キオクのない夜は

雨乃よるる

記憶

「ちょっと思い出せないカンジがあってさ」

此処露こころは、黒縁の丸眼鏡を外して丸っこい目を細めた。きれいな緑色の海岸を映したように、此処露の瞳が光る。

「カンジって、字が思い出せないの?」

時間は夜で、外はすべて黒い幕で閉ざされている。俺は、自分の部屋で布団を敷きながら弟の此処露に訊いた。

「feelingの感じ、と、Chinese characterの漢字、両方」

すっと結んだ薄いくちびるから、淡々と返答が来る。俺は、無言で次をうながす。

「キオクって、どう書くんだろ」

パサ、と俺の持っていたタオルケットが敷布団に落ちる。桜色の此処露のくちびるはわずかに開いて、戸惑いがその空白からこぼれている。

「普通は、記す、とりっしんべんと意味の意のオクだけどな」

此処露は普通ではない。彼の外見を一目見れば、誰だってわかるだろう。此処露は、簡単に言えば、美しすぎるのだ。

「そうなんだよ、普通はそうなんだけど、そっちじゃなくてさ」

そう言った此処露の腕が震えているような気がして、俺はあわてて「そうだよな、此処露がそんな簡単なこと訊くわけないもんな」とフォローする。気まずい沈黙が流れた。

「気持ちを置いてきたところだから、気置きおくかな」

此処露がつぶやく。俺はその漢字を思い浮かべて、「なんだかさみしい二文字だね」と言ってみた。布団のシーツが、殺風景なほど白い。

 気持ちを置いてくる。気持ちを置き忘れる。白い、殺風景なところに一つだけ忘れ物をするような。

 いや、違う。心の中に、気持ちをたくさんストックしておくから、気置か。どちらかはわからないが、どちらも大事にしたくなるような意味だった。

「それとも、おのれおくする、で己臆きおくか」

 此処露の口調が、妙に厳しくなった。己に臆する。自分の中のキオクをすべてその漢字で書いたら恐ろしいことになる、と俺は思った。自分の過去が全員敵に回ってしまうような。大切に、大切に留めておいたものが、腐敗し、自分自身を蝕んでいく。そして、己からは逃れられない。走っても、叫んでも心臓から爪の先までまとわりついてくる、自分という恐怖。きっとそんなことになったら、何も身動きをとれなくなる。

 己臆。夜の澄んだ闇の中から、自分の己臆がやってきても、きっとこの部屋が守ってくれる。俺の隣には此処露だっているのだから。

「俺は、己に臆する方は嫌だな」

此処露が「僕も嫌だよ」と笑い返した。

 一瞬にして、此処露の横顔が翳った。此処露の目が、夜の彼方をにらんで細くなる。やってくる何かに構えるように、表情が険しくなっていく。

「でも、どうしようもない真実だってあるんだよ。自分の心をどれだけ誤魔化したって、何にもならないんだ」

キオクは素敵なものだ、と口では言っても、実際に恐ろしい己臆は存在する。だから目を背けてはならない。真実を知らなければならない。忘れてしまったなら、思い出さなければならない。

 此処露は、そう言いたいのだろう。だから彼はキオクの「感じ」にそこまでこだわるのだ。「キオク」の本当の意味を知らなければならないと思っているのだ。

「俺は、そうは思わない」

 唐突に俺の声がはっきり響いた。此処露が心臓まで止めてしまったかのように静止している。

「俺は、自分の心を誤魔化し続けて、何とかバランスを保ってここまで生きてきたんだ。目をそらしても、何をしてでも、自分がこれまで通り生きていられることの方が大事だから」

 しんとした空間で、此処露はやはり窓の外を見つめている。ふと緩んだ口元から、言葉がこぼれ落ちた。

「僕には、その感覚がわからない」

 此処露はずっと泣きそうな目をしていたのに、泣かなかった。きっと泣き方を知らないのだろう。顔をゆがめたまま、呼吸の安定しないまま、今までのものを一度壊してしまうことを恐れている。記憶を取り戻すことに必死になっている。

「まだわかんなくて、いいよ」

俺の言葉に、此処露は目線を落として、唇をかんでから、ため息をついた。

「だからもう寝よ、此処露」

俺は、敷き終えた布団に此処露と入る。弟の小さな肩に触れながらこうやって眠りにつくのが、何よりも嬉しい。

 電気を消す。夜の世界で、二人の布団の中だけがあたたかかった。

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