七夕の憂鬱【KAC2023】-06
久浩香
第1話 七夕の憂鬱
カンカン。
トントン。
カンカン。
トントン。
規則正しく織機を動かす音が機織り建屋から響く。
タンポポの茎は伸び、もうすぐ花が咲く。
彼女の仕事は、飛んできたタンポポの綿毛を土筆に巻き付けて糸に紡ぐ事から始まる。
だから、綿毛が風に舞い上がってくるまでに、今、織っている布を仕上げなければ、来年の布を創る肯定が、すべて後ろ倒しになってしまうのだ。
かといって、急ぐあまりに横糸を打ち込む力が弱ければ、失敗作を献上したとして怒りを買い、今年の七夕に雨が降る。
❖
僕は、
結婚する前のベガ姫様は、駆け出しだった僕の造った杼を使ってみては、重さがどーの、角度がどーの、と、あれやこれやに注文をつけては、
「私、機織りしている時が、一番、幸せなの。だから、いつまで織ってても疲れない、本当に手に馴染む、私だけの最高の杼が欲しいの」
と、眩いほど煌めく瞳で微笑んでいた。
彼女と会える度にドクドクと脈打つ心臓は、自分が彼女に恋をしている事を告げていたけれど、数多いる内の一人とはいえ天帝様の娘。あまりに身分が違いすぎた。
完成させたくは無かったけれど、完成させざるを得なかった、彼女が望む通りの杼が出来上がってしまってから、彼女は建屋に引籠り、それはそれは美しい反物を一本織り終えるまで、そこから出てこなかったので、織姫様と呼ばれるようになった。
年頃になった彼女は、僕の工房へやって来て、
「貴方が造ってくれた杼は、今の私の手には、小さくて軽すぎるの。ねぇ、お願い。この手にぴったりの杼を造ってくれないかしら」
と言ってきた。
彼女に頼まれて「否」と言うわけがない。
僕は、早く、もう一度、彼女に会いたい一心で、杼造りに精を出した。
だけど、僕がそれを造っている間に、彼女は、天帝様に見込まれたアルタイルという牛飼いと結婚する事が決まっていた。
元々、叶わない恋だった。
だから、彼女が他の男と結婚しても、それは、とても悔しくて、せつなくて、のたうちまわる程苦しかったけれど、仕方が無いと思っていたし、彼女の布で仕立てた服を装うのを待っている高位の方々の要望もあり、織物をする時には里帰りしてくるから、姿を垣間見られる事もあるだろう。
でも、もう二度と、二人だけで直接会う事はできなくなるから、出来上がった杼を受け取った彼女が、昔と同じように、僕だけに微笑みかけてくれる一瞬を、僕の中の永遠にしようと決めていたんだ。
建屋から、機織りの音が聞こえないのは、僕の杼が出来ていないせいだと思っていたけれど、出来上がった事を報せる文を送っても、待てど暮らせど、彼女は杼を取りに来なかったし、どこかに届けて欲しいとかと書かれた文も送られては来なかった。
結婚したのを機に、機織り機そのものを造り直しているのだろうか、とか、病気になったり、手や足を怪我でもしたのだろうか、などと、心配しているところに、天帝様から呼び出された。
僕のような者に、一体、どんな用事だろう、と、ビクビクしながら琴座宮に到着すると、すぐに天帝様のいらっしゃる部屋まで連れて行かれた。
天帝様は、玉座の肘置きに肘をついて額を押さえていたけれど、指の隙間から、僕がそこに居るのに気づいたようで、ゆっくりと背もたれにもたれかかった。
溜め息を一つ吐き、
「よく来たな。…ああ、楽にしろ。朕も、もう疲れた」
と、憔悴しきった顔のまま、仰られた。
「全く。面倒な事だ。他人の反物は創るのに、自分が着飾る事も、面白く遊ぶ事にも興味を示さず、寝床と建屋だけを往復し、布を織る事だけを生き甲斐にして働き続ける娘に、外の世界にも楽しみはある、と、教えてやりたかっただけなのだが…はぁ」
