第9話 前とは違う

 教会の仕事をすることを、母のエリーシャは特に止めはしなかった。昼間の店番が出来なくなることを謝ったが、「そんなに忙しい時期じゃないから大丈夫よ」と笑っていた。


 診療所からの注文が無くなる事態は避けられた。結局あれは、「従者への伝達間違いがあった」ということになったのだ。コーニが安心しきった顔で礼を言うのを、複雑な思いで受け取った。


 そして朝から教会に詰めるようになったのだが、フィスクがシャイラを呼ぶ時間はまちまちだった。


 最初に言われた通り、やることは何も無かった。フィスクも話しかけてこないし、シャイラが持ち込んだ本を広げていても気にしない。


 一応は仕事であるはずなのに何もしないのは落ち着かなかったが、沈黙自体は苦ではなかった。



「……」



 フィスクの試したいことが何なのかは知らないが、彼は基本的にベッドに座って瞑想しているだけだ。


 暇を潰すため、シャイラは彼に言われた通り、本を持ち込むようになった。


 教会の書庫で借りた精霊の本は、特にシーレシアに関する記述が多い。例えば、礼拝堂の天井に穴を開けた精霊の話。百年ほど前に、風の精霊が落ちてきたのだとか。それを目撃した登山家の日記も載せられている。


 あとは、創世の神話にも軽く触れられていた。


 この世界を創り、自分の形に似せて人間を創り、自然から生まれた精霊たちを愛でた女神。



(私を過去に送ったのは、女神様よね)



 本のページをめくる。挿絵があった。人間を従え、様々な姿をした精霊を侍らせた、美しい女性の姿。白い髪を靡かせて、まっすぐに腕を伸ばしている。


 女神が何故そんなことをしたのかは分からないけれど、時間を戻すような力を持っている存在をほかに思いつかない。精霊たちは人間に力を貸してくれるけれど、自然の摂理に逆らうようなことはできないと言われている。



(世話係になってしまったのが、良いのか悪いのか)



 女神はまだシャイラを見ているのだろうか。それとも、過去に送り込んでそれっきりなのか。少なくとも、あの時のように直接語り掛けるようなことはしてこない。


 なら、まだ大丈夫なのだろうと、そんな淡く薄い期待を握りしめている。


 本から視線を上げて、ぐっと背筋を伸ばす。ふと視線を向けた先で、フィスクが深く俯いていた。


 眠くなったのだろうか。確かに今は昼過ぎで、昼寝には最適な時間だ。ただ、警戒心の強いフィスクが人のいる所で眠るとも思えない。


 シャイラは静かに立ち上がって、そっとベッドに近寄った。



「……フィスク? 具合が悪いの?」



 ぴくりと肩が跳ねる。のろのろと顔を上げたフィスクは、シャイラを見つめてから軽く首を振った。



「何でもない」


「そう……?」



 表情は普段と変わらないように見える。相変わらず、息を呑むどころか止めてしまうほどの美しさだ。だが、もともと白いフィスクの顔は、血の気が引いても分かりづらいだろう。もし体調が悪いのなら、退出して飲み物でも持ってきた方がいいだろうか。そろそろ、部屋に置いてある水差しの中身も少なくなっている。



「本当に、大丈夫?」


「触るな」



 何の気なしに伸ばした手を、フィスクが押し返す。瞬間。


 部屋の中に突風が巻き起こった。


 下から吹き上げる風に、シャイラは慌ててスカートを押さえる。風は一瞬で消えたが、スカートを守った代償に癖毛がぼさぼさになった。



「何、今の!?」



 髪を手櫛で整えながら、慌てて周囲を見渡す。けれど、そこにいるのは呆然としてるフィスク一人。同じように風に煽られたはずの長い髪は、すとんと元の位置に収まっている。


 そのフィスクは、ぽつりと、一言だけ零した。



「……どうして」



 声が震えていた。


 それを聞きたいのはこちらだと、言えない雰囲気だった。


 膝の上で白くなるほど拳を握りしめているフィスク。その前に膝をついて、少しだけ迷ってからそっと手を重ねた。


 今度は拒否されなかった。引っ込みそうになった拳が開いて、そっと遠慮がちに握り返される。冷たい。


 縋るようだと思った。


 下からのぞき込んだフィスクの顔は、いつもと同じ無表情だ。けれど、雲色の瞳だけが、ぎらぎらと輝いていた。作り物のような造形の顔立ちに、魂が宿ったような。



「……ねえ。大丈夫?」



 少しだけ眉間に皺が寄って、それからフィスクは目を閉じた。



「……大丈夫だ」



 息を零すようにそう言ったフィスクは、しばらくシャイラの手を握ったまま動かなかった。

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