Désarroir 混沌の古事伝

天海女龍太郎

はじまりの物語

 はるか遠い昔々のお話でございます。

 かつて、筑紫の島は、全体で「マ」の島と呼ばれておりました。島の北側一帯を「ヤマ」の国、南側を「クマ」の国と呼び分けていたのでございます。「ヤマ」随一の国である「ナ」の国が、私の生まれ育った国です。一方、クマの国は、東にそびえる高千穂の山々の麓に広がる「オオクマ」の国と西の海に面したカサダの里を中心とした「サクマ」の国に分かれておりました。


 「礼」が静かに語り始めた。かねては几帳を衝立にし、その向こうで物語るのが常だったが、今宵は、私の目の前に座っている。


 物語りを始めた最初の日、私は、二人の間に目隠しの衝立を置くことを提案した。姿を隠すようにしたのは、まず、その方が気持ちを集中することができるのではないかと考えたからだ。古い記憶も鮮明に思い出されるのではないかと思われたのだ。

「そんなこと」と礼は微笑みながら呟いた。「気になさらずとも結構ですわ。傍に人がいようがいまいが、辺りが明るかろうが暗かろうが、古ごとを語るのに、何の支障もありません。衝立など、必要ございません。もっと、お側に。その方が、話を聴き取り易うございましょう。」

「いや」と私。「このまま、少し距離を置いて始めましょう。」

 他にも理由があった。

 礼が文字を読むことができないと知ってはいたものの、彼女の諳んじる古ごとを、私が聴き取り、文章に書き起こすところを見られたくなかったからだ。礼には、彼女が語る古ごとの全てを後世に書き残すと約束していた。しかし、それは、私がやんごとなきお方から与えられた使命とは大きくかけ離れていた。私は、彼女の語らう古ごとのうちから都合のよいものだけを選んで、これを記録し、その余は、この世から完全に消し去らなければならない。礼の語る古ごとは、そのほとんどが書き残すべきではないものだったのだ。

 時の帝が国産みの神々の末裔であり、正統であるということが真実であり、それこそがこの世の摂理であると、歴史に刻み付けることが私の役割だ。これまでに文字に記された史書はなく、私が書き残す古ごとの記が歴史そのものになるのだ。したがって、諸家に語り継がれてきた伝承は、私が聴くことによって、永遠に封印されるのだ。そうすることによって過去の事実を捻じ曲げているとは思わない。私は、自分の信じるままに、いわゆる正しい歴史を記録するまでだ。何が真実であるかなど、誰にも決めることなどできないはずだ。切り取り方次第で、事実は様々な歴史として記録されていく。時代が求める事実こそが真実なのだ。

 また、古ごとの記が後世にどのような評価を受けるのかなどと考えることも意味のないことだ。古ごとの記自体も、賢きところに報告するための、いわば途中の資料に過ぎない。古ごとの記の中で諸家に伝わる全ての歴史を整理した上で、これを国記としてまとめ上げることが私の最終目標だ。国記の名称も既に決めていた。「日の本の紀」だ。そこには、一切の迷いも遠慮も差し挟むことは許されない。時の帝に対する絶対的な忠誠心と御世の永遠なることを願望する確固たる信念をもって、史実を記録しなければならない。そのためには、それが事実であろうとの蓋然性がいかに高い言い伝えであっても、ときの帝を頂点に仰ぐ体制の本流に逆らう伝承は、消し去ってしまわなければならない。そのような話が、密かに、細々と語り継がれていくことを許してはいけない。

 それは一大事業だった。この春、まだ桃の花が咲き始める前に、内裏に呼ばれた私は、帝の御前において、この事業の総責任者である舎人親王から、この事業の目的と重要性について説明を受けた。

「やがて、民が語る言葉もそれを記す文字も一つの形に統一され、同じ言語をもって、誰もが書物によって事実を伝え、記録するようになるであろう。我々は、あらかじめ十分に準備をしておかなければならない。民に選択の余地を与えてはいけない。たとえ多くの民の意に反したとしても、永久に語り継がれるべき古ごとは、唯一我々の信奉するものでなければならない。」

 親王の言葉は重く、また、極めて説得力のあるものだった。親王は続けた。

「また、我々の古ごとに辻褄の合わないところや話の欠落した部分があれば、埋もれた諸家の古ごとの中から適当な話を拾い集め、これをうまく組み合わせて、古ごと全体が正しく真実を伝えていると信じられるようにしなければならない。作り事であると疑われるようなものであってはならない。」

「そなたの力はよく承知している。言葉をよく理解し、これを書き起こすことについては、誰も並ぶものがないと聞いている。帝もそなたのことが大層お気に入りだ。」

「そなたに命ずる。これよりは、諸家に伝わる古ごとをすべて洗い出し、我らの意にかなったもののみ記録し、それ以外は、そなたの心の中に永遠に封印するのだ。そなたにならできようの、安麻呂。」