また、大きく溜め息を吐く天帝様の苦悩は、痛い程伝わってきたが、自分が呼ばれた理由が解らなかった。
それから、何故か延々と、他の姫君や皇子様方の事や、他のお偉い様方への愚痴を聞きかされ、
(人の親、人の上に立つ立場の
と、ぼんやり思っていた時、
「…だから、お前にベガを任せようと思う」
と、仰られた。
「は?」
不意打ちを食らい、僕が間抜けな声を出すと、
「元々、ベガの夫候補には、お前の名前も挙がっておったのだ。あれの嫁ぎ相手を決める段、あれが態々、お前に会いに行ったという報告を受けていたし、お前の身辺を洗えば、誰に聞いても、浮いた話一つ出ず、真面目で誠実を絵に描いた様な、腕の良い杼職人だとも聞いていた。あ奴とどちらにするか最後まで迷ったのだが…。先に言ったように、お前と夫婦になったら、あれは結局、外を知らずに暮らしていくと思ったので、あ奴に軍配を上げてしまった」
と、仰られた。
僕は、水から引き揚げられた鯉のように、口をパクパクさせていたのだと思う。何かを言おうにも、声も言葉も出ないのだ。
「朕は、アルタイルに『この世の美。目に見える世界の、儚くも逞しい雄大な自然の見事さを、あれに教えてやってくれ。そうすれば、あれの心はもっと豊かに、織る布は、更に素晴らしい物になるだろう』と伝えおいた筈なのに…。この700年。あ奴は、何を勘違いしたのか、自分の仕事さえ放りだし、褥の中で情を交わすだけに止まらず、場所を選ばず契りを結び、ベガとひねもす淫楽を貪り、二人を引き剥がすのに大量の水をぶっ掛けるしか無く、その水で川ができてしもうたわ」
何の返事もしない僕に、天帝様は、ベガ姫様の話を続ける。
僕の頭はショートして、
(ああ。それで、あの川は出来たのか。そうかぁ。だから、あそこら辺に住んでいた
と、ベガ様の話より、天の川ができた理由に感心していた。
「本当に…女というのは厄介なものだ。アルタイルとの見合い前は、『結婚なんてしたくない』と駄々をこねておったのに、会わせた途端に乗り気になり、離縁させてからは、もう一度、一緒になれるまで織らないと、朕を脅してきよった」
僕は、とても驚いた。
僕の知ってるベガ姫様は、三度の飯より機織りが好きで、天帝様への脅し文句は、誰より自分の首を絞めていると思ったんだ。
「こんな脅迫に朕が屈するのは業腹だが、あれのこさえる反物は一級品も一級品。それを織らぬと泣き喚かれては、あれの布で作った服を待ちわびる皆の事も考え、折れるしかなかった。そもそも、アルタイルとの淫蕩を700年許していたのも、やがて契りに耽るのに飽き、あの素晴らしい最上級品の反物を織り始めると思っていたからだ。本当に、悔やんでも悔やみきれぬ。端からお前を夫に選んでおけばな…」
そこまで言って天帝は、大きく息を吸って、細くて長い息を吐いた。
「糸を紡ぐ事から始めた13反の布を献上すれば、七夕の節句の夜にだけ、宮の外に出て良い事とした。アルタイルの方にも、それまで通り、きちんと牛の世話をしていれば、その日に限りこちらに渡って来ても良いと許可を出した。陽数の連なる縁起の良い日だ。体中に活力が漲り、血が滾る。二人の様にズッポリと溺れきった経験のある者ならば、体の方がいう事をきかぬだろうから、会えば何をするかなど、解り切っている」
言いながら、眉間の皺が深くなり、忌々しく唇を歪めた天帝様だったが、不意に、唇の端を引き上げて、
「会えたら、の、話だが」
と、鼻で笑った。
