第 20 幕 誘惑
「……なんで、君が来るの」
人気のない真夜中の川辺。
上半身を起こしたルークスの問いに、マーシャは息を整えながら答える。
「貴方に話があるからよ。あのままエラ達に捕まったり、死んだりされちゃあ困るもの」
「話って何さ、弱々しい人殺しを嘲笑いにでもきたつもり?」
鋏はマーシャの手のなか、身体は疲れ切ってもうピーズアニマもだせず、マーシャから鋏を奪い返すことも難しい。
舌を噛みちぎったってそう上手くはいかない。
ここで自害する計画は断念し、ルークスは挑発的な笑顔を作って彼女を見上げた。
マーシャの表情は変わらない。
言い返すでも去るでもなく、暗闇に映える瞳でじっとルークスを見下ろしている。
やがて雲に隠れていた満月が顔を出し、月明かりに照らされた長い睫毛が、その白肌に影を落とした。
「話があるって言うんなら、早くしてよ……」
いつも元気がよく、まだ幼いはずのマーシャがやけに不気味に感じられ、ルークスの語尾が尻すぼみになる。
真剣な表情のまま、マーシャはルークスの前でかがみ込むと――
「―― づっっ!?」
ルークスの顎を上げ、強引に目線を合わせさせた。
「な、なに」
「教えなさい。貴方の望みは何?」
質問の意図が理解できないのか目を白黒させるルークスに、互いの睫毛が触れ合いそうなほどに顔を近づけて、マーシャが迫る。
さあ、さあ、と急かすように凝視してくる彼女に、ルークスは威嚇も込めて歯ぎしりをした。
「俺の望みなんて見て分かるでしょ?もうどうにもならないから死ぬんだよ。君に話すことなんて何もない。自害させたくないのなら、早く死刑にでもして」
そう冷たく言い放たれ、初めてマーシャの表情は険しいものになった。
「やっぱり、死ぬところだったのね」
マーシャが小さく呟いたかと思えば、突如、ルークスの視界がぐるりと回る。
小さな手に手首を、ふわりとしたスカート越しに膝を押さえつけられ、ルークスの首を湿った草がくすぐった。
身体全体を使ってルークスを押し倒したマーシャの黒髪が、カーテンの様に二人を覆い隠す。
互いしか視界に入らない、奇妙な状況。
(マーシャちゃんの瞳……こんなに、前からこんなに光ってたっけ)
相手の虹彩に映り込む自らを見つめながら、ルークスは喉を鳴らす。
記憶よりも鮮やかに強い色をした金色の虹彩は、ただ一点、ルークスを捉えていた。
「貴方にね、提案があるの」
ひりつく空気が、緊張の糸をギリギリまで張って織られた布のように纏わりつく。
「そんな風に死を選ぶ前に、望んでいたことを一つ叶えてみたくはない?」
「は……?」
マーシャの口元が、妖しく弧を描く。
「のぞ、み?」
「そう、望み。貴方がどうやっても叶えられないと諦めている望み。一つくらいはあるでしょう?」
戸惑うルークスをけして逃すまいと力を込め、マーシャは続けた。
「私には絶対に叶えたいことがある。それが叶うのなら、どうなってもいいの。だからね、貴方が望むのなら……」
美しい狂気をその身に纏い、彼女は笑う。
「私は、貴方の代わりに死んであげる」
その言葉に、ルークスの目の色が変わった。
「欲しいものがあるなら奪わせてあげる。殺したい相手がいるなら殺させてあげる。そしてルークス、貴方が私の願いを叶えてくれたその瞬間、私が代わりに罪人になるのよ」
あまりにも、甘くて、昏く、不道徳な誘惑。
懸命に冷ましてきた理性が警鐘を鳴らそうとも、この囁きには抗えない。
これは、何かの毒なのだろうか。
熱とともに上がってくる激情を抑え込みながら、ルークスはそう考える。
自分に絡みついて逃さない、目の前の金眼の蛇に噛まれてしまったのかもしれない。
鼻先で香る甘さは、何かの果実だろうか。
我ながら詩的な表現かもな、と小さく笑い、彼は身体から力を抜いた。
そして、憑依時に時偶見せるものと同じ。
怒りと恍惚が混じり合ったかのような、奇妙な笑顔をマーシャへと向ける。
「……マーシャちゃん」
「なあに」
「俺ね、殺してやりたい奴がいるんだ」
