幸せの名のもとに

宿木 柊花

千紗と日向

 千紗ちさの手元に一通の封筒がある。


 その封筒は世界中の夜を煮詰めたように黒く差出人はなかった。間違いかと思った。

 しかし、表には『幸田こうだ千紗サマ』と白く印字されている。

 千紗は薄く笑った。

 鞄の奥に滑り込ませ、日直としての役割をはじめる。


 薄暗い教室に生まれたての光が満ちはじめ、校庭では野太い声が駆け巡り、校内は楽器の旋律が踊る。

 千紗は窓を開けながら、校舎に一人また一人と吸われていく様を見ていた。


「千紗! どした? 物思いにふける美少女みたいになってるよ」

「んー別に。平和だなってね」

「あーそかそか。日直とか面倒だもんね。なんかここから見てると校舎が食虫植物に見えるわ。若者を誘い込んで捕食みたいな」

「だとしたら私たち胃の中じゃない」

「溶かされるの待ち? つら」

 じゃあまた後でね、と言って日向ひなたは隣の教室へ行く。


 二人は同じ時期に転校してきた小学校で出会い、以来親友となった。

 千紗は何も言わず、編み込みの先を尻尾のように振る日向の後ろ姿に手を振った。

 そして日誌を取りに職員室へ向かう。


 ◇◇◇


 放課後。

 千紗は屋上にいた。

 屋上を囲うフェンスは高く頑丈で上は刑務所のようにトゲだらけのコイルが乗っている。

 誰かが破ろうと試行錯誤した痕が散見する金網の向こう、正門の方へ走る人影を眺めている。千紗は金網越しにその影をなぞる。

 日向は『先に行く』という千紗の置き手紙を信じて走っているのだろう。

 千紗は開けた黒い封筒と紙を握りしめ、その時を待つ。


『幸田千紗サマ。おめでとうございます。幸田サマは人類の【幸せ】のに選ばれました。人々は幸田サマに感謝し、幸田サマは人類を幸せに導く存在になります』

 流暢な電子音声でドローンの上に映し出された誰かが宣言する。

『期間は用紙の通りです』

 黒い用紙、そこには777と数字のみが白く浮き出している。用紙自体はインクが飛んだのか所々星のように白く抜けている。

「この数字の単位を教えてください」

 千紗はドローンに向けて紙を広げる。ドローンは近くを無重力空間を歩くように飛ぶと『■』と表示した。

「777こんな数字はおかしくありませんか?」

 ドローンは『ERRORエラー』と表示し、空高く飛び上がると姿を消した。


 西日が何もかもを真っ赤に染め上げる。遠くの空から夜がゆっくりと忍び寄る。

「贄……」

 おもむろに鞄からハサミを出し、ポニーテールを切り落とした。

「小細工はいらない」

 髪は風に乗って自由にどこかへ飛んでいく。


 ◇◇◇


 翌日から千紗は学校へ行かなくなった。

 贄である千紗には誰かの幸せの代償にその大きさに比例した不幸が起こる。

 時と場所も選べないそれは時に周囲をも巻き込む。

 千紗にとって大切なのは日向だけであり、たまたま同じ教室に詰め込まれただけのクラスメートなどはどうでも良かった。

 日向さえ笑顔なら千紗自身も笑える自信がある。

 だが、贄には自らに起こる不幸の大小を知る術がない。その代わり贄は贄である限り死ぬことはない。


 千紗はノートを広げて777の意味を考える。

 年、月、日、時間、分、秒。

 分と秒は既に過ぎたが、相変わらず小さな不幸というか不運が続いている。

 分と秒に訂正線を引こうとしてボールペンは突然分解され、ノートは破れた。

「本当に地味」

 何本目かのボールペンをゴミ箱に投げ込み、ノートはマスキングテープで留める。


 ◇◇◇


 数日後、日向が目覚めないと日向のお母さんから連絡を受けて病院に行く。

 お母さんは千紗のショートカット姿に大層驚いていたがすぐに受け入れてくれた。

 病院のベッドの上で日向は気持ち良さそうに眠っていた。病気でもどこかに異常があるわけでもなく、ただ眠っているそうだ。

 たまに何か寝言を言って笑っている日向は夢の中でも幸せそうだった。


 千紗は帰り道、日記帳を買った。

 日向が起きたとき何があったか教えてあげるために。

 鼻歌混じりにスキップで歩いていると自転車に轢かれた。生傷が増えても千紗はまた鼻歌を奏でて歩き出す。


 ◇◇◇◇◇◇


 あれから月日は流れて、世界に二人だけになった。


 文字通り、人類は滅亡した。


 大きすぎる幸せを手に入れた人類は【死】という誰もが畏怖する存在を克服した。

 ただそれは、か弱い人類には享受しきれない代物だった。

 人類は次々とゾンビに成り果てる。

 生命活動が停止した体は代謝がなくなり、ゆっくりと腐る。それがゾンビ。本人に意識はあるが感覚が鈍くなり、痛覚はほぼ無くなる。簡単に言えば体が腐るだけなので人を襲うこともない。

