第 18 幕  献身Ⅰ



 母さんは、とても綺麗な人だ。



 そのことに気がついたのは、つい最近のこと。

母さんは村の人とは何かが違う。

もしかしたら、モンストルムと人間の違いのひとつなのかもしれないけれど、母さんは学び舎の先生とも、同級生達とも、村の大人たちとも違った。

ぼうっと、目の前でスープを口にする母さんの姿を眺める。

母さんは絶対に音を立ててスープを飲まないし、木のスプーンをびっくりするほど優雅に使って、お皿の手前側から外側に、一滴も零さず奇跡みたいに掬い上げるのだった。

その所作に強く憧れを感じて、見様見真似で真似をする。

あぁ、少し溢れちゃった。

もう一度、もっと丁寧にやってみよう。

すると、今度は上手に飲むことができた。


 「あら?ルー……」


 目を丸くする母さんを見て、俺はまずかったかな、と不安になる。

折角久々に飲めたご馳走を、こんなことでこぼしてしまったんだ。

母さんは怒るかな、いや、悲しむかもしれない。

けれども、怖くて俯いてしまった俺に聞こえてきたのは、花弁はなびらみたいに柔らかい笑い声だった。


 「ふふっ、ルクスもスープを飲むのが上手になったのね。でも、ほら……」


 もう大分ぼろになったハンカチで、母さんは優しく俺の口に触れる。


 「口が汚れてしまっているわよ?まだまだ可愛い、子供のルークスね」


 やっぱり、母さんは綺麗だ。

この世界の中で、一番綺麗なひとだ。

村の人に変な目で見られても、学び舎で一人だけ魔法の授業に出られなくても、無理やり死名痣を探されそうになっても、家に帰れば母さんが頭を撫でてくれた。

ずっとずっと、大好きな母さん。

辛い生活でも、二人で笑ってご飯を食べたいな。




 ……あ。


 夕方、家を出て仕事へ行く母さんとすれ違った。

一瞬だけれど隣へ並べたのは本当に久しぶりで、俺はそのとき初めて、自分の背丈が母さんとそう変わらなくなったことに気がついたのだった。

きっと、もう少しで越すことができる。

母さんは、喜んでくれるのだろうか。

隣に並んだり、一緒に食事をするどころか、最近は殆ど話をすることもできなくなってしまった。

母さんが夜、最寄りの町へ仕事へ行くことは昔からのことだったけれど、その頻度がほぼ毎日になってからはいつも母さんは疲れているようになって、俺と笑い合う余裕なんかも無くなってしまったらしい。

今は俺も学び舎にタダで通える年齢を越したので、図書館で本を読んだり、家事をしたりして過ごしている。

少ないお金と食料で生活を回すのはとても難しくて、母さんは今までこんな大変なことを笑顔でやってくれていたのかと、最初は驚いた。

漸く慣れてきた今だからこそ、今度は俺が母さんを支えたい。

この村でモンストルムができる仕事は殆ど無いけれど、そのうちお金も稼いで、母さんに美味しいものを食べさせてあげよう。

どうせ、母さん以外の人とお金を使うような付き合いはないのだし、俺も何も欲しくないのだから。

たとえ、もう笑いかけてくれないのだとしても。








 痛い。








 母さんの様子がおかしい。

本格的に仕事が辛くなって来たのだということは、何処となく察してはいた。

だからこそ、母さんの好きなスープを作って帰りを待っていたのに、戻った母さんは

泣き叫びながら俺を叩いた。

何がいけなかったのだろうか。

狂ったように泣き続ける母さんの異様な様子に、その場から動けなかったのが駄目だったのかもしれない。

でも、俺はこんなふうに泣いている人への接し方を知らなかった。

母さんは勿論、人がここまで狂っている姿を見たのは初めてであったし、俺もここまで泣きわめいた記憶はない。

結局、その晩は母さんが落ち着くまで部屋の隅でやり過ごしていた。

そして母さんが眠りについた今、俺は床に飛び散ったスープを拭き取っている。

幸い、俺がよそっていたスープは母さんのものだけだったから、あの後母さんは鍋に残っていた俺の分を食べてくれていた。

ただ、無駄になったぶんは大きい。

仕方がないので、俺は一日分だけ自分の食事を抜くことにする。

もう朝になってしまったし、これが終わったら直ぐに水を汲みに行かなくてはと分かってはいるが、徹夜になってしまったため兎に角眠たかった。

けれど、今眠りについてしまえば、きっと目が覚めるのは昼過ぎになってしまう。

母さんには仕事に行く前に何か口にしてもらいたいから、そこからでは遅すぎるだろう。

昨晩のショックで未だに震える体に鞭打ち、桶を持って我が家を後にした。

今日の天気は晴れ。

憎たらしいほどいい天気だ。

…………憎たらしい?何故?

