グッドモーニング

ムラサキハルカ

How To Go

 目覚めてすぐの沙綾さあやの視界は暗がりに覆われていた。何度か瞬きをしているうちに、次第に今いる室内の輪郭が浮かびあがってくる。というよりも、住み慣れている家ゆえの、脳内の確認作業の類なのかもしれない。

 沙綾はゆっくりと身を起こしたあと、布団を半ば蹴りあげるようにして振り払ってベッドから下りる。

 途端に冬の冷気が体に触れてくる。とりわけ、眠る時は裸でいることが多いこの沙綾にとってはより直接的に気温の低さが肌に伝わってきたが、家の外に出る前に服を着るという発想にはいたらない。服を着るにしてももう少し先だと、沙綾自身も決めていた。

 程なくして、洗面所に置いてある姿見を覗きこむ。

 映りこむ伸びるままに任せた髪の毛と仏頂面を、沙綾は我が事ながら可愛げがない、と感じていた。しかし、顔かたちや髪型といったものには実のところさほど感心がない。あるのは、体そのものだった。

 幼い頃にに比べれば太くなった両腕。とりわけ、二の腕の膨らみはちょっとしたものだと思う。

 続いて、視線を中心部にやればそれなりに膨らんだ肌色の水風船が二つ。ただただ、重く揺れるだけで邪魔なものなので、さっさと視線を下げる。四つに割れて隆起した腹筋は、毎日鍛えている成果が如実に出ていると言えた。

 更に視線を下げる。付け根からふくらはぎまではパンパンに発達していて、色白なのもあいまって大根みたいだ、と感想を抱き、ほんの少しだけおかしくなる。

 少女はスマホを取りだし、姿見をパシャリと一枚撮ってから、メールの文面を手早く打ち込む。

『グッドモーニング、熊さん。

 今日の私はどうですか?』

 そこに写真を添付してすぐさま送信してから、胸元を押さえる。動悸が高まっていくのを沙綾は感じた。そして、一分ほどあと、ピコンとスマホが鳴るのに合わせて、慌ててディスプレイを確認する。穴倉の中でぬくぬくとするツキノワグマの顔写真にほっこりとしたのも束の間、

『グッドモーニング、沙綾さん。

 人にしてはなかなかいい体なんじゃないでしょうか。けれども、僕からすると少々細過ぎます。これではツガイはおろか食料にもなれません。』

 文面を見て途端に肩を落とした沙綾だったが、すぐさま頬をバチンと叩いて背筋を伸ばすやいなや、屈伸をはじめた。

 根本的に体を作り直さなくては。人の体なんて捨てられるくらいじゃないと、私は。思い悩む沙綾は、服を手早くジャージを着込んでから靴を履き、外に飛び出た。願わくば、熊さんのようになれますように、と。


 /


 幼い時分、沙綾は森の中で迷子になった。

 わんわん泣きながら道もわからずに彷徨っている最中、一頭のオスのツキノワグマに出会った。小娘であるところの沙綾は、この大きな獣の出現に心の底から驚き、動けなくなってしまった。だが、かのツキノワグマは良心的かつ人語を解すほどの知能を有していたせいか、森の中で女の子が熊さんに出会った時の標準的な反応を示した。すなわち、お嬢さんお逃げなさい、というやつである。とはいえ、迷子の迷子の子猫ちゃんあるところの沙綾には、帰り道などとんとわからず、半ば渋々といったかたちで、ツキノワグマが人の道まで案内してくれることとなった。

 最初こそ怯えていた沙綾だったが、背中に乗せてもらっているうちに安心したのか、人語を解する熊に面白い話を求めた。大きな体も、印象が引っくり返れば頼もしさに繋がる。

 ツキノワグマは様々なことを語った。肉やドングリの美味さ、晴れた日のひなたぼっこの気持ち良さ、自らの名の由来とおぼしき月の輪を見上げるときのなんともいえない気持ちなどなど。淡々と穏やかに人語を用いる熊の素朴な暮らしの話は、町暮らしの沙綾にはとてもとても新鮮に聞こえた。