「この700年。改心しなかった罰として、アルタイルの子胤は死滅させた。いや、そうしたのは、もっとずっと前か。奴の飼ってた子牛が、飢えて死んだ時に、そうしたのだったかな。兎に角、もし仮に、二人が契りを結んでも、子供だけは絶対にできない。それに、あれから受け取った布が、出来の悪い物であったなら、その時は、七夕の夜に雨を降らし、川の水を溢れさせ、奴は渡って来させないとも言ってある。機で布を織るだけしかしてこなかった娘だ。一本の均一な太さの糸を紡ぐのが、どんなに難しいか知らぬのだ。それから、もう一つ。お前はベガの閨に、出入り自由にしている。少し挑発したら、その事については、あっちが折れた。好いた男と契る為なら、他の男と同衾するのに抵抗は無いようだ。せいぜい可愛がってやってくれ。まぁ、子供を妊る迄は、再婚はしないと言っておったが、牛飼い風情が、浅ましい女にしてくれたものだ」
僕は、ベガ姫様とそうなる事を、口に出して了承してはいなかったけれど、天帝様の中では、僕にそれを告げた時点で、僕とベガ姫様の婚約は決まっていた。
その上、
「あれの執着からして、男恋しさに、試練を成し遂げるかもしれん。もし、そうしたら、すまないが、その時だけは、堪忍してやってくれ。それに、七夕の夜、雨が降ったら、あれの閨に行くがいい。他の日であれば、自分を押さえ、お前を拒むやもしれんが、七夕の夜は、そうはならん。先刻も言ったが、あれの中で暴れる“女”は、その日ばかりは、我慢が効かん。…出戻りの、面倒な女を相手にさすんだ。お前も、それなりの息抜きが必要だろう。鵲族の娘が、お前に惚れてるそうだな。許すから、妾にでもするがいい」
と、アドバイスと、いらぬおせっかいを受けた。
流石は天帝様と言うべきか。
渡し損なっていた杼を持って、ベガ姫様の部屋へ行くと、凄絶なぐらい鋭い目で睨みつけられ、
「寄らないで」
と、差し出した杼を叩き落とされた。
「ベガ姫様…」
女性が、愛してもいない男を拒むのは解る。まして、彼女は、愛しい男がいるのだ。僕を不倶戴天の敵と数えるのは仕方ないが、あれだけ好きだった機織りの道具にまで当たるのが、哀しかった。
「お父様に何て言われたか知らないけど、私と共寝できるなんて思わない事ね。貴方、知らないでしょう。アルタイル様が、どれだけ私を愛おしんでくれたのかを。ただ、子供を作りに来た、貴方なんかとは違う。心の臓が砕けるくらいの恍惚を、何度も、何度も、下さったの。私達を分かつ肉の壁があるのがもどかしくて涙が出たわ。そんな感情を、貴方が私に与えられる? 無理よね。自分だけ気持ちよくなって、眠ってしまうつもりでしょう。そんな中途半端な契りは、余計に体が疼いて辛いのよ。せつないって悲鳴を上げるだけなの」
そう言って、彼女は僕を追い出した。
鵲族の娘は、宮から自分の家に帰る僕を呼び止め、慰めようとしてくれたが、僕はそれを断った。
七夕を待った。
天帝様の仰る通りなら、ベガ姫様は、布を献上できてない。
川が氾濫する大雨が降れば、いくら彼女が、川辺に行ったって、そこに牛飼いのアルタイルはやって来ない。
諦めて帰ってきた彼女を抱いて、僕の方が愛していると、彼女に知って貰うんだ。
七夕の夜。
バラバラと屋根を、回廊を、地面を打ち付ける大雨。
杼を取りに来るのを待っていたあの日の様に待ち続け、ベガ姫様が眠そうな…けれど、満ち足りた顔で帰宅したのは明け方。
眠りについた彼女は、すぐに深い眠りにつき、僕は、トボトボと家路を辿った。
「あたしを邪見にするからよ」
木の影から、鵲族の娘がアッカンベーをして、どこかへ行った。
何があったかは知らないが、解った事は、ベガ姫様は、七月七日の幸運を享受し、僕は不運な七月七日に耐えた。
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