第32話 助けたいなら
三人で暮らし始めて、四日が経った。
「フィスク、おはよう。体調はどう?」
フィスクの部屋の扉をノックする。そう時間を置かず、返事が聞こえた。
「悪くない」
部屋の内側から扉が開いて、髪を後ろで一つに纏めたフィスクが出てくる。髪を下ろしている時にはあまり見えない、滑らかな下顎のラインが美しい。つくづく、現実感のない美貌だと実感する。
「おはよう、シャイラ」
小さな欠伸をするフィスクの顔色は、確かに悪くなかった。シャイラが差し出した手を、自然な動きでするりと握る。
「今日はね、少し肌寒いから、トマトのスープを作ろうと思って。何を入れよう? 朝からお肉を入れると、お母さんが嫌がるんだよね」
「なんで。肉はいつ食べてもいいだろ」
「だよねえ。うん、牛肉あるし入れよっか。お母さんの分はお肉を抜いておけばいいよね」
二人で手を繋いだまま台所へ降りる。エリーシャの姿はないが、畑に繋がる扉が開いており、水を撒く音が聞こえた。
裏口、エリーシャに呼びかける。
「お母さんおはよー。朝ご飯、トマトのスープでいい?」
「おはよう。いいけど、肉は入れないでよ」
「えー。もう入れるって決めちゃった」
振り向いて小さく舌を出すと、フィスクは呆れたように肩をすくめた。
そして、飄々とした口調で言った。
「入れてしまえ」
作る奴の特権だ、と言い切るフィスクに、シャイラは声を上げて笑ってしまった。
「お母さんのためにサラダも用意しよっか」
「美味いドレッシングのレシピ、知ってるぞ」
朝食を終えて、シャイラとエリーシャで片付けをする。フィスクが用意したサラダは、エリーシャのお気に召したようだった。
「いい子ね、フィスクくん」
しみじみと呟きながら皿を洗うエリーシャ。そのフィスクはといえば、忘れ物をしたと部屋に戻っている。
「私のことも、ちょっと身構えはするけど、嫌な顔はしないし。人が嫌い、というのもあるんだろうけど、怖がってるようにも見えるわ」
「……そう?」
「似たような眼をしたひとを、知っているわ。でも多分、フィスクくんの方が強いと思う」
エリーシャの手が止まっていることに気付いて、シャイラは母の顔を見上げた。
「……フィスクくん、この四日で顔色が大分良くなったわね」
「え、うん……」
「ちょっと半信半疑だったけど、シャイラが近くにいると回復するって本当なのね」
そうだ。だから一緒にいると決めたのだ。魔王が攻めてくる時まで、彼を消耗させるわけにはいかない。
それ以外にできることが、あればいいのに。とにかく今は一緒にいて、彼の回復を待つことしかできない。他に打つ手を見つけたいが、人間界にある情報だけでは足りない可能性が高そうだ。
(何もできないままだったら、どうしよう)
胸の奥がどくりと跳ねた。
成り行きでフィスクのことを知ったコーニが教会での調べ物を担当してくれているが、やはり手立ては見つからない。
魔王が来るまでに、何か、何か。
「シャイラ」
母につられて手を止めていたシャイラは、名前を呼ばれて瞬きをした。
「なに? お母さん」
「フィスクくんを助けたいって、心の底から思ってるのよね?」
思わぬ言葉を受けて、目を瞠る。
フィスクが精霊であること。シャイラが傍にいなければ死んでしまうこと。それは話したけれど、詳しい事情については教えていない。
何も知らないはずのエリーシャが、真剣な顔をしている。一体どこまでを察して、そんなことを聞くのだろう。
シャイラは気圧されたまま小さく唾を飲み込み、こくりと一つ頷いた。
「……それなら、」
エリーシャが躊躇したように言葉を止めた時、フィスクが台所に戻ってきた。
「シャイラ、このナイフを研ぎに……。すまない、話の邪魔をしたか?」
割り込んだことに気付き、フィスクは眉を下げて謝る。だが、いつもの穏やかな表情に戻ったエリーシャが首を横に振った。
「大丈夫よ。シャイラ、先にフィスクくんの用事を聞いてあげなさい」
「わ、分かった」
エリーシャに拭いていた皿を取り上げられ、更に背中を押されて、シャイラは小さく頷いた。
「フィスク、どうしたの?」
少し戸惑っていたフィスクだが、エリーシャが片付けに戻ってしまったのを見て、おもむろに口を開いた。
「ナイフの切れ味が悪くなったから、手入れをしたいんだが」
「それなら、向かいの鍛冶屋さんに持っていけばいいよ。一緒に行く?」
ほっとしたように、フィスクは頷いた。
フィスクは木を彫って何かを作っているようで、手に持っているのは戦闘用でない普通のナイフだ。何を作っているのかは、頑なに教えてくれない。
シャイラはエプロンを外し、軽くスカートの裾を払った。エリーシャの話は気になるが、今はもう話してくれなさそうだ。
(お母さん、何を言おうとしたんだろう)
小さな疑問が、指に刺さった棘のようにシャイラの心に残った。
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