第26話

 瞬きする間のささやきに、あゆらは息を止めた。

 

「帝くん、早く参りましょう」

「今朝は帝くんのバイオリンを聴かせてくださるお約束ですわ」

「うん、そうだったね、すぐ行くよ……じゃあね、岸本さん」


 そう言って微笑する清志郎の顔を、あゆらは直視できなかった。

 足音が遠のいてゆく中、胸が痛くなるほど動悸がし、吐き気をもよおした。


 ——知られていた。気づかれていたのだ、清志郎に、何もかも。

 それを悟った時、あゆらは恐怖のあまり逃げ出したい気持ちに駆られた。

 昨日バイオリンの練習部屋で見たことが、夢であったならどれほどいいかと思ったが、清志郎の幼さを残す声が改めて現実だと知らしめた。


 まさか清志郎に暴力はやめてと直談判するわけにはいくまい。そんなことで素直にやめるような人間ならば、そもそもあんなひどいことはできないだろう、それくらいはいくら世間知らずなあゆらにも推測できた。

 後は美鈴本人と直接話をしてみて、何かいい案を探る選択肢しかないとあゆらは考えた。


「……情けないわ、こんなことで」


 清志郎の威嚇だけで震える手足を見て、メスを突きつけられた美鈴の恐怖はどれほどだったのかと思うと、あゆらの心臓がきしんだ。

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