「仰せのままに。」

 私は、舎人親王の話を聞いて、この事業の趣旨をよく理解した。そして、帝の信頼を得て、この事業の担い手に抜擢されたことを光栄に思った。

 それからは、都中の家々を回って聴き取りを行うのが、私の毎日の仕事になった。しかし、それは、特に大きな困難を伴う作業ではなかった。ほとんどの家の古ごとが、帝に付き従ってきた臣の立場で語られており、特異な伝承となっているものはなく、いずれも主家である帝を崇める内容となっていたのだ。帝から、あらぬ反動の嫌疑をかけられて訴追されることを恐れ、正直に伝承が語られないのではないかと心配していたが、拍子抜けするほど、順調に進んでいた。恐るるに足らぬと、私は思った。

 ある日、再び内裏に呼ばれた私は、新たな指示を受けた。舎人の礼という女に会って話を聴け、というものだった。

「女でありながら舎人ですか。」

と、私は聞き返した。舎人とは、身分はそれほど高くはないが、帝や皇族の傍に仕え、雑務を行う役人である。一般的に男の仕事であった。

「礼という女は、異能の持ち主。聡明で、一度聞き覚えたことは決して忘れず、言葉の端はしに至るまで完璧に記憶し、いつでもすらすらと暗誦することができるという。聞くところによると、出自の家に伝わる膨大な量の古ごとを心に刻んでいるということだ。」

「どこの家の者です。」

「猿目の君の子孫、稗田の家の者だ。」

「それでは、元は筑紫の島の出ですか。場合によっては、消し去ってしまわなければならない話もあるかもしれませんね。」

 うんと親王は頷いた。

「礼の話を葬り去ることによって、筑紫や隼人の民に伝わる古ごとを完全に消し去ることができるかも知れん。大変な仕事だが、やってくれるな。」

「仰せのままに。」

 それほど難しい仕事だとは思っていなかった。大した話は聴けないだろう。所詮は、帝に仕える舎人なのだから。そんなふうに軽く考えていた。礼に出会い、その話を聴くまでは。

 礼の住まう屋敷は都のはずれにあった。初めて礼の屋敷を尋ねたとき、牛車で半時も揺られてようやくたどり着くことができた。門に入るが、静かだ。人の気配がなかった。留守かとも思ったが、再度声をかける。しばらくして、奥から女が出てきた。静かに笑みをたたえている。清楚で上品な物腰だ。用向きを伝え、礼への取次ぎを頼んだ。女はくすりと笑って、「どうぞ、中へ。」と言った。促されるままに、家の奥に進んだ。暗い廊下を通り抜けると、広い部屋に出た。女は部屋の奥でくるりと振り返り、それから私に座るように促してから、自分も几帳の陰の床に腰をおろした。

「稗田の礼と申します。」

 私が腰をおろすと、女は口を開いた。

 従者だと思っていたのが、訪ねた本人であったことが分かって、私は、少なからず動揺した。

「太安万侶です。」

 礼は、私よりはるかに年上のはずだった。しかし、年老いた風には少しも見えなかった。背筋をすっと伸ばして片膝を立てて座した姿は、凛として気品があった。

「太安万侶様。」

 確かめるように、私の名前を復唱して、

「お噂はかねがねお伺いしておりますわ。国史を編纂なさっているとか。」

「どこでそんな話を。」

 礼は、ふふと笑って、

「一人で住まっておりますと、いろんな人が訪ねて参りますの。皆おしゃべり好きで、この場に居ながら世の中のことは全て分かるのでございますよ。」

「一人でお住まいなのですか。」

「ええ。もう随分長いこと一人暮らしですわ。」

「寂しくはありませんか。」

「私は、物語の中に住んでおります。寂しいことなど、ちっとも。それに、先程も申し上げたとおり、毎晩のように大勢の客がありましてよ。うらぶれた屋敷で、そんな風には見えないかもしれませんが。」

「誰が訪ねてくるというのです。」

 礼は、微かに頷きながら、静かに答える。

「身内の者とでも言いましょうか。散りじりになっている一族の者たちが、夜半、私の話を聴きに集まってくるのです。私の話を聴いて、皆、古に思いを致すのです。」

「身内というのは、稗田の家の方々ですか。」

 それには答えず、礼は、

「あなた様も、私の話をお聞きになりたくて来られたのでしょう。私が、これまでに聞き覚えた諸家に伝わる伝承の数々、埋もれた過去の全てを。」

「話していただけますか。」

 私は身を乗り出した。

「あなたは、一度聞いた話を決してお忘れにならないそうだ。幼い頃から、あなたが記憶にとどめてきた言い伝えは、膨大なものなのでしょう。あなたほど多くの知識を持っている語り部は、他にはいないと思います。それを、私に記録させてもらえませんか。人の記憶は永遠ではない。いつかは忘れ去られてしまいます。しかし、文字にすれば、いつまでも消えることはない。そして、文字を学びさえすれば、誰もが、いつでも、それを読むことができるようになるのです。」

 礼は、目を伏せて、しばらく考えていた。心の中で、誰かと相談しているようにも見えた。先祖の霊たちの許しを請うているのかも知れないと思った。

 長い時間が過ぎたように感じた。屋敷の外で、虫が鳴いているのが聞こえる。静かだった。虫の声に耳を澄ませていると、深い静けさの中に礼が溶けていき、その存在が、空気と一体になってしまうような気がした。虫の声さえ、礼の体をすり抜けていくような、不思議な雰囲気があった。礼の姿は目に映っているのに、見えていない感じだった。私の魂が身体から抜け出して、礼の物語の世界に入り込んでしまっているのかもしれない。

 礼に見つめられているのに気づいて、私は、はっと我に帰った。礼子が、にこりと微笑んだ。

「お話はよく分かりました。話を聴いていただきましょう。そして、それを文字に残していただきましょう。」

 ただ一つ、条件があるという。それは、礼の語る古ごとを全て記録するということだ。取捨選択することなく、全てを文字に書き起こし、それを後世に伝えるというものだった。私は即座に了解した。戸惑いを表に出して、心変わりされるわけにはいかなかった。そうして、決して果たすことのできない約束を交わしたのだった。

 礼が私の言葉を本当に信じたのかは、よく分からない。しかし、礼は、約束どおり次の日から物語を始めてくれた。

「最初のお話は。」と礼が尋ねる。

 いつ、どこから語り始めるかは、私の選択に任せると言う。太古の昔から今日に至るまで、どの時代の話からでもよいと礼は言った。長い話になるのだと、私は思った。無論それは覚悟の上だ。

「やはり、最初は、物語の初めから。」と、私は答えた。礼が小さく「はい。」と応じた。

 そして、衝立の向こうで、太古の昔からの長い長い物語が静かに語り始められた。

「今では遠いはるかな昔、天地は、いまだ分かたれておらず、混沌として、時間も、空間も、全てが混ざり合って、一体となったその中にあって、天地の理とでもいうべき神々の御業が、そそかしらと芽吹いて、その完成の時を待っていたのでございます。」

 すらすらと少しの淀みなく語られた最初の一節で、私は、すっかり呆気にとられ、思わず笑い声を発してしまった。

「どうなさいました。」

「いや、失敬。いきなり、大層難しい話ですね。」

 礼の口から語られた言葉は、既に完璧な文章の体をなしており、改めて書き起こすまでもなかった。しかし、この先、この調子ではついていけない。

「第一、私には混沌の意味が分からない。いや、私だけでなく、恐らく誰も理解できないでしょう。時間と空間が混ざり合うとは、一体どういうことですか。時には、始まりがあり、途切れることのない流れがあるでしょう。空間の広がりにだって、初めの一歩があるでしょう。」

 礼が、ついと立ち上がって、衝立の向こうに姿を現した。見上げる私に、礼は落ち着いた様子で語りかける。

「時が流れているものと感じるのは、人がそのように思うだけのこと。物事に始まりがあって、全てが終わりに向かって進んでいるものと、あなた様がただ思い込んでいるだけかもしれませんよ。時が流れているという考えに囚われたために、見失った道理があるかもしれません。何が真理であるかは、誰にも分からぬことではありませんか。」

「しかし、実際のところ、過ぎ去った古があってこそ、現世があり、そうして、いまだ訪れぬ明日があるのでしょう。この事実は変えようがない。」

「それでは」と礼。

「絵巻を思い浮かべてください。絵巻は端から見ていくと物語が順を追って進んでいきます。始めがあって、やがて物語の終わりにたどり着く。けれども、全てを広げてみると、始まりも終わりも、元々一枚の紙の上に描かれたものでしょう。時は、流れているのではなく、元々そこにあるものなのです。誕生も、滅びも、同じこの一瞬のうちにあります。今は昔であり、行き着く先も今なのです。今ここにあることだけが、真のこと。だからこそ、時を越えて旅することなどできないのです。済んでしまったことをやり直そうとしても、失ったものは元通りにすることができないのです。あの時は、こうすべきだったとか、こうしていれば結果が変わっていたかもしれないなどと思い悩むことは、全く意味を持たないことなのです。」

「それでは、あなたは、運命が定められたものとお考えなのですか。絵巻のように、お終いに何が待っているかは、初めから決められているものと。」

「いいえ、そうは思いません。絵巻を例にして説明したのは、時を理解してもらうためです。世の中のことは、例えて言えば、何も描かれていない真っ白な巻物です。時に縛られなければ、私たちは、そこに始まりと終わりとを同時に目にすることができるでしょう。過去にとらわれたり、未来に怯えたりすることもない。確かな真実は、今この瞬間にあるベくしてあること、それだけです。」

 礼が衝立の脇をすり抜けて、するすると近寄り、私の傍らに寄り添うようにして囁いた。

「何より大事なことは、私の話を聴くのに、物語の結末や、話の先を予想しないでいただきたいということです。神々の営みを理解するためには、何の用意もせず、無心に聴いてもらわなければなりません。いかに美しい花でも、初めから色を押し付けて眺めていては、真実の色を見出すことはできないでしょう。これまでとは、考え方を異にしていただきたいのです。そうしなければ、私のことも、私の語る古ごとも理解してはいただけないでしょう。」

