第12話 美味しいクッキー

 アロシアの従者が呼びに来たため、調べ物は一時中断となった。コーニに見送られて書庫を後にし、フィスクのいる塔に向かう。


 相変わらずシャイラを嫌っているらしい従者から刺さるような視線を受けながら、入り口についている南京錠を外した。


 長い階段を一気に昇りきり、息を整えながら天井の扉をノックする。返事があったので扉を押し上げると、フィスクがこちらへ歩いてきた。



「フィスク? どうしたの?」


「ん」



 手を伸ばしてきたがその意図が分からず、困惑して梯子を上がる足を止める。荷物を入れた籠を腕に提げているから、それが邪魔そうに見えたのだろうか。


 とりあえず籠を差し出すと、フィスクの眉間に皺が寄った。シャイラから籠を取り上げて、もう片方の手でシャイラの肘の辺りを掴む。


 ひょい、と部屋の中に引っ張り込まれて、シャイラが持ち上げていた扉がバタンと閉まった。



「え?」



 フィスクはシャイラの腕を掴んだままだ。



「フィスク、あの……、離してくれる?」



 高い位置にある顔を見上げる。シャイラの周囲にはここまで身長の高い人が少なかったから、少し新鮮だ。


 彼は横目でシャイラを見下ろした。否応なく心臓が跳ねる。相変わらずにこりともしないのに、少し視線を動かすだけで意識を持っていかれてしまう。今日はどことなく頬に血の気が通っている気もして、陶器の人形らしさが薄れている。


 作り物らしさが取れるだけで、その美貌が一段上の美しさを見せるなんてどういうことだ。理不尽な怒りすら覚えるが、それが思考の逃避であることは分かっていた。


 掴まれている腕を軽く引くと、フィスクは素直に離してくれた。だが、完全に離れる直前に、硬い手の平がするりと手の甲を撫でていく。


 息を呑んで硬直したシャイラなど気にも留めず、フィスクはさっさとテーブルに籠を置きに行った。


 もしかして、偶然手が当たっただけで、他意など無いのだろうか。


 シャイラは何度か深呼吸して、そろそろとフィスクの横に立った。



「……」



 フィスクは難しい顔をして籠の中を見ていた。そこから覗く『精霊の歴史』の本に、「しまった」と心の中で舌を打つ。


 しかし、ちらりとこちらを見たフィスクは、本の奥にある包みを指さした。



「なんの匂いだ?」



 そんなことを聞かれたのは初めてだったから、シャイラはぱちぱちと目を瞬いた。



「えっと、小腹が空いた時のために、クッキーを……」



 前回の癖で何も考えずに用意してしまったが、今になって食べ物を持ち込む許可を得ていなかったことを思い出した。


 雑用係だった前回は、決まった時間に食事を取ることができず、フィスクの前で腹を鳴らしてしまったのだ。それに気が付いたフィスクに、何か食べる物を持ち歩いた方がいいと言われ、菓子を忍ばせるようになった。



(あれは……、恥ずかしかった)



 シャイラの感覚では、そう遠い記憶でもない。熱くなる頬を指でこすりつつ、籠から包みを取り出す。



「駄目なら、次から持って来ないようにするけど」


「別にいい」



 と言いつつ、フィスクの目はクッキーの包みから外れない。


 顔を覗き込むと、夏空に伸びる入道雲のように、瞳がきらきらと輝いていた。口元は引き結ばれているが、心なしかそわそわしているように見えなくもない。


 ぎゅっと胸の奥を掴まれた気がして、シャイラは思わず呻きそうになったのを辛うじてこらえた。この人は、自分の顔を理解しているのだろうか。何年もこの顔と生きていれば慣れるものなのか。一ヶ月ほど毎日顔を見続けているシャイラは、未だに慣れないけれど。



「……食べる?」



 こくん、と頷く仕草が、まるで母親に食事をねだる幼子のようだった。


 震える手で包みを解くと、横から節の目立つ白い指先がすぐさま伸びてきて、クッキーを一枚摘まみ上げた。


 儚げな見目に似合わず大きく開いた口に、薄茶色のクッキーが放り込まれる。咀嚼に合わせて膨らむ滑らかな頬から、シャイラは目を離せなかった。



「……」



 喉仏が上下に動いて、間を置かずに二枚目のクッキーが口に運ばれる。息を詰めているシャイラを、雲色の瞳がまったく平静に一瞥した。



「……美味い」


「ほんと?」


「が、少し焼きすぎだ」


「えっ、うそ!」



 慌てて自分でも食べてみる。不味くはないが、少しパサついているような気もする。



「最初に確認した時、生焼けだったから焼く時間を伸ばしたんだけど……」


「予熱が足りないんじゃないか。オーブンの温度設定は?」


「うちのオーブン、古い魔道具を使ってるから温度の変更はできないの」


「なら予熱の時間を長くするか……。焼き時間が問題ないなら、生地を練りすぎてるんじゃないか?」


「言われてみればそうかも。それじゃあ、次は……」



 そこまで話して、ハッとした。


 クッキーに向けていた視線をフィスクの顔に戻せば、彼はいたっていつも通り、何を考えているのか分からない無表情のままだった。


 恐る恐る、シャイラは尋ねてみる。



「フィスク……、クッキー作れるの?」


「……」



 無表情ながら、きらきらと輝いていた夏の瞳に、急速に雨雲がかかった。



「あのっ、別に悪いとかじゃなくてっ」


「……」



 風の国は、武勇を重んじる国だ。信仰の頂点に立つ教会はその傾向が特に顕著で、戦うことに関係がない物事を軽んじる祭官は多い。


 体を鍛えるための食事を研究する料理人はありがたがられても、嗜好品を作る職人は肩身が狭い。教会の中にいるなら、そういった言動を目にする機会は多かったはずだ。


 母が営む花屋も、ただ花を売るだけでは相手にしてもらえず、薬草を診療所に卸すようになってようやく生計が立てられるようになったと聞いたことがある。だから家の裏手にある畑は、半分以上が薬草畑なのだ。


 母のエリーシャは土の国が出身地だから、まだマシな方だ。それが土の在り方なのだからと、理解を示してもらえる。


 でも、フィスクは風の精霊だ。


 教会の人たちが、お菓子作りなど許してくれないことは目に見えていた。



「お菓子……、好きなら、次も持ってくるよ」



 この部屋には調理道具などない。だから作ることはできないけれど、食べるくらいは構わないだろう。


 自分で作るくらいなら、きっと食べることも好きなはずだ。彼に運ばれる食事に、嗜好品としてのお菓子が含まれていないのは知っている。



「作るのが上手ってほどでもないから、駄目なところ、また教えてくれたら嬉しいな」



 受け入れてもらえるか分からず、声が小さくなってしまった。


 フィスクは少しだけ黙り込んでから、目を伏せて頷いた。



(これでいいのか、分からないけど)



 彼の瞳が、少しだけ明るくなったような気がして、シャイラは唇を綻ばせた。

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