 感染性はなく人類そのものに由来した進化の一部だと専門家は語った。

 だが、ゾンビ化は関係の近い者から拡がりをみせた。

 ゾンビ自体に感染性はなくとも恐怖は感染し、巨大な【幸せ】はそれを克服させようとゾンビ化させる。

 腐臭を放つ【幸せ】が世界を包み込むのに時間はさほどかからなかった。


 この頃から千紗は一切の成長がなくなった。髪も爪も伸びなくなったのはまだ良かったが、傷が治らないのは問題だった。

 千紗は目覚めない日向の隣で腐っていく見慣れた町を眺める。

 日向のお母さんは献身的に日向の世話をすることで現実を直視しないようにしている。もしくはこうすることで自我を保っていたのかもしれない。


 人類はしぶといものでこんな状況にも慣れて各地に一ヶ所ずつ火葬場という大きな焚き火が設置され、自我の保てなくなった者や自分の姿に耐えられない者が身を投げた。

 不思議なことに経済活動や社会には何の支障も出なかった。

 体感的に人口は半分近くに思える。


 それから数十年たつと世界が少しずつ変わってきた。

 ゾンビが朽ち果てたのだ。

 腐りきって肉が落ち、骨も紫外線や風化で脆く少しの衝撃で砂と化して崩れる。

 ゾンビは子孫が増えない、腐っている。

 そして朽ち果てる。


 晩年、お母さんは自らの寿命を悟ってゾンビ化した。少しでも長く娘といるためだという。

 日向は幸せ者だと思う。

 日向は眠りについたあの日のままように眠り続けている。


 お母さんが朽ち果てる間際千紗に告げる。

「ごめんね気づいていたのに何もしてあげられなかった、あなたが贄なのでしょう?」

 千紗はお母さんの手を崩さないように優しく握る。腐敗した世界でここまで生き延びられたのは紛れもなくお母さんの功績が大きい。

 野草からキノコ、魚の釣り方、動物の捌き方まで我が子のように教えてくれた。

「日向は多分【777《ラッキーセブン》】よ。こんな世界あの子が好きな映画にそっくりだもの」

 そして日向を優しい眼差しで包むと、お母さんは砂になった。

 風になびくお母さんを千紗は必死に掻き抱く。骨壷代わりに拾ったビンに詰めても離れられなかった。

 風に消えゆく中でお母さんの声が聞こえた。

『日向をよろしくお願いね。愛してるわ』


 ◇◇◇


 誰もいなくなって数年、日向が目覚めた。


 日課の罠の点検と血抜きの終わった獲物を集めて帰ってくると、日向が座っていた。

 栗色の瞳をぱっちりと開けて、お母さん譲りのタレ目で空を見上げていた。

「あれ? もう昼?」

 久々の再会に千紗は声が出ない。

 獲物がどさりと砂に埋もれる。

「あ、千紗どうしたの? そんなに汚れてしかも傷だらけ」

 慌てて日向が駆け寄ってくる。

 ああ元気だ。あの頃のまま日向が笑っている。良かった。

 マリオネットの糸が切れるように千紗は地面に崩れる。世界が変わっても、見知った人が炎に消えても、お母さんが朽ちても流せなかった涙が今は溢れて止まらない。

「え、え! 泣かないでよ千紗。急にどうしたの?」

 温かく包んでくれる日向はお日様の匂いがした。

 本当にもう世界に二人だけになってしまった。

 この事を日向はどう受け止めるのだろうか?

 千紗はそっと日向の背に手を回した。これからの現実に壊れないようにゆっくり話していこう。


 ◇◇◇


 777年を待たずして二人は一つの幸せを願った。

【幸せ】を使い果たした二人は砂も残らず消える。


 そしてまた新たな人類の歴史がはじまった。

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