第20話 行動の理由
誰かが回収してくれていたバスケットは、運よく汚れも傾きもしていなかった。中のサンドウィッチが無事なことを確認して、シャイラはフィスクの待つ塔に急ぐ。朝食を食べずに待っていると聞いたからだ。
梯子の下に辿り着いたシャイラは、ノックする前に扉が開いたことに驚いて肩を跳ねさせた。こちらを見下ろしてくるフィスクは、どこか不機嫌そうに眉が寄っている。
「遅くなってごめんなさい。ちょっとトラブルがあって」
「それはどうでもいい」
フィスクは低い声で答え、いつもよりも優しい手つきでシャイラの体を持ち上げた。ふわりと床に下ろされ、まごついてしまう。
「あ、ありがとう……」
左手はやはり折れていた。今は固定して三角巾で吊ってある。治癒魔法が使える人間を呼んで治してもらおう、と言われたが、フィスクをさらに待たせるのが申し訳なくて断った。
その左腕に、フィスクがそっと手を添える。
「何故あんな危険なことをした」
「もしかして、見てた?」
「わざわざ飛び込む必要はなかっただろう。怪我までして」
「うん。でも、体が動いちゃって」
あそこでシャイラが動かなければ、コーニや司祭たちが怪我をしていた。もっと早くに今日のことを思い出していれば、しっかり対処できたはずなのに。それだけが悔やまれる。
フィスクの眉間の皺が深くなった。
「あいつは?」
「あいつって?」
「お前が庇っていた……、〈精霊の子〉」
「コーニのこと? 私の幼馴染なの。すごく頭が良くて、今は診療所で働いてるんだ」
「……幼馴染」
〈精霊の子〉が気になるのだろうか。シャイラが首を傾げると、フィスクは小さな声で囁いた。
「幼馴染だから、助けたのか」
彼が何を聞きたいのか分からず、思った通りを素直に答える。
「どうだろう……。コーニじゃなくても同じことをしたかも」
何が起きるのかを分かっていたから、動けただけだ。前回との違いはそれだけでしかない。あそこにいたのが誰だろうと、シャイラのやることは変わらなかっただろう。
「……腕を見せろ」
返事を聞く前に、シャイラの首の後ろに手が伸びて、三角巾の結び目が解かれた。
「折れてるだろう。治癒魔法は?」
「使える人が忙しくって、来るのに時間がかかるって聞いたから、まだかけてもらってないの。あ、でも痛み止めはもらったから、今は痛くないよ」
魔法は万能ではない。精霊たちに力を借りるだけの人間では、扱える範囲に限りがある。治癒魔法は水と土の複合なのだが、相性の悪い者が呪文を唱えても効果が得られない時がある。
魔道具で補助をすることもできるが、そういった複雑な魔道具は総じて高い。すぐ治療を受けることができる代わりに、莫大な治療費がかかる。ただの花屋に出せる金額ではない。司祭が教会で治療費を持つと言ってくれたが、それは流石に辞退した。
「明日には治癒魔法が受けられるから、それまでは……、あの、フィスク?」
添木のあてられた腕に、フィスクが手を翳す。
「……清め癒せ、土の道、水の糸」
くすんだ青と黄色、二色の光が煌いたかと思うと、腕に吸い込まれていった。これは見たことがあるから知っている。治癒魔法だ。だが、呪文は聞いたことがないものだった。
「あ、ありがとう」
「分かっていると思うが、治癒力を高めるための魔法だ。完全に治ったわけじゃないから、しばらくは固定したままにしていろ。少なくとも三日」
三角巾を元のように結び直してもらい、シャイラは椅子に座らされた。
優しいなと、思う。だって、シャイラは彼が嫌っている人間なのに。こんなにも気遣ってくれる。
左腕をそっと撫でて、傍に立つフィスクを見上げた。既に用意されていたお茶の隣に、バスケットから出したサンドウィッチを広げている。
「あの中でよく無事だったな、このバスケット」
「回廊の、柱の陰に落としていったから……」
妙に感心している様子のフィスクは、サンドウィッチをしげしげと眺めている。
その横顔に、静かに声をかけた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「……何を」
僅かに緊張を孕んだ声が返る。ここで間違えたら、突き放される気がした。
「さっきの魔法、聞いたことがない呪文だった」
こちらを見下ろしたフィスクの顔が、少し安堵しているように見えた。
「今人間が使っている呪文は、教会が自分たちの権力を誇示するために作った、無意味な呪文だからな。あんなに長々と詠唱する必要はない」
「そうなの?」
「特定の言葉さえ入っていれば、精霊たちは契約に従って魔法を起こす。丁寧に願いさえすれば、機嫌を損ねることも無い」
知っている呪文を思い浮かべて、先程フィスクが唱えた呪文も頭の中に並べる。
「風の魔法だったら、『風の唄』?」
「ああ」
火の魔法なら『火の華』だ、とフィスク。
「でも、精霊ってもう、人間の世界にはいないんじゃないの?」
前にコーニと話したことを思い出して、純粋な疑問をぶつけてみた。
「自然があれば、精霊はどこにでも生まれる。生まれたての精霊は姿が定まっていないから、目に映らない。成長して姿を得る頃には、精霊界に移動している。だから、まあ、人間からすればいないのと同じか」
「呪文に答えてくれるのは、その生まれたての精霊たち?」
「そうだ」
間抜けなため息がシャイラの口から洩れた。
「教会だから正しい、って訳じゃないのね。もしかして間違ってることも多いの?」
「そんなものだろう。権力を握った人間なんて」
吐き捨てるような、憎々しげな言葉が、シャイラに向けられないのがひたすらに不思議だった。別に、彼に嫌われたいわけではないけれど。
「精霊と人間の交流が無くなってから、何千年経ったと思う? 人間に都合のいいように歴史を捏造するのなんて、簡単なことだ」
「だったらどうして、」
ああ、駄目だ。
唇を噛んで下を向く。まだ駄目だと思った。シャイラだけが彼の傍にいることを許されているようで、その実、彼はまだシャイラのことを本当に認めたわけではない。
早く、聞かなければいけないのに。知らなければいけないのに。
たった一度のチャンスを逃すことを恐れて、ずっと同じ場所で足踏みをしている。
教会が嫌いなら、どうしてここで、一人きり、閉じこもっているの。本来なら呪文など必要としないはずの〈民〉が、魔法を使うのに呪文を唱えたのは何故。
どこまで踏み込んでいいのかが分からない。失敗は、許されないのだ。
(もう、二週間。まだ、二週間)
どちらが正しいのだろう。
俯いたシャイラの前に膝をつき、フィスクが目を合わせてくる。光を通す薄い雲が、その瞳に浮かんでいる。
「何故俺のことなんか知りたがる」
それに答えられるなら、シャイラはこんなに悩んでいない。
「あの女に無理やり押し付けられた仕事だろうに、何故ここまで心を砕くんだ」
「それは、」
口ごもっても、フィスクの口調はあくまで穏やかなままだった。
「お前にとっては、誰が相手でも同じなんだろうな」
折れた左腕をそっと撫でてから、フィスクは立ち上がり、背を向けた。
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