転がり落ちる



「ローゼリアはどうだ。どこかへ嫁にやれるだろうか」

「父上、余計な口出しは嫌われますよ」

「そうよ、まだ十日も経っていない。やっと屋敷に慣れてきたところでしょうに。これからゆっくりでいいですよ」

「む、それでは遅くないか。縁を逃すかもしれない」

「実の娘じゃないんですから。父上が勝手に縁談を決めたら、もうそれで終わりでしょう」


 ローゼの結婚の話をしているようだった。

 何も知らないうちに、侯爵に結婚を決められてしまうところだったのだろうか。あるいは、まだその危険は去っていない?

 ローゼは、侯爵一家にはやはり気を許せないと、気持ちを引き締めた。





「仕方ないわよね。お母さんとギムレイさんにとっては、十六歳の成人した娘は大きすぎるコブで新婚の邪魔だし、侯爵家にとっては、行き遅れにしてはいけない手のかかる親族の娘だもの。どうせなら利益のある縁談にしたいわよね」


 侯爵家に来た当初は特に、夜眠る前にそんなことを自分に言い聞かせてばかりいたけれど。


 あのまま実家にいても、ローゼだけがきりきりと怒ってばかりで、家の中が楽しくなかっただろうと、もうわかっている。

 母が、ローゼを追い出したのではなく、少し心にゆとりを持てたら帰ってきていいと思っていることも、もうわかっていた。

 でも、二人は夫婦だが、ローゼは二人の娘ではない。

 南の街の屋敷も、侯爵家も、ローゼにとっては自分の家ではない。

 ローゼは自分の足元が、川に流される落ち葉のように頼りなく揺れるのを感じた。


「どこか、違う街に行きたい」


 一人で、まずは根っこを張りたい。

 どっしりと、嵐にも雷にも揺らがない、強い安定感が欲しい。


「その前に、アルバイン様を一目見てみたい」


 心の中で押し合いへし合いしている重たい気持ちの間から、ひょこりと芽を出した希望だった。


 侯爵夫人に、騎士団の見学に行きたいと恐る恐る申し出ると、夫人はにっこりと笑って、仔細は聞かずに全ての手配を整えてくれた。

 腕の立つ女性の護衛、騎士団の訓練を自由に見られるようになるというメダル、王宮までの馬車と御者……。

 侯爵家に住まわせてもらうことになってから、遠慮ばかりしていたローゼは、この時だけは心からの感謝を述べて、ありがたくすべて使わせてもらった。

 そうして。

 これも夫人から聞いた、騎士たちをひとりひとり見定めることのできる、王宮裏手の小道を見通せる木の陰の窪みで。


 ローゼは目当ての人物を見つける。

 上級騎士の騎士服の色は青灰色。地削獣部隊だから、肩紐の色は小麦の色の金。アルバイン少年は、少し癖のある青みがかった黒髪をしているとギムレイは言っていた。

 該当する人物は、一人しかいない。

 でも――。

 ギムレイの話の中では、いつもアルバインは少年だった。

 ローゼの想像の中でも、アルバインは、ローゼとほとんど背の変わらない、背は高いが線の細い少年の姿だった。

 けれど、二十代になった実際のアルバイン・コルティスは。


「お、大きい」


 アルバインは、体格のいい騎士たちの中でも頭が半分飛び出るほど背が高く、肩幅は広く、太い首と肩は盛り上がった筋肉が丘を作って繋いでいる。騎士服に包まれた腕も、脚も、布をピンと張る逞しさ。胸には何か詰まっているのかと疑うほどの盛り上がりがあり、ぎゅっと締まった腰はローゼの腰二人分はあるだろう。

 ギムレイも、ランドリックも上背があるが、しなやかな若鹿のような体つきだ。

 比べれば、アルバインは彼らより立てた指一本ぶんほど大きいだろうか。


 隣に立って見上げる想像をして、ローゼの両腕に鳥肌が立った。一瞬、腰が萎えかけた。

 生まれて初めて、男性を美しいと思った。

 上から下へ、下から上へ。

 何度もつぶさに眺めるうちに、ローゼの息が自然に上がっていく。

 熱が出たかのように、顔が熱い。耳も、目も、燃えるようだ。空気が薄い。なぜ。

 もう一度全身を眺めて、最後に顔を見た。

 生真面目そうに唇を結んでいたアルバインが、別の騎士に何か礼を言われて、ふっと笑う。

 その顔に、心臓までが、燃え上がった。





「あ、あの……!」


 他の騎士と離れて歩き始めたところに、ローゼは意を決して声をかけた。このまま見送っておしまいになるのは、嫌だったから。

 本当は一目見て去るつもりで、声までかけるつもりはなかったのに。

 でも、もしも言葉を交わせるなら、ずっと言いたかったことがあった。


 ずっと憧れていて、励まされていて、会いたくて。


「あっ」


 言いたいことは、雪の名残に濡れた石畳に滑って消えた。

 次の瞬間には、大きな両手でほぼ浮き上がるほど支えられていて。

 その、揺らがない力強さと安定感。大地に全てを預けて寝転がるような、安心感。

 おまけに、彼からほんのわずかに流れてきた温かな風が、甘い。鼻の奥から、脳を侵すほどに、甘くて、香ばしい。


 ローゼの視界には、もうアルバインしか映っていなかった。

 アルバインの視界にもまた、ローゼしか映っていないと信じた。

 咄嗟に伸ばした手が触れたアルバインの上腕は、熱い。同じ生き物とは、信じられないほどに。

 彼にもっと近づいて、彼の筋肉にもっと触れて、確かめたい。


 ローゼは、恋の淵に転がり落ちた。

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