 見透かされている、と私は思った。時の帝の威光を確かなものとするため、内容のいかんにかかわらず、諸家に伝わる伝承を都合よく整理してしまおうという、こちらの意図は、すっかりばれてしまっているものと思われた。しかし、ここはしらを切り通すしかない。

「分かりました。無垢の状態で話を聴くように努力しましょう。けれども、私の頭では、あなたの言う混沌を理解するのは難しい。この話は、この辺りでやめにしましょう。とりあえず、もう少し話の筋が見えるところから、お願いできませんか。」

 ふふふ、と笑った。了承ということだ。礼は、衣の裾をふわりと翻えらせながら、ひらりと衝立の向こうに戻った。

「それでは、改めて始めましょう。」

 それからの話は分かり易いものだった。

 礼子の話によれば、話の大筋は、先帝の御世に編纂が試みられた帝紀と旧辞に集めまとめられていたものを詠み習ったとのことだった。それらの史書は散逸し、或いは、政争のさなか、書庫に放たれた火によって燃え尽きてしまったという。古ごとの内容を知る人々は、それを「先の代の古ごと」として代々語り継いできた。それは、諸家に伝わる伝承とともに、それらに様々に影響され、表現や内容を少しずつ変えながら、今日まで残されてきたのだ。そうした中で、礼は、幼い頃から、その天賦の才を買われて、宮中にしばしば招聘され、皇家に直接伝わる、最も原型に近いものと信頼できる内容の古ごとを詠み習わされてきた。したがって、基本的にその内容は帝の意向に沿ったものと言ってよかった。これらを集めて構成すれば、壮大な神々の歴史物語ができあがるはずだ。私の仕事も順調に進むものと思われた。

 しかしながら、礼の語る話の中には、私たちがよく知る古ごとと明らかに異なるものもあった。それらの話は、いかに話の筋が通っていて、信憑性の高いものと思われるものであったとしても、決して認めることのできない物語だった。そもそも、さきの帝紀や旧辞に事実そのような内容のものがあったのか、それとも、稗田の家に伝わる別な物語であるのか、今となっては確かめる術がない。礼にも、それは分からないという。

「私は、先人たちから聞かされ、詠み覚えたものを伝えるだけです。ただ、私の語る古ごとを聴きに来る身内の者たちは、皆それを事実だと思っております。私も、そう信じておりますわ。」

 それが困るのだ、と私は思う。都合の悪い古ごとが、真実の物語として、人々に伝えられていくことを何としても避けなければならない。それにしても、古ごとを夜な夜な聴きに来る身内とは、一体どんな連中だろう。私は興味を覚えた。

 礼の話を聴くのは、大体日が暮れるまでと決まっていた。特にそのように二人で取り決めたわけではなかったが、日が暮れかけて、部屋に明かりが必要となるころ、「続きは、また明日。」ということになる。私は、迎えの牛車に揺られて、都大路に戻っていく。したがって、その後礼のもとに誰が訪ねてくるのか私は知らない。知っておく必要があるかもしれない。私はそう思い始めていた。礼の話を聴けば聴くほど、彼女のことをもっと知りたいと思うようになっていった。彼女自身のことも、そしてその取り巻きのことも、全て知りたかった。

 思えば、不思議な女性だった。礼がどんな人物なのか、どのように暮らしてきたのか、皆目見当がつかない。壮大な物語の中に住んでいながら、彼女自身のことは、生い立ちも、性格も、一切語られない。まるで実体がないかのようだ。第一、年齢さえはっきりしない。かなりの高齢のはずだが、語り口調にも、所作にも、老いた感じは全くなかった。神々の深遠な物語を、たった今見てきたかのように明瞭に、詳細に語ることができるのだが、そのことが彼女の存在に神秘性を与えていた。実は、魔物のように何百年も生き抜いてきたのではないかとさえ思われた。神々の物語は、伝承として単に礼の口を介して語られているばかりではなく、彼女自身がその時々に、その場所に居合わせた当事者であり、つまり、語られる古ごとは彼女自身の物語にほかならないのではないか。そんなことはあり得ない、事実であるはずがないと思っていながら、そう考えると何もかもが、合点がいった。礼が初めに私に語った、時は流れなのではなく、何も描かれていない一枚の絵巻のようなものであるということが、何となくではあるが理解できそうな気がした。

 日を経るに従って、礼自身のことを知りたいという思いは募る一方だった。その他の話は、聴いても上の空だった。おかしな話だが、それは恋心と似た感情であるといってよかった。少しでも近づきたいと思った。二人の間の垣根を取り払いたかった。