ピリッ、と打たれた左頬が痛む。

いつの間にか俺は、こんないい陽気すらも素直に喜べなくなってしまったのだろうか。

心臓が冷えるような心地がして、つい急ぎ足になる。

普段よりも数段重たく感じる水入りの桶を引き上げ、取り繕うように口角を上げながら、村を進んでいった。

いつもなら早朝に汲みに行っているので、殆ど村民に出会うことはないのだが、今日の時間帯には不幸なことに人間が多かった。

俺の頬の傷が気になるのか、多くの人間がヒソヒソと立ち話をしている。

不愉快だ。

矢鱈と長く感じた帰り道を耐え忍び、この水も零されてしまわないかと警戒しながら、ドアを開ける。

母さんは、まだ眠っていた。

薄い毛布にくるまり、ぐっすりと眠る母さんの姿に、ほっと胸を撫で下ろす。

よかった、いつも通りの朝だ。

日が出ているうちに洗濯を終わらせてしまおう、洗い終えたら今日の分の食料を買いに行って…………

そこで、ふと気がついた。

いつもなら母さんがテーブルにお金を置いておいてくれているのに、今朝はそれがない。

昨日あんなことがあったのだし仕方はないのだが、最近は置かれるお金が少なくなってきていることもあって、家計が苦しかった。

大丈夫、なのだろうか。

今日の母さんの分くらいは賄えるだろうが、その先は相当に危うい。

だからといって、母さんにこれ以上お金を要求するわけにはいけない気がした。



 オートミールを薄いスープもどきでふやかして、温かい粥状の食事を作る。

途中に何度も空腹で胃が痛んだけれど、これは母さんのぶんだ、食べるわけにはいかない。

あとはこうして鍋に入れておけば、母さんは起きたときに食べて出かけてくれる。

なんとか今日の仕事を終えて、俺はいつものようにベッドに横になろうとした。

二人で一つ、固くてちょっぴり寒い寝台。

けれども、今日はそこに潜り込む気にはとてもなれなかった。

母さん一人では、このベッドは寒いだろう。

俺もそうだと分かっているのに、昨晩の母さんを思い出してしまって、どうにも入っていけない。

母さんも、寝るときくらい俺を忘れたいだろう。

自分用の毛布をそっと抜き取って、俺はまた部屋の隅へと移動する。

今日はここで休もう。

僅かな熱に縋りながら、きつく、目を閉じた。



 深夜、自分のくしゃみで目が覚めた。

日が落ちて辺りが冷えだしたらしく、すっかり冷たくなった手足を慌てて内に引っ込める。

母さんはいなくなっていたが、鍋の中身はちゃんと無くなっていた。

空腹感のせいか、沢山眠ったにも関わらず体が重怠い。

今日はもう一眠りしようかと、再び瞼を閉じたそのとき。

ギイィ、と戸の開く音と、炎の板(炎魔法が苦手な者向けの、簡易魔法キット)で蝋燭に火を灯す音が聞こえてきた。

母さんが帰ってきたのだろう。

いつもより早い帰りだから、仕事がうまく行ったのかもしれない。

本来であれば、ここで目を開けて、母さんに向けて微笑むべきなのだ。

でも……でも、だ。

もしもまた叩かれたら?

昨日と同じように、母さんが俺を見ておかしくなってしまったら?