「また、来てもいい?」

 再訪を願い出た女の子に対し、ツキノワグマは、来ないでください、とにべもない断りを入れた。なんで、と尋ねれば、熊は当然のことです、と口にした。

「あなたは本来、僕の食料でしかないのですよ。今日は気が向いたので僕の背中に乗せてはいますが、次に来た時に食料にしないという約束はできません。お腹が空いてたら、確実に食べるでしょう。わかりますか? 本来、僕とあなたはそのような間柄なのです」

 この話を聞いた時の沙綾は、よくわからない、と応じた。良くも悪くも幼すぎた。ツキノワグマは何度も念押しをしてきたものの、結局、別れ際に、またね、と沙綾が手を振った時にはあきらめておざなりに大きな手を振り返していた。


 そして、その時以来、沙綾はお小遣いを溜めたり、父からの遠出の誘いを上手いこと誘導することによって、かのツキノワグマの元へと定期的に通い続けた。

「こんにちは。今日こそ、あなたを食べてしまうかもしれませんよ?」

 そんな熊の言葉に、食べられたくないかな、という意思を伝えると、しようがありませんね、となごやかに流されるので、小康状態が保たれる。

 熊を探す際、沙綾は自分の足で探すつもりでひっそりと森に潜るが、大抵はすぐに向こうが発見してくれた。なぜ、そんなことができるのかと聞けば、臭いと気配でだいたいわかるとの回答が返ってくる。少なくとも、人の身ではなかなか難しそうな業であったが、毎回探しに来てくれることが、沙綾には妙に嬉しかった。

「迷子になられて、他の獣に食い散らからされたら寝覚めが悪いですからね。あなたみたいな骨と皮しかないような小娘でも冬眠前の保存食くらいにはなるでしょうし」

 ホゾンショクというのが私の役目らしい。よくわからないながら自らの役割を受けいれた幼い沙綾は、熊の背中に乗せてもらいつつ、時間いっぱいまでお話を楽しんだ。最初はツキノワグマの森での話を聞くばかりだったが、慣れてくると自らの話をした。お母さんが作ってくれるグラタン、時々連れてってもらえるレストランで食べるお子様ランチ、入学したばかりであまりおいしくないと感じる給食のこと。

 沙綾の話に、あなたの頭も食べ物でいっぱいなんですね、と淡々と語ったあと、

「案外、僕とあなたは似たもの同士なのかもしれません」

 などと口にした。それを聞いた沙綾の内側には小さくない歓びがあふれた。

 じゃあ、わたしがおっきくなったらケッコンしようよ。

 思いつきで口にした言葉は、沙綾にはとても素晴らしく感じられた。しかし、熊の方はといえば溜め息を吐いたあと、

「どうやったら、食べ物とツガえる道理があるのです。それにそんな小枝のような腕や足では、ツガう以前につぶれてしまうではありませんか」

 冷静に沙綾の意見を否定した。女の子にとって、熊の発言はとてもとても悲しいことだったが、素晴らしい思いつきが頭の中で生まれた。

 じゃあ、わたしが熊さんと同じくらい大きくなったら、ケッコンしてくれる?

 半ば反射で口にしたことは、名案に思えた。ようは、同じになればいいのだから、と。素朴な女の子の言葉に、熊はにべもなく、不可能です、と応じた。

「あなたは人で僕は熊です。元々、体の構造が違うのですから同じにはなれません」

 だが、物の道理というものをまだ知らない幼子は、そんなのわからないじゃん、という強い言葉でもって反対してみせたあと、熊の背中に強く抱きついた。むわっとした獣の臭いに、当初は戸惑っていたものの、こうして何度も会ったあとでは、慣れとともに好ましいものへと変化しつつある。きっと、もっともっと好きになるだろう。

 絶対に、熊さんとケッコンするから。

 そう断言する沙綾に、熊は呆れ気味に勝手にしてくださいと口にするのみだった。


 /


 ランニングでジムに向かったあと、自らの限界値に近い重量のバーベルを上げ終わり、休憩に入った沙綾の頭には、雑念が噴きあがってくる。

 こんなことをしていても無駄ではないのか、と。

 幼い頃から、全ては体を大きくすることに注いでいた。とにかく大きくなりたいと周囲の人間に相談した結果、食生活を見直し、体を鍛え上げることになった。焦ってはダメだといわれてゆっくりと体を成長させたあと、高校になり本格的な筋トレを始めた頃には、横にも縦にも体は肥大しはじめ、沙綾は少なからぬ期待を持った。少なくともサイズ感だけであれば、熊と近くなったのだから当然だ。