 ある日、日没を迎え、いつものように礼の屋敷を辞しての帰り、私は気まぐれに冒険を思い立った。礼の屋敷に引き返してみようと考えたのである。日が暮れた後の礼の暮らしを覗いてみたいと思った。また、夜な夜な礼のもとを訪れるという「身内の者」の正体を知りたいとも思った。

 御者に牛車を戻すように指示を出す。御者は、えっというような顔をした。不安げな面持ちである。

「本当に、これからお戻りになるのですか。」

「そうだ。」と私。御者は、明らかに迷惑そうな表情をして、

「でも、すぐに真っ暗になってしまいますよ。」

 当時は、日が暮れた後は、暗い夜道に鬼や物の怪が出没して、帰りそびれた人々を襲うと信じられていた。御者は怖がっているのだ。

「いいんだ。私を送り届けたら、お前は先に帰っていてよいから、私を稗田の屋敷まで連れて戻っておくれ。」

 御者はしぶしぶ牛車を転回し、もと来た道を戻り始めた。御者はびくびくして、落ち着かない様子で、行き着く先を見据えている。

 大路のあちらこちらから、獣の遠吠えが聞こえてきた。声が上がる度に御者はびくりと体を硬くした。

 顔におどろおどろしい刺青をした者や色黒で彫りが深く、眉毛やひげの濃い、異国の民のような顔立ちの者達が、辻々に立って、鬼や邪気を払うために、ホウッ、ホウッと虚空に向けて犬のように咆哮していた。隼人の民である。隼人の民が、手に手に渦巻き文様の描かれた盾を持って、足を踏み鳴らしながら、吼えているのである。鬼も恐れて近づくまいと思われた。その姿は、勇壮ではあるが、どこかしら悲しげでもあった。

 牛車は、その咆哮に追い立てられるように、稗田の館に急いだ。咆哮が途絶えてしまったら、鬼や魔物が襲ってくるかのように思われた。

 幸い、魔物らに襲われることなく、牛車は稗田の館にたどり着いた。御者は、私をそこへ降ろすと、逃げるように立ち去っていった。

 館には、隼人の民が、庭先に数人たむろしていた。彼らは、私の姿を見て、胡散臭そうにしていたが、それでも、咎めたてする様子はなく、私が、奥のいつもの部屋に通るのを、邪魔したりはしなかった。

 部屋の奥に、礼が静かに座しているのが見えた。その姿は、いつもと違い、より老けて、小さくなっているように感じられた。一人の若者が、礼の耳元に口を寄せて何事かを囁く。礼はきっと目を上げて、若者に声をかける。私の位置からは、礼が何を言ったか聴き取ることはできなかったが、しゃがれた老女のような低い声が、若者を叱責するように鋭く発せられたのは分かった。若者は、床にひれ伏すように、礼の膝下にうずくまった。それは、あたかも、畏れ敬うかのようだった。そして、礼が若者の肩にそっと触れるやいなや、彼はすぐさま立ち上がり、私と入れ違いに部屋を出ていった。取り巻きの仲間達も後を追い、一緒に館を出ていくようだ。静寂が戻った。

 私は、促されて、礼の前に腰をおろした。

「お戻りになられたのですね。」

 少し微笑みながら、礼はそう言った。優しい口調だった。いつもの礼に戻っていた。

「いつかは、こんなことがあるものと思っておりました。」

「すみません。予告もなく戻ってきたので驚かれたでしょう。」

「いいえ、途中で牛車の向きを変えられたことについては、すぐに知らせが参りましたし、戻ってこられたことを責めているのではありませんわ。本当に、いつかは、戻ってこられると思っていたのです。それに。」

 礼は辺りを見回すようにしながら、

「あの者達が出入していることは、秘密でもなんでもありませんし、あなた様に隠そうとしていたわけでもありません。日が沈むのが近づくのをきっかけに、いつもあなた様がお帰りになるので、あの者たちがこれまで目に触れることがなかっただけなのです。」

「隼人の民ですね。」

「ええ。先ほどの若者は、磐井イワイといって、私の世話をしてくれている者です。いつもと異なり、あなた様がここに戻って来られたので、私のことを心配してくれて、お引き取り願おうかと尋ねてきたのです。それに。」

 少し微笑んで、

「今宵は、あの子のために特別な物語をして聞かせる約束をしていたものですから。」

「それは悪いことをした。恨まれますね。」

 礼は首を振る。

「いえいえ、長く辛い思いをしてきた者は、事情が変わることにも寛容なのです。諦めや妥協ではなく、あるがままに受け入れるのです。彼らの心は強く、少々のことでは他人や世の中を恨むことはありません。それに、イワイに話をして聞かせる機会は、これからも、いくらでもありますしね。」

「あなたと隼人の民とのつながりは? なぜ、彼らはここにやって来るのですか。」

  目を伏せ、悲しげな表情で礼子は呟く。

「彼らは、遠く離れた故郷を追われ、同じように行き場を失った私と一緒に都にやって来たのです。」

「あなたも、元々は筑紫の島の出と伺いました。一体あなたの身に何が起こったのですか。聴かせてほしい。今宵は、あなた自身のことを教えてください。あなたのことを、もっと知りたいのです。そのために、私はここに戻ってきたのです。」

