第10話 棄てきれないもの
旅行前夜。
私はそれまでのあいだに、会社へ退職願を出した。有給消化と称して最後の日まで出社をしないことに決めた。
認められずに解雇になったところで、今は何の問題もない。
朝には、あの場所へと旅立ち、予定通りの日程を消化したあと、戻ってから今後のことはゆっくりと考えよう。
新しく部屋を借り、仕事を探し、ゼロから出発するのも、きっと悪くはないんじゃないだろうか?
最後に携帯ショップへ向かい、新しい機種へと変更をし、アドレス帳は移さないまま、古い携帯はショップへ引き取ってもらった。
眠れないままに朝を迎え、私は今日、ここへとやってきた。
観光をしたくて、朝の早い時間に予約をしていた特急列車に乗り、隣の席は空いたままで……。
振り返ればいつでもそばにいて、寂しいときや不安なときには、寄り添ってくれる。あの人はいつしか私の中で大きくなり、とても大切な愛おしい存在に変わっていた。
今さら、その気持ちに気づいたところでもうどうにもならないのなら、その思いもいっそ、あの場所へ置いてきてしまおう。そう、決心したはずなのに……。
私の心は浅ましく、未練がましく、今でも連絡を待って携帯に触れる。待ち人は彼じゃない。あの人だ。
「大人って変なの。そんなに急に、何でも捨てようとしなくてもいいと思うんだけどな」
女の子はカウンターに両肘を乗せ、頬づえをつくと、ふうっとため息をもらした。
「そんなことをするんなら、ちゃんと言葉で気持ちを相手に伝えるほうが、ずっと楽だし時間だってかからないのにね」
「そう……ね」
「それに口に出さなきゃ、何を思っているかなんてわからないじゃない? 好きとか嫌いとか、大切な思いは特に」
「…………」
「確かに勇気のいることもあるだろうけど……でも、お姉さんがちゃんと気持ちを伝えていたら、それはきっと通じていたと思うな」
女の子は、まだ頬づえをついたままで、ガラス越しに空を見上げている。私も釣られて空を見上げた。
鈍い鉛色の空は、大きな雨粒を惜しみなく落としている。
ちゃんと伝えれば良かった。私の気持ちを。こんなふうに逃げるように何もかもを棄ててしまうくらいなら、最後にちゃんと……。
でも、でも私は――。
「私は恐かったの。思いが伝わらないことじゃなくて、伝えようとする言葉をさえぎられるのが。また棄てられてしまうのが」
「私、きっとその人は、ちゃんと聞いてくれたと思う。いいことも、悪いことも。そうじゃなきゃ、跡を追いかけたりしないし、こんなに雨も降らないもん」
――雨?
跡を追うって何のこと?
女の子は手を伸ばし、ガラスについた雨粒を指で追って滑らせると、椅子を回して体ごと私に向いた。
「ねぇ、お姉さんは今日、ここにどうやって来たの?」
「えっ? 私は……電車で……ふとここが目に入って気になったから、途中下車をして……」
「知ってる? この駅ねぇ、特急は止まらないんだよ? お姉さん、予約した特急に乗っていたんでしょ?」
女の子の目をじっと見つめながら、頭の中では自分の行動の端々が頭に浮かぶ。
東京駅のホームで、私はチケットを片手に席を探した。六両目、八列目のA、窓際の席だった。
隣の席は空席なんだからと、網棚に荷物を乗せず、空いた席へと置いた……。
列車の窓から先頭車両が見えそうなくらいかたむいたとき、私はこの店を見つけた。不思議なランプに目を惹かれ、帰りに寄ってみようか、などと思いながら、視界から消えるまで見続けたのだ。
そうして私は目的地の駅を降り、バスへと乗り換えてから、予約した宿へチェックした。
予約では二人だったのが一人だったことを、宿の人が訝しそうにしていたので、私は連れが仕事に追われ、あとから来るとごまかした。
宿泊の予定は二日、最後まで私一人でも特に問題にはならないだろう。宿泊料を二人分請求されたところで、それも問題ないように準備はしてきたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます