第12話 ランプの灯

「お待たせしました。ご注文いただいたコーヒーです」


 一瞬、気を失ったような感覚に、ビクンと体が震えた。

 窓の外はさらに雨が勢いを増している。

 目の前に湯気の立ったコーヒーを置かれ、横を見るとマスターがトレイを片手に、ニッコリと微笑んでいた。


 さっきまで食べていたはずのケーキの皿も、ココアのカップもない。

 隣にいたはずの女の子の姿もない。

 ここへきて、最初に注文したコーヒーはもう飲み終えた、と思う。

 じゃあ、これは――?


「あの……これは……?」

「ご注文いただいた、コーヒーです」

「でも、私もう、いただいたんですが」

「いえ、これが最初にお出しするコーヒーですよ」


 錯覚でも起こしたのだろうか?

 そう言われると、コーヒーもココアも飲んだと言うのに、酷く喉が乾いている。

 寝不足のせいで、うとうとして夢でも見ていたんだろうか?

 外の景色は、さっきまで薄暗かったはずなのに、今は、雨が降っているとはいえ、まだ明るい。


「雨、止みませんね」

「えっ? えぇ、そうですね」


 マスターは窓越しに空を見上げている。

 私も釣られて空を見上げる。さっきも、同じように空を見上げた気がする……。


「このままだと、もっと雨足が強くなりそうですよ」

「はぁ……そうですか……」

「そろそろ、いいんじゃないですか?」

「えっ?」


 言われた意味がわからず、顔をあげてマスターを見た。


「あの、何を……」

「気づいた思いを、伝えてあげてもいいんじゃないですか? こんなにも待っているじゃないですか」


 待っている?

 私を待っている人なんてどこにもいない。

 冷え切った体が、急にぶるっと震えた。寒いはずなのに、右の掌だけがほのかに温かい気がするのは何故だろう?

 ランプの中の丸い灯は、外の明るさににじんで弱い光を放っている。最初はもっと、明るい中でも輝いて見えたのに。


「弱まっているでしょう? あまり時間が経つと、良くないんです」


 女の子に、どうやって来たのかと聞かれた。私は列車の窓から、この店を眺めただけだった。

 それに……。

 私は渓流で、親子連れが落とした帽子を拾ってあげて、そして立ちくらみがして……。


「私……もしかして死んだのかしら……?」

「まさか。ただ、あまり長く出歩くのは良くないんです。それから、あなたはずっと寂しそうに携帯を見つめて、着信がないと落ち込んでいたようですけど、良く見てごらんなさい」


 カバンを指さされ、私は携帯を取り出して開いた。

 あんなに何度も見て確認したのに、着信など一度もありはしなかったのに、履歴はあの人の名前で埋め尽くされている。


「どうして……」

「あなたはずっと後悔していた。見えるはずのものも見ようとはしなかった。あるはずがないと否定する思いが、目隠しをしていたんですよ」

「私、行かなきゃ……」


はやる思いが胸を掻き立てる。急いで帰らなければ、あの人に会って、ちゃんと伝えなければ。

 カウンターにコーヒー代を置くと、ドアを開けた。ポッとランプが光を強め、私は丸い灯を見つめた。

 光の向こうで、祈るように組んだ手を額にあてているあの人が見える。あの人の頬を涙が伝い落ちた次の瞬間、ほんのりと温かい雨粒が私の頬に当たった。


「駅まではすぐですけど、まだ雨が降っていますね。傘をお持ちになりますか?」

「ありがとうございます……けど、この雨はとても温かいので……私、このまま走って行きます」

「そうですか。お気をつけて」

「あっ、あの女の子……あの子にもお礼を言いたいんですけど」


 マスターは少し困った顔で微笑んだ。


「うちの店は、私一人でやっているんです。女の子は、いないんですよ」

「えっ? でも私、確かに……」

「それより早く行かないと。駅は明かりがあるから、暗くても大丈夫ですね?」


 暗くなった白樺の並木道の向こうに、煌々とした明かりが見える。私はうなずくと、その明りに向かって走り出した。


「ありがとうございました」


 背中にマスターの声を聞き、ちらりと振り返ってランプを見た。弱かった灯が、ぽうっと灯を強くしたように見えた。

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