もう強い拘束は必要ないと判断したのか、マーシャは優しく微笑みながら、ルークスの右手を握る。
まるであやすかのように、細い指で何度も彼の手を撫で、握り、念入りに熱を共有していった。
「顔も名前も分からない。でもね、不思議なんだ。絶対に、いつか会えるんだって思える人」
絆なのか、愛情なのか、呪いなのか。
そんなことはもはやどうでも良かった。
この奇妙な縁を手放すなんて、もう絶対にしてやるものか。
「ねぇ、マーシャちゃん。俺……なんでもするからさ」
答えを渋っているわけではない。
ただ二人とも、この躊躇いという甘さの虜となっていた。
何も可笑しなことではないはずだ。
ちっぽけな子供が、こんな歪んだ、命をかけた契約をするのだから。
可怪しくいかれるくらいのほうが、むしろ趣があるのかもしれない。
「俺に父親を殺させて。父親も母親も殺す俺を、醜く生き延びさせて。」
ルークスはマーシャの手を強く握り返し、勢いよく身体を起こす。
満足気な少女の顔が、闇の中で白く輝いた。
「ほら、頑張って。戻ったらエラにでも手当てしてもらうから」
あのやり取りから約5分後。
一歩一歩草を踏みしめながら、二人は帰路についていた。
先程まではしっかりとした足取りで歩けていたルークスだったが、流石に限界だったのか、今はマーシャに手を引いてもらいなんとか進んでいる状態で、彼女の声掛けにも困憊した様子で頷く程度だった。
「マー、シャちゃん」
「どうしたの?体力は少しでも……」
「俺……母さんのこと、だいすき、なんだ」
「えっ?」
途切れ途切れに告げたルークスに、マーシャが足を止める。
小さなその声を聞き逃すものかと、息を潜め次の言葉を待っていた。
「だから、だれも、母さんを、悪いなんて言わないで……?痛い、のは平気……ど、それ、だけは耐えられない、から」
血の付いた喉を懸命に震わせるルークスの体を支え、マーシャはゆっくりと言葉の意味を噛み砕く。
「……まさか、貴方の動機って……!?」
「…………」
「そう……それは、エラも腑に落ちる答えが見つからなかったはずだわ。大分狂ってるもの」
「へへ……」
「褒めてないわよ」
マーシャも厄介だと感じたのだろう。
大きい溜息をつくとルークスが溜めた涙を雑に拭き取り、軽く彼の頬を叩いてやっていた。
「心配しなくても、このことは誰にも言わないでいてあげるから……ほら、泣いてないでしゃきっと!お母さんのこと怪しまれたいの?」
「泣いてない……いやだ……」
どんな言葉も力ないルークスを、マーシャは半ば無理やり引き摺っていく。
この調子で、これから味わうであろう地獄の空気に耐えられるのだろうか。
そんな心配を胸に、マーシャは月を見上げた。
(あぁ、そういえば……ラメティシィに心のケア要員の子がいたわね。ルークスを気に入っているようだったし、あの子に頼みましょっ)
流石私、これでラメティシィとの交流も深められるわね。と、マーシャは得意げにルークスを引き摺っていく。
やがて、彼女が最初に指示を出しておいた女性がこちらに手を振っているのが見えるところまで辿り着いた。
「お疲れ様、マーシャ」
「やっぱり、ちゃんと来てくれた!こういう時に頼るべきは貴女よね!」
ルークスを一旦その場に落とし、マーシャは笑顔でエラの胸へと飛び込んでいく。
エラも優しい笑顔で受け止めると、心底安心した様子で彼女の頭を撫でてやった。
そうやってしばらく普段と変わらない様子でじゃれ合っていたが、放置されていたルークスがうめき声をあげると、エラが警戒を強めた視線を彼に向ける。
マーシャを後ろに下がらせたまま、エラはルークスに近づくと、手早く縄をとりだして彼の両手を後ろで拘束した。
「あっ、エラっ!」
マーシャが抗議の声をあげるが、エラは気にせずにルークスを立たせると、彼の腕をしっかりと掴んで元の場所へと戻ってくる。
案外優しげな彼女の表情に、マーシャはほっと胸を撫で下ろした。
「さて、我儘なお嬢様の要望をどう叶えてあげようかなぁ」
