【完結】はじまりの歌

ホズミロザスケ

第1話

「……はい。これで結構です。ご結婚おめでとうございます」

 窓口のお姉さんはニッコリと笑ってそう言った。粗品のボールペンを受け取って、ララちゃんと一緒に「ありがとうございます」と頭を下げる。

 区役所の自動ドアが開くと、刺さるような冷たさに身震いした。ふぅ……と吐き出した息が白い。マフラーをぐるぐる巻いて、ピーコートのボタンもしっかり留める。コートのポケットに手を突っ込むと、中に入れてたカイロのあたたかさにホッとした。左右のポケットに一つずつ。今日は今年一番の寒気が日本を覆っていると天気予報でも言ってた。

「寒っ! 寒暖差ヤバっ!」

 後ろにいたララちゃんが小走りで近づいてきて、右手をコートの左ポケットに勢いよく入れてきた。行く前に振りかけていた香水の甘い香りががふわっと漂う。

「はぁ~、あったか~。アタシもカイロ入れとくべきだったわー」

「いる? オレもう一個あるから」

「ありがと。でも今はこうしてたい」

 ポケットの中で指が絡み合う。ララちゃんの手は小さくて、指は細くて長い。いつもハンドクリームをこまめに塗ってるからだろう。柔らかく、すべすべで親指の腹で撫でていても飽きない。

「ダダと結婚しちゃった」

「嬉しい?」

「嬉しいに決まってんじゃん。ダダは?」

「めちゃくちゃうれしい」

 そう答えるとニカッと白い歯を見せて笑う。オレもつられて口の端が緩やかに上がった。


 十一月二十七日。オレとララちゃんは結婚した。二十二日なら「良い夫婦の日」と語呂合わせ出来るけど、あいにく二人とも仕事があり、断念。十一月最後の大安だった今日に提出を済ませた。

 今日から、ララちゃんの名字は「木村」から「金田」になった。長い間、名字をもじったあだ名、「キムキム」と呼んでいたけど、もう彼女をそう呼ぶことはない。でも、それでいい。家族になったんだから。


「この一か月、マジバタバタしたねぇ~」

 ファミレスに入って、メニューを眺めているとララちゃんは言った。白いキルティング生地の小さなショルダーバッグから、髪ゴムを取り出す。茶色に染めている長い髪を後ろで一つに括った。襟ぐりの広いニットを着ていることもあって、目に見える褐色の肌の面積が増える。正面だと鎖骨、横を向くとうなじ。どちらもキレイだなぁとまじまじ眺めてしまう。

「だってさ、付き合ったと同時に結婚の準備したじゃん? お互いの家族に挨拶行って、両家顔合わせもして。あと、引っ越しもしたしさぁ」

「引っ越し、楽しかった」

「楽しかったって……、まあ、ダダは荷物超少なかったし、手伝いに来た桂っちと駿河っちとワイワイしてたもんなぁ。家主のアタシは新居と前の家行ったり来たりで目が回るかと思ったけど」

「そのおかげでとてもいい部屋」

「広くなったもんねぇ。よくあの狭いワンルームで二人暮らししてたと思うわ」


 引っ越しが決まると、ララちゃんは今ある家電や家具はほぼ処分することを決めて、新しいものを一気に手配した。引っ越し業者とのやりとりもすべて彼女がやってくれた。オレだったら、絶対になにか忘れて、当日に大慌てするだろう。さすが店長を任されてるだけあって、頼りになるなぁと彼女の隣で思っていた。

 そんな引っ越し準備の中で一番驚いたのは、バイクを売って、自転車を買ったことだろう。

「バイク、本当に売るの? 無理してない?」

「売る」と聞かされた時に、思わず訊いてしまった。通勤にも使っていたし、休日もいろんな場所に遊びに行ってたであろう大切な愛車だと思ったからだ。ララちゃん本人はというと、迷いのない、スッキリとした表情を浮かべる。

「駅近になるから、電車通勤に変えようかなって。自転車ならダダも乗れるっしょ?」

「まあ、乗れるけど……」

「維持費が浮いたらその分、生活費に充てれるからさ」

 そう言いながらも、買い取り業者さんにバイクを託した瞬間は少し寂しそうだった。業者さんを見送ったあと、

「これからはダダと一緒のシフトの日は同じ電車で帰れるよ。楽しみ増えたわ」

 晴れ晴れとした笑顔を見せてくれて、胸を撫でおろした。


 今もその時と同じくらいの明るい顔でメニューのページをめくっている。

「ファミレスとかめちゃくちゃ久しぶりかもー。メニュー見るだけでワクワクする。パスタはこないだ食べたし、ピラフ、ハンバーグ……。いや、今日は豪勢にステーキセットにしちゃおうかな? ダダは?」

