8月20日(土)#1
帰る日の朝は、永い永い夢を見ていたような気分で目が覚めた。
アラームが鳴る、6時半よりも前。ぱっちりと目覚めた私は、むくりと身体を起こした。
あっという間のようにも感じると同時に、駅に着いた1週間前のことを思い出すと長かったとも思う。
部活は今日の夕方から再開するため、午前中に電車に乗って帰らなければいけない。さすがに1週間も空いたあと、しかも一旦目を背けた問題に向き合わなければならない休み明け。それはそれは憂鬱だった。
それでも、行動すると決めたのだから。ネガティブモードではいられない。
距離を置いて果たして部内の関係が少しでも前向きに変わるのか分からないけれど、いい方向へ向かうように考えられるだけの余裕はできたのは確かだ。間違いなく、彼のおかげで。
布団をたたむと、裏側にいぐさがくっついていた。それを軽く払ってから、シーツと枕カバーを外す。
この畳を踏む感覚も、しばらくおあずけだ。フローリングとはまた違う、独特のやわらかさを足の裏で充分に味わってから和室を出た。
今日、またこの日常から遠ざかる。
微かに軋む廊下、ふわりと風に揺れる庭に面したカーテン。この1週間ずっと目にしていた光景を通り過ぎて、脱衣所に向かう。
シーツと枕カバーを洗濯機に放り込むと、「お世話になりました」と小さく呟いてぱたんと蓋を閉じた。
「おはよ……えっ」
リビングに入って、目の前の光景に思わず足を止める。
驚いた。ワイドショーが流れるテレビの前で、新聞を広げている父の姿。いつも休みの日は、8時ぐらいまで寝ているのに。
「え、なんでこんな早いの?」
「んー」
「お父さん、駅まで送ってってくれるって」
台所から出てきた母が、何も言わない父に代わって答えてくれた。
歩いて行ける距離なのに、どうやら私を駅まで連れていってくれるらしい。
一瞬の間を置いて「ふーん、珍しいね」と返したものの、照れくさい気持ちが勝って素直にありがとうとは言えなかった。向こうもそれは同じなようで、新聞から全く顔を上げようとしない。
そんな私たちを見て、母が「2人とも素直じゃないんだから」と苦笑いした。
寮生活に慣れたと思っていても、やはり帰る日は寂しい。
今生の別れでもないのに、この時間、空間を噛み締めるようにゆっくりと朝食をとった。「なんだ、体調悪いのか?」と父に心配されるほど。
大学に入る時もこんな感じだったっけ、と思い返そうとしたけれど、確かあの時は初めて親元を離れ、街中で生活することにひたすらワクワクしていた。便利なコンビニもおしゃれなカフェも大きなショッピングセンターもすぐ近くにあって、行きたい時にすぐ行けるのだと舞い上がっていた可愛い私。
実際のところ自由に使える時間は少なくて、思い描いているようなオシャレな生活はできていないぞと教えてやりたい。
最後の晩餐のような気持ちで朝ごはんを平らげた後、7時半前には身支度を済ませた私は昨日のうちにまとめておいた荷物を持って玄関に向かった。
帰ってくるのに履いてきて、ここにいるときは1回も履かなかったスニーカー。下駄箱の下のスペースに隠すように置いていたのを引っ張り出して、足を突っ込む。
向こうに戻ったらまた運動靴ばかりの生活が始まるんだなと、まだ家にいるのにホームシック。
靴とトレードするように、ここでずっと履いていたサンダルを片付けようと手に取ると、足先の方にわずかに泥が付いていた。
―― 昨日の神社の……。
そう思うと、なんともいえない感情がせり上がってくる。
〝何も言わずに、ちょっとこのまま〟
たった1日―― まだ、数時間しか経っていないのに。もうあの温度を忘れかけている。
初めてあれだけ近くで聞いた、鼓膜を震わす柔らかな声。直接触れた頬の感触。それから、私を抱き寄せた腕の優しくも強い力。
すべての感覚を振り払うように、サンダルを下駄箱に片付けた。
「どう、しっかりリフレッシュできた?」
靴紐を結び直していると、いつのまにか母が後ろに立っていた。今からまたしばらく会えなくなるとは思えない、いつも通りのテンションなのが母らしい。
「んー、だいぶね。鈍りすぎてないかなってちょっと怖いけど」
そう笑ったけれど、冗談抜きで2キロぐらいは太った気がする。でも贅沢なことに、美味しい手料理があって、手が伸びるところにお菓子があって、今までの休みを取り返すようにひたすらゴロゴロしていたのだから仕方ない。
今日の練習はさぞかし辛いだろうなあ、と自業自得ながらため息をついた。
「まあでも、紗代にも久しぶりに会えたし。あと新しい友達もできたから」
良い休みだった。本当に。
初めて会った日は秘密にしたくて、言わなかったはくびとの出会い。正直、友達と言っていいのか怪しいけれど。
向こうにとってはそこまで思っていないかもしれないし、けれど私にとっては…今はもうそれ以上。抱き寄せられた意図は、未だに分からない。
「新しい友達?」
「うん。私よりちょっと年上ぐらいの、色白で顔のキレーな人」
「へえ」
「超かっこいいよー。大学の方でもあんなイケメンなかなか見たことないかも」
きゅ、と綺麗な蝶々結びができて、立ち上がった。
つま先をトントンと叩きながら振り返ると、母が不思議そうな顔をして私を見ている。
「かっこいいって……男の子?」
「うん」
「昨日、花火してたのもその子?」
「あ、そうそう」
「……今、この辺りに若い男の子住んでないと思うけど」
そう言った母が、「誰の話?」と首をかしげた。
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