第210話

 清々しい朝だった。

 清志郎は軽く伸びをしてベッドから下りると、すぐ傍らの棚に置いた写真立てを覗き、微笑んだ。


「おはようございます、母さん、今日も綺麗ですね」


 そこにいるのは幼い頃の彼を抱く、実母、皐月である。

 穏やかに笑い合う二人の姿。

 清志郎が心から幸せだった、遠い昔の記録である。


 清志郎の朝は早い。

 小鳥のさえずりとともに目覚め、カーテンから射し込む光を浴びながら、バイオリンを奏でる。

 皐月が好きだった曲だ。

 清志郎は今日、この曲でコンテストに挑む。

 

 外のうだるような暑さも、蝉の大合唱も、まるで嘘のように、清志郎がいる空間には入り込めない。

 爽やかで、穏やかで、澄みきった音符が室内を満たす。


「おはようございます、清志郎様」

「おはよう、皆さん、ご機嫌よう」


 上品な光沢のある黒のジャケットとスラックス、それと同色の蝶ネクタイに飾られた白いカッターシャツの襟元。

 コンテスト用の晴れ着に身を包んだ清志郎は、すれ違うメイドたちに丁寧な挨拶をしながらダイニングに向かう。

 その広いテーブルの端と端には、朝食が用意されている。

 一方は清志郎、そしてもう一方は……。


「今日は僕、なんだかとても身体が軽いんです。きっと素敵なことが起こる前兆だ。母さん、必ず聴きに来てください、あなたのために奏でます」


 清志郎は右端の椅子に座り、スープを混ぜながら時折前を見て話す。

 しかし、その突き当たりにある左端の席には、誰もいない。

 それでも清志郎は話し続けた。


「そうだ、母さんに紹介したい女性がいるんです。きっと気にいるはずだ……え? ……なんだ、ヤキモチですか? 困った人ですね、心配しないでください。僕の一番はずっとあなただけですから」


 清志郎が記憶障害と人格障害を患い始めたのは、父が母を殺害する現場を目撃してからだった。

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