「同じのがいい」

「オッケー」

「でもララちゃん、ステーキでいいの?」

「え? なんで?」

「このあと写真撮るのにステーキ食べたら苦しくない?」

「二時間後でしょ? 特大の食べるわけじゃないし、どうにかなるなる」

 注文を済ませ、ドリンクバーで各々飲み物を調達し、席に戻るとすぐ、

「あー……喉乾く」

 ララちゃんはレモンスカッシュを一口飲み、眉間に皺を寄せながら、ストローをいじる。

「実はさぁー、アタシ、写真撮られるの超苦手なんだよね」

「へぇ、意外」

「よく言われる……。写真映えがどうのとか、盛れてる、盛れてないってみんな言いながらさ、自撮りをSNSに平気で上げるのすごいわ。アタシは無理。うまく笑えなくて、集合写真とか卒業アルバムとかも二度と見たくないもん」

「そうなんだ」

「でも、ダダとの結婚記念の写真は撮っておきたいじゃん。しかも、源太さんってめちゃくちゃすごい写真家さんなんでしょ?」

「そう。なんか……すごいらしい」

「そんなすごい人に撮ってもらえる機会なんてないしさぁ。だけど、照れるし、恥ずかしいし。密かに葛藤してるってワケ。ダダは、緊張しないの?」

「オヤジさんは信頼してるから」

「まー、そっかぁ。一緒にずっと仕事してるもんね」

「むしろオヤジさんが撮影してくれるから大丈夫だよ。今日はオレもずっと隣居るし」

「それじぁあさ、アタシが撮影してる間、おもしろい顔してリラックスさせてよね」

「おもしろい顔……」

 ララちゃんの言うおもしろい顔ってなんだろ。よくバンド仲間である草太は変顔求められて白目剥きながらダブルピースするけど、あれはちょっとヤだな。とりあえずオレは自分で自分の頬を少し引っ張ってみる。

「おもひろいかほって、どんなのかな?」

「待って待って、冗談だって!」

「え、そうなの?」

「ホントにしてくれるとは思わなかった」

 離した手で頬を撫でていると、

「ありがとね。ちょっと和らいだわ」

 ララちゃんは優しく目を細めた。


 七年前の三月、高校三年生だったオレはララちゃんへ渡す絵を描いていた。時間を忘れ、キャンバスに向かい続けて、完成したのが卒業式当日の早朝。卒業式が終わる直前、だいたい十時くらいを目安にいつも会っていた美術準備室へ向かおう。そう考え、少し仮眠をとった。

 だが、目が覚めた頃には、昼の三時を過ぎていた。一瞬で血の気が引く。ベッドから飛び起き、制服を着て、キャンバスを抱えると家を飛び出した。家から学校まで徒歩圏内とはいえ、日ごろの運動不足がたたって何度も足が絡まる。それでも荒い息を吐きながら走った。

 校門をくぐり、震える足を最後の力で一生懸命に動かし、美術準備室の前にたどり着く。だけど、そこにララちゃんの姿はなかった。

 オレが寝なければ、かけていたアラームに気づいていれば……。後悔が駆け巡って、胃液がこみ上げてくる感覚がした。視界に靄がかかったように曇り、意識が飛びそうになったその時、オレはに気づいた。

「まだいけるかもしれない」

 我に返り、冷静さを取り戻すと、急いで職員室に向かい、そこにいた先生を呼び止める。声をかけたのが偶然にも三年担当の先生だったようで、簡単に事情を話すとララちゃんの家に電話をかけてくれた。しかし、通じない。それならオレが直接彼女の家に行けばいいだけだ。

「彼女はどこに住んでいるんですか? オレ、直接会いに行きます」

 そう言うと、先生は渋い顔を浮かべ、

「個人情報だから生徒とはいえ教えられないんだよ……。ごめんな」

と最後の最後の頼みの綱は、あっけなく手から滑り落ちた。

 家に帰り、玄関扉を閉めた瞬間、力が抜けた。その場に座り込む。

「もう二度と会えないんだ。オレのせいで」

 バカだ、間抜けだ。情けない自分を責めることしか出来ず、涙が止まらない。すべてが静かに崩れた。彼女がいないこれからなんて。消えてしまいたい。そう思っていた。


 その彼女が今、目の前にいる。幸せそうにステーキを頬張って、「おいしい~!」と喜んでくれている。

 再会してもう半年。毎日ずっと夢を見ているようだ。だけど、オレを呼ぶ声も、近づいてきたときに鼻をくすぐる香りも、抱きしめた時の温もりも、確かに感じる。幸せだと、一日一日をしっかり噛みしめて過ごしている自分が未だにちょっと信じられない。

 すると、

「ちょっ、めっちゃ口の周りにソースついてるんだけど」

 ララちゃんは笑いながら、テーブルから身を乗り出す。動いた瞬間、左手薬指につけている結婚指輪が照明の光に反射し、きらりと輝いた。

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