 これならば、熊さんと結婚できるんじゃないか。

 中学高校にもなれば、さすがにツキノワグマ自身が口にした、保存食という言葉の意味もわかっているし、食う食われるの関係であるというのにも理解は及んでいる。それでも、子供の頃から続いている純粋にも近い気持ちには一点の曇りもなかった。実質、そのためだけに生きていた、というのもあるだろうが、最悪、熊の糧になるしかないともなれば、それはそれで受け入れられるという強い気持ちがあった。

 しかし、何度会いに行っても、ツキノワグマは結婚して欲しいという提案に首を横に振るばかりだった。

「あなたはまだまだ細過ぎます。それでは保存食はおろか遊び道具にもなりません」

 狩ったばかりとおぼしきカモシカを食しながら、つまらなさそうに喋る熊の言葉に、沙綾としても反感を抱かなくもない。とはいえ、納得するところもなくはない。一見したところの大きさや体重が近くなろうとも、内側に詰まっている筋肉の量や、爪や歯の鋭さなどはおよぶところはない。毛皮ごと肉を引きちぎるだけの歯と顎の力を人間であるところの沙綾は持ち合わせていないし、カモシカを素手で狩れるかどうかも怪しい。

「人は人とツガうべきです。少なくとも、人の身でみればあなたは強いメスなのですから、その点は誇るべきです」

 なぐさめているのかいないのかよくわからない淡々とした声音に、私が結婚したいのはあなただけですから他の人間にモテても意味がないです、と強く応じる。その言葉にツキノワグマはスーッと目を細めた。

「意味のない執着です。人というものは無駄なことに時間を費やすものなのですね」

 その言葉は落胆か呆れか同情だったのか。とにもかくにも、この言を覆せないまま、更に数年、いたずらに時を費やし続けている。

 もう、やめればいいのではないのでは。沙綾自身の中にもあきらめの念が湧きはじめている。それは人間の身体という限界に差しかかっているからという理由に加えて、熊自身の限界というものも頭に過ぎっていたゆえだった。熊はいつまで経っても調子が変わらないゆえに、勘違いしそうになるが、おそらく寿命が近い。人語を喋る常識外の存在であるゆえに、そんなこと気にする必要はないのかもしれないが、種族としての限界を散々解いてきたあのツキノワグマのことだから、寿命もさほど普通の熊と変わらないと考えるのが妥当だろう、という不安がある。

 もしも、熊さんが先にいなくなってしまったら。想像できないほどの虚無が胸の中に巣食ってどこまでも沈みこみそうになる。想像もできないし、考えたくなかった。

 首を強く横に何度も振ったあと、ふと窓ガラスの方を向いて、目を細めた。

「……頑張ろう」

 自らにそう言い聞かせる。


 *


 今日二度目のスマホのバイブレーションに、ツキノワグマはのそのそと体を動かした。あまり、この時期は体を動かしたくないのにあの非常食さんは、と愚痴を口にしつつ、数年前、その非常食からいつでも連絡が取れるようにと渡されて以降、延々と使い続けている機械の表面を壊さないように細心の注意を払いなぞる。

『お休みしている時間なのに、二度もすいません。

 とても綺麗な朝日なのでおすそ分けです。早く、春になって熊さんに会いたいです。』

 文面の下には、ビル街の合間に淡い朝日が降り注いでいる写真が添付されていた。ツキノワグマは、それを何度か見たあと、

「汚い街ですね」

 と呟いたあと、大きく伸びをする。それはそれとして、早く外に出て、ひなたぼっこなどがしたい、と冬眠中の熊としては思い感じたりもした。その時には、あの結婚をせがんでくる非常食の娘もいるんだろうな、と頭に浮かべると、面倒くさいような安堵するようななんともいえない気持ちが体中に染みわたっていく気がして、再び目を閉じた。早く春が来るといい、と奇しくも非常食の娘と同じ気持ちを抱きながら、ツキノワグマは不思議と満たされていた。

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