頭を抱きしめた。
「シャイラ、シャイラ。俺も、お前も、ちゃんと生きてる……。一緒に、いられる……?」
「うん。そうだよ、フィスク。そうだよ」
視界が滲む。シャイラの頬も冷たく濡れて、声が震えるのを抑えきれない。
「ずっと一緒にいよう。生きていこうよ、二人で」
そして、いつか一緒に死ねたなら、それ以上に幸せなことなんて、どこにも無いのだ。
泣きながら笑ったフィスクが、シャイラの背に片腕を回す。
それ以上、二人の間に言葉はなく、ただ、しっかりと抱き締めあって互いの温もりを刻み込んでいた。
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