 礼は、首を横に振って答える。

「話せば長くなります。今宵一夜で語り尽くせるものではありません。それに、自分のことは余り話したくないのです。」

「それでも、聴きたいのです。」

 何度も押し問答を繰り返した挙句、ようやく礼は話すことを承諾した。ただし、他の古ごとと違い、聴いたことを文字に残さず、何も記録しないことが条件である。


 サクマの国、「アタ」の里に暮らしていたのが、隼人の民です。

 彼らは、わけあって、ナの国に全員で移り住み、ナの国を治めていた女王に仕えました。女王の名は、アメノヒノミヲ様といい、星月日の動きなど天地の理に詳しく、卜占など古の術にも通じ、神仙の妙薬なども扱い、不思議の力で人心を掌握し、長く国を治め、守り、繁栄させてきました。ヒノミヲ様は、御心が広く、何事にも寛容で、国中の民から好かれ、頼りにされていました。一方、女王として当然のことでしょうが、敵対する者には容赦なく、厳しく強硬な面もありました。国の隆盛はとどまるところを知らず、海の向こうの遠い異国の地にまで兵を送り、勢力を更に拡大させようとしていました。異国の人々は畏れおののき、恨みを募らせていたに違いありません。

 ナの国は栄え、多くの民が集まり、今の都のように賑わいました。ナの国がヤマ一の国と呼ばれていたのもこの頃です。幸せな日々が、いつまでも続くものと誰もが思っていました。

 しかし、永遠などというものはないのでしょう。やがて、ナの国の繁栄ぶりを妬む周りの国々との小競り合いが各所で起き始めたのです。異国との交易で力を付けた「イト」国や襲建ソノタケル王が治めるオオクマの国などが、隙あらばと国境を狙っていました。隼人の民がよくこれを防ぎ、国を守ってくれていましたが、長い戦さや派兵の負担は、民の暮らしや心を疲弊させていました。

 ところで、ヒノミヲ様には、ナ国の南に接する隣国の「クナ」の国を治める弟王がおられました。名をスサヒコ様といい、体が大きく、力が強くて、勇猛果敢な方でしたが、一方で、粗暴で気難しく、時折、誰かれ構わず喧嘩をしたり、建物や道具を打ち壊すなど、面倒を起こして、多くの民から煙たがられていました。ヒノミヲ様は、スサヒコ様の猛々しさを頼もしく思いながらも、日頃の粗暴な振る舞いや、民から好かれていないことを随分気にされて、この後も王としてやっていけるか心配しておられました。そのため、ヒノミヲ様は、機会あるごとに、静かに諌めながら、王としてこうあるべきということを根気よく教え諭しておられました。

 ある時、日頃から女帝の統治を快く思っていなかった、先代の王の頃からナ国に仕えてきた古参の臣下たちが、スサヒコ様を担ぎ上げ、ヒノミヲ様に反乱を企てました。純朴なスサヒコ様に、民が疲れ苦しんでいるのは、ヒノミヲ様が長年にわたり大陸の異国と戦さを続け、ことごとく失敗しているせいだとたきつけて信じ込ませたのです。恐らくは、争っていた異国の差し金によるものでしょう。ヒノミヲ様さえいなくなればと信じたのではないでしょうか。裏切者の臣下たちは、異国から、なんらかの見返りを約束されていたのかもしれません。

 スサヒコ様の兵がいよいよナ国に攻め入ろうとしていました。戦いになれば、双方に大きな痛手が生じるのは目に見えていました。そのため、ヒノミヲ様は、無用な争いを避けようと考えれました。ヒノミヲ様は自らヤマの岩山にある洞穴に身を隠し、一旦王位を退いて、ナの国をスサヒコ様に譲り、治めさせる決意をされたのです。この機会に、スサヒコ様が自分の役割、進むべき道を自ら見いだすことを期待されたのかもしれません。

 身近な臣下の者たちは大層反対しましたが、ヒノミヲ様の決意は堅く、王位は、無駄な流血もなくスサヒコ様に継承され、争いは収まったかのように思われました。しかし、心配したとおり、やがて間もなく、スサヒコ様の威を借りた逆臣たちの横暴が目に余るようになり、政事は疎かになり、国は荒れ果て、民は貧困の中で、国を憎み恨むようになっていきました。ナの国の暗黒時代と言ってよいでしょう。そして、かつてヒノミヲ様に仕えた古参の重臣たちは耐えかねて、スサヒコ様に反旗を翻しました。

 隠遁していたヒノミヲ様に実情を訴えて再興を促し、老齢の者が多い重臣たちとその家来たちに対して、士気を鼓舞する歌舞を披露して、人心を掌握し、反乱軍を組織してこれを率いたのは、ウズメという名の若い聡明な娘でした。ヒノミヲ様が日頃から最も信頼し、ご自身の実の子のように可愛いがっておられた娘です。