「こ……交渉の大部分はちゃんと私がやるわよ。でも、エラも同席して頂戴。貴女ベテランの処刑人なんだし、ルークスの有用性くらいはプレゼンできるでしょう?」
「簡単ではないけどね」
そんな会話をしながら三人は進んでいたが、やがてルークスが膝をつくと、エラは彼を引き寄せ寄りかからせた。
苦痛が和らいだことに気がついたルークスの表情が一瞬緩むが、直ぐにそれは戸惑いへと変わる。
(温かい、なんで……?分からない……)
離れようと僅かに身を捩らせるも、今の彼では全くの無意味だった。
エラに軽くいなされ、身を預けたままの状態で家の中へと入れられる。
ランプが灯った室内は明るく、夜空に慣れていたルークスの目には鈍痛が走った。
反射的に閉じた瞼の向こう側から、エラたちの会話が聞こえてくる。
「お嬢様!エラさんに……ルクスくんも。無事で本当に良かった」
「ロンド、マウイの具合はどうですか?ガーゼと脱脂綿使いますね」
「あ!ルークスの顔色酷いじゃない!毛布毛布!」
「マウイは落ち着いています、つい先程までずっとルクスくんを気にしてはいましたが……お嬢様、毛布はこちらです」
聞き慣れたロンドの声に、ルークスは恐る恐る瞼を開く。
ルークスの身体をしっかりと捕まえているエラに、慌ただしく動き回るマーシャとロンド。
穏やかな顔で寝息を立てているマウイが視界に映り、ルクスはできるだけ目立たぬように安堵の息を吐いた。
そのとき。
(あぁ……)
自分を見ているルークスに、ロンドが気がついた。
瞬間、ロンドの顔によぎった怯えを見たルークスは、諦めたようにそのまま再度目を閉じる。
そんなルークスの一連の動きに気がついたのはロンドだけだったらしく、女性陣はそのままテキパキと作業を続けていた。
首の傷からは血が拭き取られ、薬のようなものを染み込ませているらしい脱脂綿が当てられる。
本人の状態からルクスが気絶していると思っているのか、マーシャもエラも彼に声をかけることはしなかった。
血の気が失せた身体が毛布で包まれ、その上からさらに縄で拘束されていく。
たとえ気がしっかりしていたとしても何も出来やしない、そんな状態で、ルークスは朦朧とした意識の中でただ考えていた。
マーシャと交わした契約のこと。
数日は入ることになるであろう牢のこと。
初めて他人にしてもらえた傷の手当てのこと。
思いの外非道くしてしまったマウイの傷のこと。
自分を疑いながらも良くしてくれたエラのこと。
下心があるとしても、自分を拾ってくれたマーシャのこと。
その優しさを嬉しく思いながらも、利用してしまったロンドのこと。
マーシャの交渉が失敗したとき、自分が向かうことになるであろう断頭台のこと。
自害の際に感じた、異常なほどの虚しさのこと。
目的が父への復讐に変わった今、忘れるべきは、切り捨てるべきは何なのだろうか。
反対に、なにか得られるのだとすれば何だろう。
上から目を押さえられる感覚と共に、ルークスの意識は闇へと沈んでいく。
コルチカムの紫色が、未だ瞼の裏に張り付いていた。
ガタガタと揺れる馬車の中。
ほんの数日前と同じ風景、同じ音、同じ顔ぶれ。
だのに、その数日で変わってしまった皆は、黙りこくってウォルテクスへと帰路につく。
目隠しをされた状態で乗せられたルークスの隣に座るのは、まっすぐに前を見つめているマーシャだった。
彼と己の覚悟を確かめるかのようにその手をルークスの襟元へと移動させると、そのまま肌に爪を立てて引っ掻く。
少し身体をびくつかせたのみで声はあげなかった彼の、鎖骨付近に桃色の線が走った。
「マーシャ、やめなさい」
嗜めるエラに、マーシャは何も言わない。
行動の意図を察していたルークスも、何ごともなかったかのように平然と座していた。
エラは窓から外の様子を確認し、気が重そうに溜息を吐く。
黒い雲に覆われた、
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