名を知る栄誉



「ご令嬢、俺に貴女の名を知る栄誉をくれないか」


 はっと、彼女が息を呑んだ。

 止まっていた涙が再びぷっくりと湧き出てくる。


「……ローザリア・ゼンゲンと申します。……アルバイン様、私を知りたいと思ってくださって、あ、ありがとうございます」


「ローザリア」


「でも、アルバイン様にはどうしても、ネフィリア、と呼んでいただきたかったのです」


 そう言って、彼女は目元どころか全身を真っ赤に染めて、震える両手で俺の上腕を優しく撫でた。




 ローザリア・ゼンゲンという名には、俺がどれほど万全の状態で推理をしようとも、たどり着けなかっただろう。


 ネフィリアという名は、ゼンゲン侯爵、現在の騎士総長の母親の名として、古い身上書に記されていた。亡くなってしばらく経つので、貴族年鑑にはその名はない。

 貴族の令嬢は、十の歳を過ぎる頃には愛名を持つのが一般的だ。ただ、兄弟しかいない俺には、この発想がなかった。家族だけが知り、恋人や伴侶だけが呼ぶ限られた名。貴族年鑑には載ることのない、ごく私的な情報だ。


 ローザリアがゼンゲン侯爵の娘か、あるいは縁のある貴族の令嬢だとして、愛名として侯爵の母の名を貰うのは、自然なことだろう。

 だが、肝心のローザリア・ゼンゲンという名は、貴族年鑑には載っていない。

 ゼンゲン侯爵の一番新しい身上書には、奥方と息子、つまりランドリックの名しかなかったはずだ。








「正真正銘の従姉妹だよ」


 なぜか頬を腫らしたランドリックがぶすっとそう言った。

 全身の強い打ち身と右上腕の骨のヒビだけで済んだ俺は、五日後には自室での療養に切り替えていいことになり、今日が退室の日だ。

 片手で片付けを始めようとしていた時、ランドリックはふらりと、いやよろりと現れたのだ。


「線が細くて病弱だった叔父は、空翔馬騎士になりたかったのに反対されて、十と過ぎた頃に家を飛び出て平民の従者として入団して、メキメキ強くなってさ、小柄なのにそれはもう活躍したそうだよ。でも結婚してすぐの任務で、事故にあったんだ」


 将来を有望視されていた空翔馬部隊の若き騎士が、結婚したばかりの妻を残して亡くなった話を、かつて師に聞かされた覚えはあった。その残された妻が産んだ娘を、騎士の兄にあたるゼンゲン侯爵が引き取ったらしい。


「ローザリアを正式に養女にするのは義叔母君に断られたし、叔父の結婚は貴族として届け出られてなかったから、貴族年鑑には載らないな。ずっと南の領内に母娘で住んでいたんだが、二年ほど前に義叔母君が再婚されて、ローザリアだけ王都に出てきたんだ」


 彼女の母君は薬香師らしい。彼女のくれた香り付きの石鹸は、母君手製のものだったということだ。


「ローザリアは騎士が嫌いで」

「は!?」


 思わず声を上げた俺に、ランドリックはますます面白くなさそうに、腕を組んで指をトントンと動かした。


「母親を置いて死んだ父親に思うところがあったのと、母親の再婚相手の騎士には自己管理が下手すぎると呆れてたのと……それに僕は軽薄だと思ってそうだし、父上は、まあ騎士である前に典型的な貴族だからな。僕がローザリアにエスコートを許してもらったのは、お前を呼び出したあの時だけだ。あのせいで、お前を傷つけて怪我をさせたと、昨日侯爵家で会ったらそれは怒ってて」


 これだよ、と腫れた頬を指差す。

 そう言われれば、赤く腫れた中心部についた手形は男のものではない。


「まあ、俺が余計なことをしたのは確かだし。二度目だったから、甘んじて受けたさ。俺、これでもローザリアがお前のこと好きだと気がついて、取り持とうとしたんだ。お前が変な女に絡まれていると思って離れさせようと思ったら、まさかそれがローザリア本人だとはな。思わないよな。

 でもその時は、お前に筋肉目当てのおかしな女だと思われたってわんわん泣いてさ。困ったな、あれは。俺はすぐに遠征に出かけなきゃいけなかったし。

 いやあ、最終的にくっついてくれてよかった」


 俺が絶句している間に、何故かランドリックは俺の荷物を取り上げて、さっさと扉に向かった。


「父上が、お前の療養の間、ゼンゲン侯爵家に招待するって。友人の家に来るつもりで気楽に来いってさ。一応僕は、お前にとっては断れないから命令になるぞっていったんだけどね」

「……は?」


 飲み込めない。

 まだ薬が抜けていないのだろうか。頭が動かない。

 と、ランドリックが急に振り返って、据わった目をした。


「お前さ、何気にめちゃくちゃ評価されてるよ。元からの勤務態度も真面目で、地削獣との信頼関係がすごいって? あとこの所、騎士団内のいい加減に扱われてた申請書だの書類管理だのを一気に合理的かつ効率的にしたって聞いた。真面目すぎるのが心配だったけど、壁を打ち破ったようだって、おっさん連中も嬉しそうでさ。

 僕は引き合いに出されて、たまったもんじゃない。ウカウカしてられんぞ、とかさ、うるさいんだ。わかってるっての」


 俺は固定された腕をぶら下げて、呆然としていた。

 今ランドリックが話しているのは、誰のことだ?

 反応しない俺に鼻息を吐いて、ランドリックは片腕を腰に当てた。

 ぐっと動く筋肉は、男の目から見ても美しい。騎士としていい体をしている。その体を維持するのはランドリックの努力なのだと、今更気がついた。俺はこの時、初めてランドリックという人間を見たのかもしれない。


「ま、長い付き合いになるだろうから、今はいい」


 端麗な顔をにやりと歪めて、ランドリックは今度こそ戸口から出ていくと、入れ替わりに誰かを部屋の中へと促した。


「僕は、従姉妹の幸福と、将来の優秀な副官を確保できそうなことを心から喜んでるんだ。だから忠告。侯爵家うちに来る前に、二人でよく話し合いな。

 父上はさ、朴念仁だから。恋だの愛だのは後から育てればいいって、本気で思ってるんだよね」


 ――外堀は、埋まってると思っといて。


 軽い音を立てて扉が閉まった。

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