 長い争いの末、ヒノミヲ様を再び王位に戻すことに成功しました。ヒノミヲ様は、スサヒコ様を罰するようなことはありませんでした。スサヒコ様は、自身の不明を恥じ、国を捨て、一人「ワ」の地へ移り住む道を選ばれました。ワの地の中心は、今は出雲と呼ばれています。

 ヒノミヲ様が再び王となられ、国は落ち着きを取り戻しましたが、ヒノミヲ様は、平和な日々が決して永遠のものでないことを思い知りました。スサヒコ様のことがあったので、ヒノミヲ様ご自身も、重臣たちも、いざというときに、誰が次の王にふさわしいか大変悩まれました。話合いを重ね、ウズメが次の女王に選ばれました。王位だけでなく、知恵や異能も全て授けるという意味合いで、娘は「壱与イヨ」と呼ばれました。イヨは、ヒノミヲ様の下で、王となるための教えを受けました。同時に、様々な神秘の異能を授けられました。

 さて、話は少し変わりますが、ヒノミヲ様が、他の国のことも含めて、世の中の動きをいつでもよく知っておられたので、人々は、はるか遠くのことを見通せる妖しの力をお持ちと信じていましたが、実は、多くの遁甲者つまり「忍び」をワの地や「リュウ」の島はもとより、はるか海の向こうの異国にまで遣わして、新しい知恵や変事の知らせを受けていたのです。隼人の民の多くも、その忍びの役割を果たしたのでございます。

 忍びからは多くの情報が寄せられました。その中に、アガリの果ての「根るや金いネルヤカナイ」の地の伝説がありました。ネルヤカナイは、南の海の潮の流れに乗ってたどり着く遥か彼方の伝説の国でございます。海から上がると、遠くに蓬莱の山を臨む肥沃な土地が広がっており、人々が平和に暮らしているとのことでした。そこには民を支配する王はおらず、民はお互いの信頼の下で結びついており、国の中も、他の国との間でも、争いなど全くない国です。の国とも呼ばれ、選ばれた者だけが、死した後にたどり着くことのできる永久とこしえの地といわれていました。

 忍びからの報告を聞くにつけ、ヒノミヲ様は、ネルヤカナイを見つけ、そこに住みたいと思うようになっていました。ネルヤカナイを治めることで、為政者としての理想像が全てが完璧になるような気がしていました。そうして、ついに、ヒノミヲ様は決心なさいました。あとをイヨに任せ、百名の伴の者を引き連れて、ナの国を離れ、日向の港から船で遠いアガリの理想郷を目指したのでございます。

 そして、ネルヤカナイと思しき地にほど近い伊勢にたどり着き、新たな国を開きました。ヒノミヲ様がその呼び名を変えた伊勢以降の物語は、あなた様もよくご存知ですよね。

 ヒノミヲ様がいなくなられた後、イヨはよくナ国を治めました。また、長年戦さを続けてきた海の彼方の大国「魏」との和平を実現し、友好の証として金の印璽を贈られました。絶大な権勢を得ながらも、民を威圧したり、虐げたりすることなく、力ではなく和をもって国を治めました。重臣たちも、イヨの信頼に応え、政事を営んでいました。そのため、イヨは、政事の表舞台に出ることは余りありませんでした。いつも控えめで、先王のヒノミヲ様の影を追うように、これまで築き上げられ守られてきた平和なナ国を、主に祭祀を通して受け継いでいるようでした。

 しばらくは大きな出来事もなく平穏に過ぎました。ところが、ある年の春突如大きな地震が二度にわたり起こり、その後余震も頻発し、多くの民が地面の割れ目に吸い込まれたり、建物の下敷きになるなどして亡くなるなど被害は甚大で、凄惨を極めました。その上、その混乱に乗じて、卑怯にもオオクマのソノタケル王がクナの国を超えてナ国に攻め入ってきたのでございます。

 隼人の民が国を守ってよく戦いましたが、しばらく平和と繁栄を謳歌していたナの国の民は争うことを望みません。争いよりも国の復旧・復興に腐心し、それが精いっぱいでした。繰り返し攻められてナ国は存亡の危機に陥りました。やがて民の飢えと困窮は限界に達し、絶望が民の心を覆いました。イヨは、悩み苦しんだ挙句、民を救い守るため、あえて地震と戦で荒廃したナの国を放棄し、新天地を見いだすことにしたのです。生来の土地を離れたくないとしてナの国に残った者もいましたが、多くはイヨに付き従いました。隼人の民も、その一団に加わり、陸路、ワの地の彼方を目指しました。近隣の族国の長であり、若い頃の忍びの経験からワの地の事情に詳しく、イヨの信頼も厚い「猿田の翁」が案内役を買って出ました。猿田の翁は、その後も、父のように、或いは兄のように、イヨを支え続けました。

