第14話 暖かい雨

「さっき聞かれたことだけど……」


 あの人はベッドの脇にあった椅子に腰をおろし、うつむいたままでいる。

 何を言われるのか身構えてしまう。最悪なシーンは見ているけれど、それでも改めて何かを言われるとなると、心が委縮してしまう。


「僕は――」


 元もと私が彼に惹かれ、何年も意味のないつき合いを続けていたことは、誰からともなく聞いて知っていたという。

 確かに、最初に告白らしきものをされたときに、思う相手がいるのは知っている、と言っていた。


 少しずつ近づいた気がしていたのに、何気なくした会話の中で、今度の旅行先がどうやら彼との思い出の場所らしいと、小耳に挟んだ。

 それでも、二人で行けば楽しいだろう。忘れられない過去があるのなら、もっといい今を作ればいいだけだ。

 けれど、楽しそうに準備を進める私を見て、不安と猜疑心がもたげてきたと、彼は言った。


「もしも二人で行くことに意味を感じてくれるなら、行き先が変わっても問題なく一緒に来てくれるだろうと」


 対して私は、ゆるくごねた。もう宿は取ってあるし、電車の切符も……。

 準備がそこまで進んでいるのにと、日数もあまりないのに、今から他の宿を探せるのかわからないじゃない?

 僕にとっては、一番大事なのはキミと出かけることなのに、キミの心の中は違う思いが占めている。今よりも過去を大切にしているふうにも見えた。


 そばにいすぎたんだろうか?

 少しは離れたほうがいいんだろうか?

 そうしたら僕のことも、追って来てくれるんだろうか?


 ずるい思いが頭をかすめ、僕はキミを試した。距離を置けば……。感情が邪魔をして数日は連絡もないかもしれない。でもきっと時間が経って冷静になれば、キミのほうから連絡をくれる。


 なのに、三日経っても四日経っても連絡はこない。会社ではフロアも違うから会うこともない。不安な思いを余所に時間は過ぎて、予定していた旅行の日まで一週間を切っていた。

 連絡をしてみようとも思ったけれど、中途半端に過ぎた時間がためらわせる。

 出会ってから、こんなに長く離れていたことは多分ない。数分おきに携帯を眺め見ることが増えた。会いたくて会いたくてたまらないのに、一向に連絡はこない。


「一人でいるあいだに、いろいろなことを考えた。どうあってもキミの中に残っている彼に敵わないなら、このまま離れてしまおうかとも思った」


 それでも、会いたい。

 第一……キミが誰を思っていても構わない、それでもいいと言ったのは僕のほうだ。

 何年でも待つつもりが、たった一年でこれか。何て情けない男だろう。

 まだ間に合うだろうか。まだ許されるのならキミと向き合って、今度は前よりもちゃんと僕の気持ちをキミに伝えようと、電話を入れるよりも先に会いに向かった。


 ところがキミは引っ越しをしてしまっていた。会社にも退職願が出され、有給消化で出社もしていない。

 僕は焦ってキミを探そうとした。けれど急にどうしても外せない出張が入ってしまって、身動きも取れない。仕方なく空いた時間に何度も電話を入れた。

 何度かけても出てもらえないのは、もう会いたくないということかもしれない。


「それでも諦めきれなくて、旅行のために取っていた休みはそのままにしてあったから、仕事が終わったあと、出張先から直接ここへ来たんだ」


 宿へ着いたら、キミはどうやら見晴らし台へ向かったらしいと言われた。急いで追ったけれど、見晴らし台にはもうキミの姿はなく、必死に散策ルートを探した。やっと見つけたとき、キミは川沿いの柵の向こう側にいた。


「キミを疑って試すようなことをしなければ、最初から一緒にここへ来ていれば、こんなことにはならなかったのに」


 窓ガラスを打つ雨音が耳に届いた。ふと窓を見ても、外は晴れて雨など降っていない。

 あの人が私の手を取ったのと同時に、雨の中を走る自分の姿が浮かんだ。女の人と一緒にいたのを見た日の冷たい雨とは違う、優しくて温かいような雨だ。

 あの日以来、ずっと晴れた日が続いて、雨に打たれた覚えなどないのに。

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