母さんが怖くなるだなんて、数日前までは考えもしなかった。

俺は、どうすれば。


 「ルークス……?ここで眠ったら風邪をひくわよ?」


 そう、震えながら毛布に潜っていた俺に、不思議そうな声がかけられる。

欲しくて仕方がなかった、優しい声。

恐る恐る毛布から顔を出すと、そこには


 「かあ、さ」

 「大丈夫?ルー……」


 疲れていながらも、穏やかで優しい、俺のよく知る母さんの顔があった。

様子のおかしい俺を心配してくれているのか、母さんはかがんで俺と目線を合わせると、優しく右頬に触れてくる。

母さんが、元に戻った。

その温度に泣きそうになって、たまらず母さんに抱きついた。

涙を溜めて縋り付く俺に母さんは慌てていたけれど、しっかりと抱きとめて背中を撫でてくれる。

今ぐらいは、情けなくたって許してほしかった。

泣いて縋って、昨日母さんに何があったのか教えてほしかった。

きっと今なら話してもらえる、俺だって力になれる。

身勝手で押し付けがましい期待を込めて、母さんの顔を見た。

でも、俺が何か言うその前に、母さんは目を丸くして、言った。


 「ルークス!どうしたのその怪我……!!誰がこんなこと……」


 俺の腫れた左頬を見て、辛そうに叫ぶ。

 紛れもない、母さんが。


 「え……?」

 「そのほっぺ!転んでできたらそうならないでしょ!?誰かに、いじめられたの?」


 これは、どういうことだろう。

再び体が震え始める。

俺を叩いたのは確かに母さんで、それを母さんが知らないはずはない訳で…………

混乱して何も言えない俺を、母さんはしきりに心配している。


 「か、母さん。きの、昨日のご飯、美味しかった?」


 もたつく舌で、なんとか一つ、母さんに聞くことができた。

すると、母さんはまるで何を聞かれているか分からないといった様子で考え込む。


 「えぇ……そうね、ルークスが作ってくれるものは、いつも美味しいわ」


 昨日作ったのは、母さんの大好物だ。

なのに、目の前の母さんはまるでいつものオートミールだったかとでも言うように、不思議そうな笑みを浮かべた。

覚えて、いないんだ。

母さんは、昨日俺を叩いたことも、狂ったように泣いたことも覚えていない。

そうわかった瞬間、俺は泣くのをやめた。

体の震えも無理矢理抑え込んで、そっと母さんから離れる。

悟られちゃいけない、傷つけちゃいけない、心配させちゃいけない。

頭をかき、気まずそうな笑顔を浮かべてみせた。


 「実はね、その……友達と少し喧嘩しちゃって。俺もちょっとかっとして取っ組み合いになっちゃったんだ。大丈夫、明日仲直りしにいくよ」


 ……言い切れた。

これを聞いた母さんは、ぽかんとした後、「ルーの友達……」とひとりでに呟いた。

驚くのも無理はない、今まで生きてきた11年、俺には母さんに紹介するどころか、仲良くしたり喧嘩するような友達は出来たことがないのだから。

でも、きっと母さんは喜んでくれるだろう。


 「お友達……よかった、ルークスにもお友達ができたのね。でも、あまり怪我するようなことはしちゃ駄目よ?ちゃんと仲直りしてきてね」


 うんうんと頷くと、母さんは俺の頭を撫でた。

優しい手に自然と表情が緩むが、忘れてはいけない。

俺は今、2つ、3つも嘘を吐いたのだということを。


 「そうだ、あの人にお土産があるんだったわ!」


 やがて、母さんはそう言って立ち上がると、鞄から何やら光るものを取り出した。

指輪というものなのだろうか、あちこち塗装が剥げても尚、光を反射する金属の輪っかは、随分と上機嫌な母さんによって、ある場所へと置かれた。


 「ほら、貴方はこういった装飾品が好きだったでしょう?今日、お客様が私にくれたのよ!でも、この指輪は貴方のほうが似合うかも知れないわね」


 まるで純情な少女の様に笑いながら、母さんは写真立てに向かって話し続ける。

写真立てとはいっても、実際に写真が入っているわけではない。

小さな紫の花の絵が、写真立てに入れて飾られているだけだ。

母さんが言うには、これに描かれている花は俺の父親が好きと言っていたもので、これを父親だと思って大事にしているらしい。

そんな抽象的なものを見たって、当人の顔を知らない俺には何の感情も湧いてこないのだが、母さんにとっては精神安定剤なのだろうか。


 「ほら、ルークスも前に立って。ルークスは今は私によく似ているけれど、これからもっと貴方みたいにカッコよく成長しそうなのよ。今ではもう、家の仕事を私よりも上手にこなしちゃうんだから」


 俺は母さんに似ているならそれで嬉しいのに、母さんは俺に父親似になって欲しいのかな。


 「またいつか、貴方に会いたい……」


 俺の父親は、死んでいない。

ただ、母さんが言うには父親はどうしても一緒に来ることも、手紙を出すことも出来ない立場なのだが、いつでもどこでも俺たちを見守っているはずだという。

それは本当に生きているのか、ずっと会いにもきてくれない人を、何故そこまで想えるのだろうか、と俺はいつも疑問に思っていた。

母さんに見えない位置で、ちょっぴりむくれてみせる。

姿を見たことも、声を聞いたこともない俺の父さん。

貴方を大切に思っている母さんは、今必死に頑張っていますよ。

どんな事情かは知らないけれど、そろそろ来てあげてもいいんじゃないですか。

そう、俺がほんの少し恨んだ数時間後。

俺は再び、母さんに殴られた。





 「あ、いってらっしゃ…………」


 バタン。

 俺の言葉に耳もかさず、母さんは今日も仕事へと向かっていった。

でも、大丈夫。

今日は比較的母さんも落ち着いていた。

昨日から慢性的に痛みを発する左腕をかばいながら、俺は毛布を手繰り寄せ、定位置でまるくなる。

だいぶ隅で寝るのも慣れてきたが、すっかり冬に入った今、そのまま心置きなく眠れるかというと微妙だった。

薄い毛布と服だけで、真冬の夜を凌ぐことは難しい。

毛布を重ねようにも、母さん用に新しい毛布を買ってしまった以上、飢え死ぬか凍え死ぬかの瀬戸際だ。

凍死してしまわないように、今夜も気を引き締めなければ。

母さんが壊れ始めてから、もう二ヶ月。


 一年前までの暖かさは、もうどこにもなかった。


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