 イヨの一行は、行く先々で厄介ごとに巻き込まれるなどして、民もやがて散りぢりとなってしまいました。苦労に苦労を重ねて、なんとか伊勢にたどり着くことができましたが、イヨが故郷を捨ててまで守ろうとしたナ国の民は、指折り数えるほどに少なくなっていました。イヨの嘆き悲しみは深く、故郷を離れたことの後悔は尽きることがありませんでした。また、伊勢は決して安住の地というわけではありませんでした。ヒノミヲ様は既にこの地を離れ、都に移っておられたからです。頼りを失って、民は路頭に迷いました。ナ国の民は皆、余所者と虐げられて、地元に古くから住んでいる数多くの豪族たちの中で身を隠すように暮らしてきました。

 時が経ち、ナの国の民の末裔の一人であった私は、隼人の民とともに都に移り住み、洛外のこの屋敷でひっそりと暮らしてきたのです。


 長い物語が一段落した時、外は薄明るくなっていた。私は礼に告げた。

「疑うわけではありませんが、あなたの話はにわかに信じることができません。第一に、筑紫の島にナという国が栄えていたなどということを聞いたことがありません。都のように賑わっていたというなら、攻め滅ぼされたとしても、その跡が残っているはずでしょう。そのような場所を私は知らない。」

「信じるか、信じないかはあなた様次第です。でも、知らない、聞いたことがないということが、直ちに、なかったということにはならないのではありませんか。不埒に他を侵し虐げた者が、その事実を無かったことにしようと思えば、どうするでしょう。跡を隠し、民を黙らせ、記憶や記録から消し去ろうとするでしょうね。」

「国をまるごと隠すことなんて、どだい無理な話です。隠せば、その跡もまた残るでしょう。全てを消し去ろうと思えば、全体を覆い隠して、いささかも元の姿を思い起こさない、そして、決して動かすことのできないほどの強固な建物などで蓋でもしない限り……、あっ! だざい……。」

 礼がすっと側に寄り、唇に指先を押し当てた。

「都の方が、めったなことを口にされてはなりません。」

 少し微笑んだ。愛らしい少女のような笑顔だ。私は、続けて尋ねた。

「仮に、ナ国があったことが真のことであったとしても、それは大昔のことでしょう。あなたの話は、あたかもつい最近の出来事のようだ。今見て来たかのようなお話しぶりは、納得のいく説明が付かない。失礼ながら、そもそも、あなたは一体お幾つなのですか。承知しているあなたの経歴からすれば、あなたは私より歳がずっと年上のはずですが、私は時折、私と同じくらいか、もっと若いのではないかと思うことさえあります。」

 礼は口元を衣の袖で隠しながら、ほほほと笑った。

「前にもお話ししたとおり、私に時の流れは関係ありません。今は昔であり、昔のことと感じる事柄も今この瞬間のことなのです。信じてはいただけないでしょうが、私が今までお話ししたことは、私が今ここにいることと同様に、全て私の身の周りで起こった真のことなのです。」

 話を聴きながら、ふと、礼は、実はイヨその人なのではないかとの思いが湧き起こった。そのようなことは、あり得ないと思いながら、私は、否定する言葉を見つけることができない。逆に、妄想を信じたいとさえ思っていた。ひょっとすると、礼はいつまでも老いず、永遠に生き続ける魔物なのかもしれない。私は、すっかり礼の不思議に魅入られていたのである。怖れはなかった。むしろ、知れば知るほど、心が安らぐのを感じた。真に苦労を知る人のみが醸し出す、底知れぬ優しさがひたひたと心に沁みいってくる。

「あなたのことをもっと知りたい。あなたの知っていることの全てを聴かせてください。」

「お話しすることはやぶさかではありませんが、私自身の話など、あなた様のお仕事のお役に立たないなのではありませんか。あなた様は、結末が決まっている八百万の神々の古ごとをおまとめになられるのでしょう。」

「もちろん、古ごとも伺います。けれども、それより今は、あなたのことを知りたい。もっとあなたに近づきたいのです。」

 私は、礼をぐいと引き寄せ、抱きしめたい衝動にかられた。気持ちを抑えられず、私は礼の手を取り、幼く可愛らしい者に言うように、「阿礼」と呼びかけた。

礼は少し微笑み、私の胸にそっとしなだれかかって囁くように言った。

「都の方々が、私の語る古ごとを、この世から消し去ってしまおうとお考えのように、私にまつわる物語を何もかも聴いてしまえば、あなた様も私のことをお見捨てになられることでしょう。」

 私は、首を横に振る。礼が続ける。

「けれども、あなた様のお気持ちは分かりました。全てを聴いていただきましょう。もう、後戻りはできません。時を超えて、終わりのない長い物語になりますよ。全てをお聴きになるお覚悟はありますか。」

 私はうなづき、もう一度「阿礼」と呼びかけ、礼の魂が手元を離れ、時の闇に沈んでいかないように、礼の細い体をひしと抱きしめた。礼に抗う様子はなかった。腕の中で、礼が妖しく笑っているのを私は感じていた。

 夜は、すっかり明けていた。

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